明治末から大正初期にかけて、夏目漱石Click!邸に出入りしていた門下生たちで気の合う者同士が集まり、各自宅の持ちまわりで毎月飲み会が開かれていた。小宮豊隆、森田草平、安倍能成Click!、阿部次郎、柏木純一の5人も、そんなグループのひとつだった。このグループでは、「赤い鳥」社Click!の鈴木三重吉Click!は酒グセが悪いため声をかけていなかった。
 ところが、定期飲み会が開かれるちょうどその日に、三田の四国町にあった小宮豊隆邸へ鈴木三重吉が訪ねてきた。小宮は、そのまま知らん顔して三重吉を帰らせるのに忍びなく、飲み会に誘って6人でいっしょに飲んだ。しかし、さっそく酔いがまわりはじめた鈴木三重吉は、まず森田草平に因縁をつけはじめた。森田が相手にしないでいると、今度は主催者の小宮豊隆に突っかかりはじめ、小宮邸の普請や庭の悪口をいいはじめた。
 当時の小宮邸は、もともと妾宅として普請されたものだったらしく、建て坪はそれほど広くはないものの、造りや意匠のすべてがイキClick!で見栄えがよいものだったらしい。庭には泉水や燈籠もあり、小宮自身も気に入って住んでいたようだ。三重吉は、それが気に入らないとナンクセをつけはじめ、建てつけや造園の悪口をいいつづけた。他の連中が、三重吉に反対する感想をのべると、彼は激昂して小宮家で飼っていた子ネコを、庭の池の中へたたきこんだ。
 このあとは、もう座はメチャクチャになり、小宮が子ネコのことで三重吉を怒鳴りつけると、三重吉は急にポロポロと泣きだし、つづいて森田草平もなぜか大声をあげてオンオン泣きだした。それを見ていた安倍能成は、いきなり近くにあった桐ダンスへよじ上りはじめた。その様子を、1955年(昭和30)に角川書店から出版された小宮豊隆『人のこと、自分のこと』から引用してみよう。
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 すると安倍が座敷の隅に置いてあつた、箪笥の上に登り上がつた。安倍は箪笥の上で我我一座の者を見おろして洋服のままキチンと坐り、山上の垂訓をたれるのだと言つて、「子等よ子等よ」とかなんとか言ひ出した。酔つた安倍は乱に及んだ一座の空気を取り鎮める目的でさうしたのだらうが、桐の箪笥は安倍の巨体の下でミシミシ鳴つた。/阿部と柏木と私とはにやにやしてゐた。三重吉も森田もあつけにとられた形で、改めて酒を飲み出した。
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 この場面は、飲み会の座へ料理や酒を運んでいたのだろう、当時は新婚だった小宮豊隆の妻・小宮恒子も、おかしな安倍能成の姿を目撃している。1982年(昭和57)に出版された鈴木三重吉赤い鳥の会・編『鈴木三重吉への招待』(教育出版センター)から、彼女の証言を引用してみよう。
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 そのうちお酒のまわった安倍さんは、いきなり桐たんすの上にはい上られ、きちんとすわって、“山上の訓”を垂れるのだと言って、「子らよ、子らよ」と演説を始められ、新妻の私は驚いてしまった。お食事がすんで、二階の書斎で果物など召し上って居られるうちに、お話が議論となり、内容はわからないが階下まで聞こえる高声で、森田さんが怒っておられ、それに答える三重吉さんのお声が泣き声なので、私はただおろおろしていると、三重吉さんがおりて来られ、「僕はお先に失礼します」と言って帰ってゆかれた。/翌早朝、門をたたく音に起きたら、「昨夜は酔って大変申訳ない事をし、あなたはさぞ驚いたでしょう」と、鈴木さんがわざわざ謝りに来られた。文学者の人達とは、こんな方がたかと内心驚いたが、主人から草平の怒り上戸、三重吉の泣き上戸、次郎の笑い上戸は漱石山房Click!の三上戸といわれているのだと聞いて、やっと納得がいった。
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 小宮恒子は「お話が議論となり」としているが、内容は実にくだらない鈴木三重吉による小宮邸の悪口と、小宮がかわいがっていた子ネコいじめに端を発していたのだ。安倍能成は、甘いものClick!も好きだったようなのだが、酒もずいぶん飲んでいたらしい。
 安倍能成も小宮と同様、1912年(大正元)12月に結婚したばかりの新婚家庭だった。この時期、なぜ安倍が新約聖書のマタイ伝を暗誦していたのかはわからないけれど、聖書を開いてみる気になるような要因を、彼が結婚する以前に求めてみると、必然的にある“事件”が浮かび上がってくる。安倍の妻となった藤村恭子の兄が、1903年(明治36)に華厳の滝で自殺しているのだ。
 
