関東大震災Click!の直後から、「防災住宅」という概念が本格的に生まれている。明治期に建てられた建物においても、耐震・耐火の観点はすでに見られていたのだが、明治東京大地震Click!などの震災や火災があったにしては、きわめて幼稚で不十分なものだった。1923年(大正12)9月の関東大震災以降、昭和初期まで漸次形成される「防災住宅」の概念には、常に3つのテーマが意識されていた。すなわち、耐震・耐火・防犯だ。
 あめりか屋Click!の山本拙郎Click!は、「防災住宅」の実際について研究を重ね、1929年(昭和4)に具体的な提言とともにその概要をまとめた。同年に出版された『中流和洋住宅集』(主婦之友社)の巻末には、「耐震耐火建築と盗難除け」と題する文章が発表されている。そこでは、3つのテーマについて、それぞれもっとも効果的な施策を提言し、具体的な設計や建築材、工法、調度にまで踏みこんだ記述をしている。もっとも、これらの施策は当時の建築技術をベースに、大震災や犯罪などの教訓を踏まえているのであって、今日からみればその多くが時代遅れで通用しないだろう。でも、災害に対して当時の人々がどのように備え、思いのほか敏感に対応し、またその方法を深く吟味していた“姿勢”を知ることは、今日的にも大きな意味があると思うのだ。
 まず、山本拙郎は未曽有の被害をもたらした関東大震災を前提に、耐震住宅についてもっとも多くの紙数を割いている。彼の文章のほぼ4分の1が、住宅敷地のテーマに費やされている。そして、なによりも耐震住宅で優先されなければならない課題は「地盤」=立地だと位置づけている。次いで、その上に建築される住まいの構造が重要だとし、このふたつの課題を耐震住宅を実現するための基本的な要素だとしている。でも、関東地方の住宅すべてが、強固な地盤の上に建てられるとは限らない。山本は耐震住宅で最重要の地盤について、同書で次のように解説している。
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 しかし、これも、実際問題としては、交通とか、教育、費用その他の関係等により、地盤の強固なところばかりを求めることは、困難になつてまゐりますが、敷地を選ぶに方(あた)つては、なるべく地盤の強固な土地といふことを念としなければなりませぬ。もし地盤の軟弱なところでありますならば、充分にその基礎工事、即ち地形に注意すべきであります。(中略) この地盤の強固なところとしましては、勿論岩盤即ち岩石の上でありますが、これは実際問題として、何処にも求めることは困難でありますから、一般的には、赤土の地盤がよいのであります。たゞ、いずれの地盤にせよ、断崖の上下や、川沿ひの地等は、建物の敷地として、好いところとは言へません。(中略) また田圃跡とか、埋立地等も、住宅敷地としては避くべきであります。
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 これでは、首都圏のほとんどの地盤は上記いずれかの土地に該当し、「避くべき」住宅敷地となってしまいそうだ。日本橋や銀座は江戸最初期の埋立地だし、東京郊外だった落合地域は急峻な崖線が走り、昔から平川(のち神田上水)が流れ、そのほとんどの土地が田畑跡ということになる。山本は、強固な岩盤が求められない以上、せめて富士山などの火山灰が時間をかけて堆積した「赤土」=関東ロームを選び、その上に建てる住宅の建築法へ工夫を施そうと提唱している。
 
