堤康次郎Click!が、大正初期から中期にかけて設立した株式会社の所在地、あるいは役員たちの名前を見ているととても興味深い。軽井沢や箱根、国府津など別荘地の現地事業拠点は別にして、設立時から大正末にかけ本社が落合地域へと収斂していく現象がみられるのだ。それは、堤の自宅が下落合575番地にあったことと、おそらく無関係ではなく、また会社の役員たちの住居もまた、落合地域とその周辺にあったことも深く関連していると思われる。
 堤康次郎Click!は早大在学中から、さまざまな事業に手を出しており、市街地の町工場を買収して講義の合い間をぬいながら、経営業務に出社するというようなことまでやっていたようだ。いまでは、あまりめずらしくなくなった大学生による起業なのだが、当時としては家業に関連した新しい事業を起ち上げるのではなく、学生がまったく純粋に企業を経営することなど考えられない時代だったろう。また、大学からつながる人脈ばかりでなく、下落合地域の人脈を掌握し、のちに事業発展の基盤を築いたことは周知の事実だ。
 まず、1917年(大正6)12月に設立した、沓掛遊園地株式会社から見ていこう。資本金20万円で登記されている、同社の本社所在地は落合村下落合575番地であり、堤康次郎の自宅の地番と重なっている。沓掛遊園地は、軽井沢など避暑地における遊園地(庭園)の開発および経営を行った会社だ。同地番の自宅は、1925年(大正14)に箱根土地株式会社Click!の本社が目白文化村Click!の開発を終了し、国立へと移転するまで存在したと思われるが、大正末になると堤が経営する駿豆鉄道の取締役だった長坂長の自宅へと変わっている。この向かいの家で、近所同士の奇妙な強盗事件Click!があった顛末は、すでに記事でご紹介したとおりだ。
 下落合における堤の持ち家は、下落合575番地の邸ばかりでなく、その周辺にいくつか展開していたと思われ、のちに遺族の回想では国立へ引っ越したあと、再び家族のみが下落合へともどって暮らしつづけていたことがうかがえる。(ただし下落合575番地ではないようだ) また、1945年(昭和20)夏のポツダム宣言受諾の直前、夜間には「行方不明」となった米内光政Click!の姿が下落合の林泉園あたりで何度か目撃されているのも、空襲で焼けてしまった海軍大臣官邸の臨時官邸として、麻布仙台坂の邸を提供していた堤康次郎が関与している気配を濃厚に感じるのだ。
 
 沓掛遊園地株式会社の設立に先立つ1917年(大正6)5月に、堤は東京護謨株式会社の設立に関与している。同社は、現在の落合水再生センターClick!のある落合村上落合前田136~147番地にあり、のちに火災が頻発するエリアClick!として有名になった神田上水沿いの工場街だ。同社の役員には、第一文化村に大きな邸をかまえる永井外吉Click!の名前が見えている。ちょうど、佐伯祐三Click!の「下落合風景」Click!の描画ポイントになった、目白文化村の前谷戸を埋め立てた北端に位置する区画だ。1932年(昭和7)に出版された、『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
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 東京護謨(株)取締役 永井外吉 下落合一,六〇一
 石川県士族永井孝一氏の二男にして拓務大臣永井柳太郎氏の従弟である、(ママ) 明治二十二年十月の出生、同二十七年家督を相続す。郷学を卒へるや直に業界に入り前掲会社の外、嘗ては駿豆鉄道箱根土地(ママ)、東京土地各会社の重役たりしことあり。家庭夫人ふさ子は拓務政務次官堤康次郎氏の令妹である。
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 堤の一族・学閥を基盤とした人脈の片鱗がうかがえるが、拓務大臣だった永井柳太郎も沓掛遊園地株式会社の重役に名を連ねている。永井柳太郎は、堤が大学を卒業後に社長をつとめた政治雑誌『新日本』の主筆だった人物で、その永井の従弟で堤の義弟となった永井外吉は、以降、堤が起こした企業のいわば常連取締役となっていく。
 次に、1919年(大正8)2月に資本金10万円で設立された千ヶ瀧遊園地株式会社も、沓掛遊園地と同様に軽井沢の別荘地における開発・経営を行っていた会社だ。本社は、大久保町西大久保18番地と落合地域の南側なのだが、同社の取締役にも永井外吉などお馴染みの名前が見えている。千ヶ瀧遊園地の本社は、箱根土地が開発した三光町の「新宿園」Click!まで、明治通りを南下してわずか1,000mのところ、陸軍幼年学校とは通りをはさんで西向かいにあった。
 
 
 また、1919年(大正8)11月に資本金100万円で設立された株式会社グリーンホテルは、本社が落合村上落合前田であり、これは先に設立された東京護謨株式会社の本社工場の地番と一致している。つまり、そのままグリーンホテルが昭和期まで事業を継続していたとすれば、同社は東京護謨株式会社の工場敷地内に本社が存在していたことになる。
 そして、株式会社グリーンホテルが設立される半年前、1919年(大正8)4月には箱根土地株式会社が資本金50万円で設立されている。初期の登記簿上の本社は、下谷区北稲荷町11番地となっているが、下落合1340番地の第一文化村東側、不動園Click!と名づけられた前谷戸Click!沿いの敷地へレンガ造りの本社屋Click!が完成すると同時に、同地へ移転していると思われる。おそらく、1921年(大正10)から翌年あたりにかけての移転だろう。同社が1925年(大正14)に国立へ移転する際、社屋を売却した相手先は中央生命保険(現・三井生命保険)だった。
 創立初期の箱根土地株式会社の経営陣は、それまで堤が設立してきた企業の役員構成とかなり重なっている。後藤新平を通じて紹介された社長の藤田謙一をはじめ、取締役は若尾璋八、前川太兵衛、永井外吉、吉村鐡之助、九条良政、九鬼紋七などが役員を引きうけている。また、“黒子”役に徹することが多かった堤康次郎自身も、同社ではめずらしく役員に名を連ね、1921年(大正10)10月に専務取締役へ就任している。役員の中に、九条良政の名前があるのがめずらしいが、彼は下落合753番地に住んだ九条武子Click!の夫・良致の、腹ちがいの義兄ということになる。
 
 1925年(大正14)に作成された「出前地図」(中央版)Click!を参照すると、下落合575番地とは異なる下落合735番地に堤邸が収録されている。この家は、九条武子邸Click!から西並びへ100mほど進んだ右手(北側)の位置にあたる。ところが、翌年の1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」では、同家は森田邸へと記載が変わっており、堤の名前が消えている。下落合575番地の家を駿豆鉄道取締役の長坂家にゆずったあと、堤康次郎邸はここにあったのかもしれない。

◆写真上:1925年(大正14)現在に堤邸があった、下落合735番地の現状。
◆写真中上:左は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」に採取された下落合575番地の駿豆鉄道役員・長坂長邸。右は、同邸跡の近くに残る古い蔵建築。
◆写真中下:上左は、1925年(大正14)作成の「出前地図」(西部版)Click!に記載された箱根土地本社。上右は、第一文化村に隣接した箱根土地跡(右手)の現状。下左は、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる上落合前田の東京護謨。下右は、現・落合水再生センターの同工場跡。
◆写真下:左は、1925年(大正14)作成の「出前地図」(中央版)に記載された下落合735番地の堤邸。右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同地番の界隈。