1922年(大正11)に撮影された、島津源吉邸Click!の台所の写真が残されている。大熊喜邦Click!が島津家から要件やアイデアをヒアリングし、当時は最先端だった台所用の家電製品類を中心にすえ、「電気応用台所」として設計したものだ。(冒頭写真) 大熊喜邦自身が1922年(大正11)に発行された『婦人画報』12月号へ、島津家の設計実例や経験をベースに「新しい台所の設計と設備」と題する、4ページにわたる論文を発表している。ちなみに、大熊喜邦はこの時期、上落合470番地の吉武東里邸Click!のすぐ近くに住んでいたと思われ、島津源吉邸の建設では国会議事堂と同様、吉武東里とともにコラボ設計・建築にあたっている。
 大邸宅である島津家の事例は、調理用の家電製品を導入することにより、女中の数を減らすことを目的としたものだ。一般の中流家庭では、女中を雇わなくても主婦だけで効率よくスピーディに台所仕事ができるようにすることを目的に、家電製品の積極的な導入が推奨されていた。当時の家庭では女中を雇用すること、すなわち月々の人件費が家計を大きく圧迫していたことがうかがわれる。でも、家電を導入できる地域は大正期、まだまだ都市部に限られていた。
 電燈線Click!は、ほぼ全国的に張りめぐらされていたが、より電圧の高い電力線Click!はいまだそれほど広範にはいきわたっていなかった。電力線が近くになければ、電燈線よりも強い電力を必要とする家電製品類は導入できない。それでも導入したければ、電燈会社へ申請して自費で電柱を建て、電力線を引っぱってこなければならなかった。つまり、かなりの経済力のある邸宅でもない限り、電燈線しか配線されていない地域では、消費電力の大きな家電は導入できなかったのだ。家電を製造する各社は、この課題を解決するために大正末から昭和初期にかけ、電燈線の低電圧でも稼働する廉価な家電製品Click!のR&Dを、積極的に推進することになる。
 1922年(大正11)発行の『婦人画報』12月号の記事から、大熊喜邦の文章を引用してみよう。
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 そこで良い理想的台所の設計としては、電線の敷設が最も注意すべきものとなるのであるが、電気は日本の現状に於ては、今日まだ一般に使用する事が出来ない。それは値の高い計りでなく。器具の製作についても幼稚でないとは云へないからである。それにも増して不便な事は、多少経済的に高価を支払つて他の方面に於て償ひ得るとしても、電流の供給を受けるのに、今日格外な金の支出を要求される事が頗る多いからである。一方に折角家庭の電化若くは台所の電気設備応用が研究され奨励されても、電流の供給が、他方に於て頗る不自由である様な状態では、台所の電化は多くの金の力に依らなければならぬ事になつて、女中にしの台所、即ち最も活動すべき主婦の持つ台所には、遂に其の利用が出来ない事になる。
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 当時は欧米製品が主流だった家電だけでも高価なのに、それを使用するためには製品価格の何倍もの支出を覚悟しなければ使えない地域が、いまだ全国各地に存在していたのだ。大熊喜邦は、台所の電化を推奨しつつも、家電自体が高価で使用するにも多大な出費が発生する地域が多い現状では、一般家庭では現実的でないとしている。「家庭電化の研究に従事せらるゝ専門家に対し、主婦の肩に掛る仕事を減らす立場から、充分考究を望」むと書いた。
 大熊は、電化された便利な台所を想定する以前に、それが多くの家庭で設備的にも経済的にも無理な現状を踏まえ、理想的な台所を建築設計の側面から考察している。理想的な台所の姿として、「食物の研究所である台所としては次の様な条件が必要」として、6つの項目を挙げている。
 ◎光線と空気の充分なること。
 ◎無駄な運動を省くこと。
 ◎清潔にして掃除の行届く様にすること。
 ◎管理の経済的なること。
 ◎無駄な骨折を省くに適当な器械的装置をすること。
 ◎最も新しい計画たること。
 大熊喜邦が考える台所の意匠とは、今日のキッチンに求められる仕様とたいしてちがいはない。また、大熊は台所と食堂が接した間取りを推奨し、その空間で発生する主婦(あるいは女中)の動線図面までを作成している。この想定動線にもとづき、台所のもっとも効率的かつ合理的な設備配置をデザインしている。大熊の思い描く理想的な台所は、次のような意匠をしていた。
