下落合584番地にアトリエをかまえた二瓶等Click!(二瓶徳松・二瓶等観)は、札幌市の北海中学校(現・北海高等学校)を卒業している。そして、1918年(大正7)に東京美術学校西洋画科へ入学。同級生には、のちに同じ下落合の住人となる佐伯祐三Click!や江藤純平Click!、また山田新一Click!などがいた。美校へ進むこの時期、実家が裕福だった二瓶は下落合に自邸兼アトリエをかまえている。中村彝Click!に師事し、彝アトリエから西へ200mほどのところだ。
 ところが、なんらかの事情が発生し学校へ通えなくなった二瓶等は、すぐに東京美術学校を退学。翌1919年(大正8)に、改めて同校へ入学しなおしている。だから、佐伯たちとは同期入学であるにもかかわらず、二瓶は1年遅れて東京美術学校を卒業した。でも、佐伯や山田との付き合いはその後もつづいていたらしく、佐伯の周辺にいた人々によってその姿が記録されている。
 また、二瓶は中村彝のもとへも親しく出入りしていたようで、彝自身も「二瓶君」については洲崎義郎Click!あての手紙(1920年7月21日付け)で、曾宮一念Click!のアトリエ建設Click!とともに言及している。彼は中村彝から、『女の像(少女像)』を直接30円で購入していた。二瓶自身は当時、光風会に所属しており、同会の展覧会や帝展などで作品を発表している。
 1921年(大正10)の秋に完成Click!したとみられる佐伯アトリエに、二瓶等も顔を見せている。同年暮れに佐伯アトリエで開かれたクリスマスパーティーClick!の様子を、1980年(昭和55)に出版された山田新一の『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版)から引用してみよう。
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 この晩の情景を思い起すと、何やら知らず思い出し笑いが、今も込みあげてきてしかたがない。その宵、集まった仲間で今も存命なのは、僅かに童画の大家となった武井武雄Click!、同じクラスメイトの江藤純平、そして札幌出身で、後に大連女子美の校長をし、現在、「新世紀」の委員をやっている二瓶等夫妻。もうそのくらいになってしまった。寂しい思いがしてならない。
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 二瓶は、下落合623番地へ佐伯と同年にアトリエを建てて住んだ曾宮一念Click!とも顔見知りだったようで、曾宮が一時期美術教師をつとめていた福島県まで、わざわざ会いに出かけたりしている。大正中期の下落合に在住していた画家たちと、積極的な交流をしていたらしい二瓶等なのだが、アトリエでの仕事のほか、数多くの「下落合風景」作品を残しているらしいことは、前回の記事Click!でご紹介した。しかし、渡仏直前の1927年(昭和2)に札幌で開いた個展を最後に、当時の二瓶作品の多くは“行方不明”となってしまう。おそらく、現存しているとすれば個人蔵となっていて、1927年(昭和2)以来、一度も公表されていないのではないかと思われる。

