1936年(昭和11)から翌1937年(昭和12)にかけ、落合地域には“情報の宝庫”ともいうべき貴重な資料がある。下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の四ノ坂上にアトリエをかまえた、洋画家・松本竣介Click!編集によるエッセイ誌『雑記帳』(1936年10月号~1937年12月号)だ。落合地域をはじめ、その周辺域に住んだ画家や作家、学者、評論家たちが随筆を寄せている。
 でも、『雑記帳』は古書店でも高価で、のちに発行された復刻版でさえかなり高くて手がとどかず、これまでご紹介する機会がほとんどなかった。つごう14号まで刊行された『雑記帳』には、このサイトでお馴染みの人々がこぞって執筆しており、落合地域に関するテーマも多い。この地域をご紹介するのに松本竣介の『雑記帳』を素通りするのは、あたかも「下落合風景」作品Click!を紹介するのに、佐伯祐三Click!の作品群Click!をパスするのに等しい感覚をおぼえていた。
 そこで、いっぺんにはとても無理なので、機会があるごとに1号ずつコピーを揃えていくことにした。創刊号の巻頭は、豊多摩郡渋谷町青山生まれの松本竣介Click!が父親の仕事の都合で子ども時代をすごした、岩手の宮澤賢治「朝に就ての童話的構図」からスタートしている。宮澤賢治Click!は父親の知人であり、竣介も子どものころに接したことがあるようだが、原稿の掲載時、賢治はすでに3年前に死去しており「朝に就ての童話的構図」は彼の遺作だ。
 そのほか、創刊号には武田麟太郎Click!、伊藤廉Click!、林芙美子Click!、藤川栄子Click!、木村秀政Click!、古澤元など、落合地域とどこかでつながる人々が執筆している。松本竣介は、子どものころ岩手で罹患した流行性脳脊髄膜炎がもとで聴覚を失っているので、編集方針や誌面構成は竣介が決定し、実際の原稿依頼や広告取りはもっぱら禎子夫人の仕事となっていたようだ。また、『雑記帳』のデザインやページに挿入されるイラスト類(竣介自身は、挿画は「カット」ではなく「デッサン」だと表現している)は、すべて竣介が毎月制作していた。きょうは創刊号の中から、下落合に住んだ作家・古澤元のエッセイ「借家」をご紹介したい。
 古澤元は、下落合や上高田、目白とこのあたりの貸家を借りて移り住んでいるが、下落合の因業大家にはずいぶん悩まされたようだ。大家といっても地元で暮らしているわけではなく、麹町区花房町に住む典型的な不在地主だ。大正末から昭和初期にかけ、郊外の住宅造成地では土地投機熱Click!が一気に高まった。目白文化村Click!を例にとれば、第一・第二文化村は土地の購入者がそのまま敷地に家を建てて住む例が多かったのだが、第三文化村が販売される1924年(大正13)ごろからは、自宅を建てないのに土地を購入する不在地主が目立つようになる。西武電鉄Click!の敷設が明らかになったころから、その動向へ一気に拍車がかかった。したがって、昭和10年代になっても、第三・第四文化村にはなかなか家が建たず、空き地が目立つような状況だった。
 