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 かゝる点から見て、其の壁面、床面は、耐水性でなければならぬ。而して総ての物の色は、薄い色を選ぶのが利益である。それは暗い色よりは、室内が快感を有する計りでなく、不潔物が易く目につき、掃除し易いからでもある。この点から壁の下の部分は、タイル張が最も其の要求を充たし、床としてもタイル若くはコンポジシヨンと称する合成材料を以て塗つたものがよい様に思はれる。また台所用卓子(テーブル)の上部の板、即ち甲板と称へられる板も、アルミニーム張、白色陶器張、若くは乳白硝子張を用ふれば、昔風の木の甲板より不潔を除く点に於て優れたものとなる。シンクも亦耐水性材料を以て作ることが肝要で、それには鋳鉄製琺瑯引(ほうろうびき)が良いが、価格の点から鉄打出製の琺瑯引が比較的便利である。また人造石の様なもので作つてもよいと思ふ。
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 台所から食堂へ、できた料理をすばやく運ぶ効率性と、食べ終わった食器類をわざわざ台所まで持ち運びする必要がないよう、食堂と台所の間に窓口をふたつ設けて受けわたしをし、窓口の下に設置された台所側の流しで次々と洗浄できる合理性とを備えた、主婦や家族、女中たちの動きを想定した台所-食堂動線図面を残している。そこに意識されているのは、主婦の台所仕事におけるリードタイム短縮と負荷軽減の2大テーマだった。
 また、台所に接した食堂とは別に、主婦の休息所(安息所)となる小部屋の設置も推奨している。その小部屋は台所との間に仕切りがなく、ちょっとした軽い昼食などもとれる軽食スペースとなり、また喫茶室や読書室などにも応用できるものだ。大熊は、当時としては斬新なこれらの設計仕様を、過去の因習や“決まりごと”、既成の権威的な習慣などにとらわれていては実現できず、すべてが常に斬新であり革新的な「計画」(試み)でなければならないとしている。
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 既成のものに無上の権威を認めて、之れに服従して背くことなきか、または既成のまゝに踏み止まつて居つては、全く静止的となつて、三度の食事以外に、主婦の用事はずんずん残つて行くばかりである。されば主婦の最も活動的に立働いて行かうとするには、未成のものに憧憬して、過去と現在とに満足することなく、新たなる台所の未来を実現せんと心掛けなければならぬ。かういう台所は、即ち奮闘的であり、革新的であつて、茲に能率的な真の台所が得られるのである。
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 このような発想により、当時の主婦たちは明治期からつづいていた、無駄な動作や立ち座りを繰り返さなければならない台所の“座り仕事”を脱し、既成の台所の意匠や仕事に慣れていた姑たちの文句・小言を聞き流しながら、働きやすいキッチンの思想や仕様を、次の昭和世代へと受け継いでいったのだ。たとえば、下落合では大正末に建設された近衛町・帆足邸Click!の台所などに、その典型的な姿を見ることができる。もっとも、帆足邸の場合は米国生活が長かった帆足みゆきClick!による設計思想が、台所のみならずコンクリート仕様の自邸全体に行きとどいていたのだが。
 
 大熊喜邦は、個人住宅の台所設計から国会議事堂まで、規模の大小を問わず実に多種多様な建築設計を手がけている面白い存在だ。当時は小学生だった吉武東里Click!の息女・靄子様が、上落合470番地の自邸で採れた落合柿を抱え、ほどなくとどけられる距離、つまり同じ落合地域に住んでいたと思われるので、詳しいことが判明したらぜひご紹介したいと思っている。

◆写真上:大熊喜邦が設計した、下落合2095番地に建っていた島津源吉邸の「電気応用台所」。
◆写真中上:左は、1922年(大正11)に大熊喜邦・吉武東里の共同設計で竣工した島津源吉邸。右は、洋館部(東側)の談話室から和館部(西側)へと向かうベランダ状の廊下。
◆写真中下:大熊喜邦が考案した、理想的な台所のデザインと立ち働きの動線図。
◆写真下:左は、台所脇に設置された主婦の「安息所」で家族が気軽に集うことも想定されていた。右は、1922年(大正11)の『婦人画報』に掲載された大熊喜邦の「新しい台所の設計と設備」。