 恭子の兄・操は、一高で安倍能成と同時期に在学した学生だった。ほかには阿部次郎、岩波茂雄Click!、石原謙、斎藤茂吉Click!、小宮豊隆、魚住折蘆、藤原正などがいる。16歳の藤村操が華厳の滝壺へ飛びこむ直前、滝上に生えていたナラの巨木に刻んだ「巌頭感」を全文引用してみよう。
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 悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躰を以て此大をはからむとす。ホレーシヨの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ、万有の真相は唯一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始(ママ)めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。
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 こう書き残して、藤村操は1903年(明治36)5月22日に華厳の滝へ身を投げた。この自殺に先立つ3年前、操の父親である藤村胖(ゆたか)も北海道の公園で自殺している。世の中は、高山樗牛を筆頭に「ニーチェ議論」のまっ最中だった。操の自殺直後から、彼のあとを追って自殺する青年が続出することになる。また、彼の遺書にある「不可解」という言葉がキーワードとなり、哲学の分野だけでなく社会のさまざまな場面で、「人生不可解」という言葉が流行した。
 余談だけれど、「人生不可解」というフレーズは親の世代にも活きており、なにか理解できない事象や、原因が不明な事態に接すると、つい口をついて出ていたように思う。特に、文学に興味のある若い子の間では、1970年代まで口にされていた言葉ではないだろうか? これと似たようなフレーズに、なにか説明のつかないことをしでかしたときにつかう、カミユの「太陽がまぶしかったから」というのも、1960年代の日本で流行っていたようだ。
 夫と息子を相次いで亡くした藤村家には、続々と一高生が弔問に訪れたが、操と親しかった安倍能成は足しげく通ってはまめまめしく世話を焼いた。このとき、のちに安倍夫人となる藤村操の妹・恭子は、わずか9歳の小学生だった。ふたりが結婚するのは、9年後のことだ。
 
 下落合の安倍能成は、当時は日本の植民地だった朝鮮の文化を称揚したり、軍部が口をはさむ高等学校教育の改悪(授業時間短縮と軍事教練強化)に一貫して反対したり、日中戦争の早期講和を近衛文麿Click!へ積極的に進言したりと、特高警察Click!ではなく高良とみClick!と同様に憲兵隊Click!から執拗にマークされていた。どこか筋金入りの自由主義者(リベラリスト)のイメージが強いのだが、謹厳さのどこかに剽軽さや洒脱さも持ち合わせていたようで、それが人気の高いゆえんだろうか。藤村操が自殺したあと、消沈する藤村家へ9年間も通いつづけた安倍は、不幸つづきの母親や好きな恭子の笑顔が見たくて、ついタンスへ上ってちょこんと正座していたりするのではないか。

◆写真上:1923年(大正12)から第二文化村Click!に建っていた、安倍能成邸跡の現状。
◆写真中上:左は、漱石門下生たちの記念写真で前列は小宮豊隆(左)と安倍能成(右)、後列は森田草平(左)と阿部次郎(右)。右は、文相時代か学習院長時代と思われる戦後の安倍能成。
◆写真中下:左は、第二文化村の三間道路で左手の奥が安倍邸跡。右は、日光・華厳の滝。
◆写真下:左は、一高時代の藤村操。右は、華厳の滝上のナラ樹に彫られた遺書「巌頭感」。

★「人生不可解」のフレーズは、下落合を舞台にしたドラマ『さよなら・今日は』にも登場しています。1974年1月19日に放映された、第16回「旅立ちのとき」の緑(中野良子)のセリフです。ヒヨドリの声が鋭い真冬の下落合、落合第四小学校のチャイムを背に相馬坂(だったと思います)を自転車で下る買い物帰りの緑が、もどってきた一作(原田芳雄)と出逢って転倒するシーンから始まります。買い物籠から出た、たくさんの紅いリンゴが相馬坂をゴロゴロと下まで転がるのが印象的でした。
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