 昭和初期に起きた金融恐慌、つづいて大恐慌により地価が暴落したあと、不在地主は土地が値上がりするのを待つだけでなく、その上に貸家を建てて店子を集めるケースも増えていく。古澤は、下落合に建っていたそんな貸家の1軒に住んだようだ。同エッセイから引用してみよう。
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 (前略) 下落合の或る小学校の隣りに住つたときの家主はひどかつた。家主の家は、麹町の確か花房町にあつたと思ふが、そこの主人は貿易商で、アテネフランセにも関係してゐるとか云つてゐたので、それなら家賃のあがりで生活してる家ではなし、少しはさばけた所もあらうと思つて心勇んで借りたものだつた。が、借りてみると、じつに意外だつた、家作は東京の所々方々に大部(ママ)あるらしい様子だつたが、その家はみな主人の持ち物ではなく、その妻君(ママ)名義であつた。つまり、本当の家主は、そのさばけたやうな主人ではなく、かなり強度になつてゐるらしいヒステリー、マダムであつたわけだ。私は、この時はじめて公正証書といふものを知つたし、公正証書の代書料のべら棒に高いものだといふこともしつた。確かその代書料の三分の二ばかりの負担をうけて、大部の金をたゞ取りのやうに取りあげられ、目を覚ましたやうにこれは大変な家主に捕つたぞと、一時は貸借期間が一年といふ契約に公正したことなどまでも気に病み、追ひ立てられるやうな気持ちでせつせと家賃かせぎをしてゐたが、一日でもおくれると手酷しく催促されるので、後悔に似たものを感じてゐたものだ。
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 このあと古澤元は、ついに癇癪を起こして家賃を少しずつ滞納し、イヤ気がさして転居してしまうのだが、マダム大家はその転居先まで不足分を取り立てに人を頻繁に差し向けてきたらしい。古澤も不必要なカネまで騙しとられたと思っているから、マダム大家の借金取りにはまとめて支払わず、嫌がらせに少しずつ小出しにしては返していたらしい。ちなみに、当時の下落合にあった小学校は、落合第一小学校と落合第四小学校の2校だ。落合第二小学校は上落合であり、落合第三小学校は西落合なので、彼はどちらかの小学校に隣接した貸家を借りていたのだろう。古澤は、大森区馬込の文士村あたりでもイヤな大家と出会い、敷金をなかなか返還してもらえずひどい目に遭っている。

 
 麹町のマダム大家とは対照的に、目白の大家は「いゝ人」だったようだ。退役軍人だったらしいが、貸家経営(損得勘定)ができない人物だった。再び、古澤元「借家」から引用してみよう。
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 といふよりは勘定するのが面倒臭いらしい風だつた。日割勘定の月のもの、つまり借りた月と出る月の勘定は、何でも半端は切り捨てゞあつた。両方の月の切り捨てゞ十円近い金額をまけてくれたが、九十三銭の水道料は別だからとそれだけに力瘤をいれた勘定ぶりを、いま思ひ出しても可笑しくなる、一かど家主らしい見識をみせたつもりだつたらう。
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 つづいて、落合地域の西側、上高田の家主も親切だったようで、家賃が遅れそうになり待ってくれるよう頼みにいくと、その「誠意」をうれしがり別の安い物件を紹介してくれるような人物だった。
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 月末都合がつかなくて、断りに行くと、さう誠意さへみせて貰へばいつでも結構ですといひ、「うちでは、五十銭の家賃もあります」と内輪話までしてきかせた。五十銭の家賃ときいて驚いたが、借り手が哲学者だときいて、なるほどとも思つた。五十銭の誠意しかだせない哲学者だと知つてゝ、尚、家を貸してゐるこの家主も相当なものだとも思つた。----尤も、この家主は苦労人で、丁稚からいまはあの近辺随一の米屋をやつてゐる。
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 古澤の母親は、下落合の北側にあたる長崎地域に家を借りており、家族がまとまって落合地域とその周辺で暮らしていたのがわかる。母親の借家には、転居前まで駈けだしの若い作家が住んでいた。この作家は、書きそこなった原稿を窓ガラスに貼りつけるクセがあったようで、母親が借りたときもそのままになっていた。外から中をのぞかれるのがイヤだったのか、それともいつも室内を薄暗くして執筆に没頭したかったものか、古澤はやや気持ちの悪い印象を抱いている。
 
 当時は、家賃を満足に支払わず、家を汚していくばかりの迷惑な店子も多かったらしく、誠実な大家はかなり泣かされたようだ。同じ長崎地域には、アトリエ仕様の家を建てて若い画家に安く貸しだしたら、冬の寒い時期に壁板をはがされて焚き火に使われ、貸家を次々とボロボロにされたというエピソードが残っている。その画家が有名になり、あとで弁償したかどうかは定かでない。

◆写真上:1936年(昭和11)10月から翌年12月まで、14号発行された松本竣介・編『雑記帳』。
◆写真中上:左は、1936年(昭和11)10月の創刊号表紙。右は、1945年(昭和20)ごろに下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の自邸アトリエで撮影された松本竣介。
◆写真中下:上は、創刊号の目次。下は、創刊号のために描いた松本竣介の挿画。
◆写真下:左は、まるで芥川龍之介を思わせる風貌の古澤元。(撮影:土門拳) 右は、長崎地域(椎名町界隈)にいまも残る昭和初期の典型的な借家建築。