 山本がもっとも推奨するのは、鉄筋コンクリート工法Click!による住宅だ。ただし、強度計算にもとづく鉄筋の本数や配置、柱の太さなど施工に誤りがなければ安全だが、計算に誤りがあったり施工に手抜きがあったりすると、コンクリート建築は木造住宅よりもはるかに重いのでかえって危険だ・・・と、きわめて今日的な「姉歯物件」的な課題にも触れている。もっとも安全な住宅は鉄筋コンクリート建築だが、次に安全なのが木造西洋館、つづいて平屋の日本家屋、次いで2階建ての日本家屋、もっとも危険なのは石造りのレンガ積み家屋だと規定している。
 山本は耐震住宅の設計にあたり、柱の建て方や筋違(すじかい)の入れ方、壁造りなどを詳しく解説したうえで、関東大震災で家屋倒壊の原因となった重たい瓦屋根についても触れている。
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 また瓦は、なるべく軽いものがよく、従つて銅板、亜鉛板等の金属板葺(ぶき)がよいのですが、防寒、防暑、外観の点から観て欠点があり、スレート葺や石綿板スレート葺は、耐久力がないので、やはり瓦がよいのです。赤瓦、緑瓦等の西洋瓦は、外観もよくて、効果は上質の日本瓦と同質であります。たゞ瓦葺は、震動のために辷(すべ)り落ちますから、それを防ぐために、一枚々々線鉄(ワイヤー)で結び、尻釘を打つやうにするか、または瓦の裏面に引掛りの突起のある、引掛桟瓦で葺くやうにすればよいのであります。
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 山本はトタン葺きやスレート葺きは推奨せず、あくまでも西洋瓦の屋根にこだわっている。確かにトタンやスレートには、彼がいうような欠点があるのだけれど、外壁や内壁からの防寒防暑の技術が発達し、屋根材の品質も飛躍的に向上した今日からみれば、やはり通常の瓦屋根は家の重心を高め、よほど地盤が強固な敷地ならともかく、震災時の倒壊リスクを増やす要因のひとつとなるだろう。このあたり、ハウスメーカーのあめりか屋としては、トタンやスレートの屋根よりも、輸入ルートをもっていた西洋瓦へ防災の工夫をほどこして普及させたい・・・という意図が感じられる。
 

 ここで「石綿板スレート」という用語が登場しているが、大正初期から使われている、曾宮一念Click!が表現するところの「布瓦」Click!に通じる屋根材だろうか? 同材は「耐久力がない」と書かれているので、おそらく震災前から普及している「布瓦」も同じ課題を抱えていたのだろう。
 耐震建築の記述に比べ、耐火建築について山本拙郎は非常にあっさりとした書き方をしている。すなわち、鉄筋コンクリート建築を採用して窓をスチールサッシにし、鉄の鎧戸を付ければ防火対策はほぼ万全という姿勢だ。木造家屋の場合は、外壁の下に防水フェルトと鉄網や銅板を張り、その上へモルタルを厚く塗ればある程度は防火に役立つとしている。ただし、このような工法は経済的負担が大きいのと、耐火への効果としては十分でないとし、木造建物に根本的な防火対策を施すには、土蔵のような建築にする以外にないとも書いている。あくまでも、鉄筋コンクリート建築がお奨めなのだが、16年後に起きた東京大空襲Click!では、金属をも溶かす高熱の大火流によって、コンクリート建築といえどもひとたまりもなかった。外壁はなんとかかたちをとどめたが、中身が丸焼けになったビルや住宅が続出している。
 防犯住宅について、山本は特に雨戸の設置法や窓の仕様、ドアや窓のカギについて詳述している。また、台所や風呂場、トイレなどの窓の外に鉄格子をはめ、ほかの窓には錠付きの鎧戸を推奨している。また、当時は先端技術の家庭用錠だったのだろう、「ボタン・ロック」や「ナイト・ラッチ」という西洋錠を紹介している。(あめりか屋で扱っていたのだろう) でも、おそらく山本が建てた顧客先の経験からなのか、いくらドアや窓へ厳重に防犯設備を施しても、錠をかけ忘れたり鎧戸や雨戸を開け放しにして泥棒に入られる、人為的なミスはどうしようもない・・・と結んでいる。
 
 落合地域の目白崖線は、地表を4~5mほどの関東ローム層に覆われている。基礎はコンクリートとはいえ、うちは脆弱な木造を主体とする3階建て住宅なので、まず建築士から提言されたのは4m下にある比較的固い粘土層まで、細い杭でもいいから何本か打ちこんだほうが比較的安全だ・・・ということだった。また、屋根は瓦ではなく、重心を下げる軽いスレートにするよう強く奨められた。山本拙郎が抱えていた本質的な課題は、現在でも変わらずそのまま生きつづけている。

◆写真上:山本拙郎が推薦しそうな、昭和初期とみられる鉄筋コンクリート製の西洋館。
◆写真中上:住宅の建設を待つ下落合の敷地は、どこも分厚い関東ローム層で覆われている。
◆写真中下:上は、昭和初期に朝日新聞社主催で開催された「朝日住宅展」出品の、コンクリート製1号型住宅(左)と10号型住宅(右)。下は、山本節郎が2番めにお奨めの木造型西洋館。
◆写真下:左は、木造家屋の耐震設計では一般的な筋違(すじかい)と燧(ひうち)の工法。右は、泥棒除けとして玄関などの錠として普及したらしい頑丈な鉄棒挿入式錠。