 二瓶等(等観)は、北海中学在学中に絵画好きの仲間たち3人とともに、「団栗会」という校内美術グループを結成している。この会は現在でも活動をつづけており、北海高校美術部の「どんぐり会」として100回以上の展覧会を開催している。このあたりの二瓶等に関する資料は、ものたがひさんClick!が調査された成果をお寄せくださったものだ。(いつも、ありがとうございます)
 2010年(平成22)に、北海高等学校の美術部が発行している『どんぐり会100回展記念誌』に掲載された、二瓶等(観)の文章「どんぐり会創立のころ」から引用してみよう。ちなみに、同寄稿文は1975年(昭和50)に発行された、同美術部の「65周年記念展パンフレット」よりの引用というかたちで、同誌に紹介されているものだ。なお、「どんぐり会」の65周年記念展(札幌大丸藤井ギャラリー2・3階)に、当時は新世紀会員だった二瓶等(観)は、『少女』と題する作品を出展している。
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 私共が団栗会をつくってからもう六十幾年。生き残りは私一人になりました。私共が北中に入学した時の図画の先生は森川と云う日本画の先生でしたが、二年になった頃東京美術学校(今の芸大)の西洋画科卒業の関精一と云う先生が来られ、本格的な油画や水彩画を指導してくれ、私共は作品を持ってよく御宅へ伺ったり、時には一しょに写生旅行にも出かけました。其のうち気の合った同級の山田忠郎、佐藤九二男、熊谷武二郎と私と四人で絵の会をつくろうと話し合い、団栗会と云ふ(ママ)名で発足。同好の諸君を集めて大正三年私共の教室で展示したのが始まりで、其の翌年八月頃、北一条西五十六丁目のある倶楽部を借りて第一回の公開展を開きました。此時、平沢大璋氏も小樽に居られたので特殊として作品を拝借、他に夢二氏の作品も借り、絵葉書を造り、入場料がわりにこれを売って費用にあてました。其の頃丁度石井拍旁(ママ)先生が来札された時で、わざわざ会場に見えられ色々御指導下され恐縮した事でした。
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 「石井拍旁」は石井柏亭Click!の誤植だと思われ、「夢二氏」は竹久夢二Click!のことだが、「平沢大璋氏」とはのちに帝国銀行椎名町支店Click!で起きた、いわゆる「帝銀事件」Click!の「犯人」として逮捕されるテンペラ画家の平沢貞通のことだ。
 
 二瓶等は、1923年(大正12)9月に関東大震災Click!が起きたとき、たまたま札幌にいて東京にもどれなくなり、1年半ほどの短期間、北海中学の美術教師をつとめている。
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 私が美校卒業期の夏札幌に帰省し、戸津校長の裏庭で一〇〇号の製作して居りました時、関東大震災の報で、東京に帰れませんので卒業製作を郷里でする事にしました。処、戸津校長から中学には絵の先生がいないのでこまって居るから後任の来る迄手伝ってくれとの事で、私の父からも説得すると云われたとの事で、私も卒業製作と云う仕事がありますので、午前中だけならと云う事で北中と札商の授業を引き受けました。絵の方にはことに力を入れましたので、其の結果でしょう。本郷新、井上智仁(一水会所属)、菊池精二、大西亥輔、山本周宇、宮崎、其の他の諸君や音楽家志望の連中等、よく私のアトリエに来られ、展覧会等も催しました。
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 そして、1925年(大正14)に東京へもどると、おそらく本格的な制作を再開し、その間の作品群を1927年(昭和2)の個展へ、一気に陳列していると思われる。二瓶が札幌で、渡仏前の個展を開いていたころ、下落合のアトリエは貸しアトリエとして入居人を募集していたようで、萬鉄五郎Click!が借りようとしていたいきさつは、すでに書いたとおりだ。

 
 その後、二瓶等は妻とともにフランスへと向かい、1928年(昭和3)の5月現在、パリのPax Hotelに滞在している。同年6月20日の朝早く、突然、二瓶夫妻は佐伯祐三の訪問を受けるが、早朝のためフロントで止められたせいか佐伯の来訪をまったく知らず、のちにホテルのマダムから佐伯が5フランを借りて出ていったことを知った。静養しているはずの佐伯が“行方不明”なのを知り、二瓶夫妻がリュー・ド・ヴァンヴの佐伯家へとやってきたのは、午後8時ごろのことだった。

◆写真上:下落合584番地の二瓶等アトリエ跡を、南側から眺めた現状。
◆写真中上:1915年(大正4)9月に札幌ローリー館で開かれた、第1回団栗洋画展覧会の記念写真。黄色の矢印が、団栗会を結成した二瓶等(当時は二瓶徳松)。
◆写真中下:左は、1975年(昭和50)に開かれた「どんぐり会」の65周年記念展の記念写真に写る二瓶等(観)。右は、晩年の撮影と思われる二瓶等(観)。
◆写真下:上は、1917年(大正6)に開かれた第3回団栗洋画展覧会の記念写真。下左は、2010年(平成22)に発行された『どんぐり会100回展記念誌』(北海高等学校美術部)。下右は、戦時中の1943年(昭和18)に札幌三越で開かれた第34回どんぐり会展の会場風景。