先日、ある方から1944年(昭和19)ごろに印刷・配布したとみられる、貴重な「淀橋区防護団・落合第二分団名簿」(萬世社印刷製)をいただいた。なぜ貴重かといえば、このような戦時の書類はほとんどが空襲で焼けるか、戦後に処分されてしまった例がほとんどだからだ。
 B6版のサイズで全40ページ(表1・表4を含む)、右側をホチキスで2ヶ所とめた簡易な小冊子なのだが、ことさら貴重なのは戦争末期に下落合は3丁目(現・中落合)から4丁目、御霊下の5丁目(いずれも現・中井)、上落合は1丁目から2丁目(現・上落合3丁目を含む)にかけ、防護団の落合第二分団に参加していた(組織化されていた)人々の名前と家々を、ピンポイントで特定することができるからだ。そして、一般的に「防護団員」あるいは空襲に備えた町内の「防空役員」と表現されている防護団そのものが、どのような組織割りでどのような班構成になっていたのかを直接知ることができる点でも、かけがえのない資料といえるだろう。
 まず、防護団落合第二分団の展開範囲だが、上落合の全域と、下落合側では下落合5丁目のほぼ全域、下落合3丁目および4丁目の中ノ道Click!から南側ということになる。このエリアから判断すると、隣りの防護団落合第一分団は下落合1丁目と2丁目(現・下落合)の全域、下落合3丁目と4丁目(現・中落合と中井)の中ノ道より北側ということになるのだろう。おそらく、西落合(旧・葛ヶ谷)は面積的にも広いので、落合第三分団が組織されていたように思われる。
 落合第二分団の分団長には、上落合2丁目577番地の高山治助が就任している。副分団長には、下落合4丁目1923番地の野口乙喜、上落合1丁目4番地の古屋芳行、上落合2丁目829番地の清水宗二の3名が就任している。また、顧問としては地域の相談役あるいは長老的な立場からだろう、上落合から小林亨次郎、福室鏻太郎、大島善作の3名が、下落合からは田中佐八、赤羽六三郎の2名が参加している。そのほか、庶務と会計の役職が設置されていた。ここに登場する人物名は、大久保射撃場の廃止・移転運動Click!にかかわった人たちが多く、町会の役員あるいは地域活動に熱心だった人々が中心になっているのだろう。
 おそらく、東京市街に設置された防護団組織はどこも共通しているのだろう、防護団には任務別に9つの班が置かれ、それぞれが空襲時における専門の役割りを担うことになっていた。すなわち、警護班、警報班、防火班、交通整理班、避難所管理班、工作班、防毒班、救護班、配給班の9班だ。1944年(昭和19)7月に日本軍守備隊が全滅しサイパン島が陥落すると、日本本土への長距離爆撃機による直接的な空襲が、より現実味をおびて想定されるようになる。それとともに、防護団による空襲の被害を想定した防空演習の頻度も、がぜん高くなっていっただろう。
 
 防護団の警護班は、空襲時のパニックを防止あるいは収拾し、治安を維持するための役目だったと思われる。警報班は、敵機の動きをラジオの東部軍管区情報などで常に把握し、また実際に敵機が視認できる場合は家の上階や屋根、火の見櫓などへ上ってその動きを監視する役目だ。池袋で防護団に参加していた武井武雄Click!は、この警報班に所属して上空のB29の動きを監視し、伝令や電話を使って防火班との連絡をとっていたと思われる。
 防火班は、実際に分団の管轄エリアへ焼夷弾あるいは250キロ爆弾が投下された場合、火災現場に駆けつけて消火を受け持つ班だ。防火ハタキとバケツリレー、ときには小型の消防ポンプを使って、炎上する家屋を消火するわけだが、空襲前に行われた防空演習でもっとも見馴れた光景が、この防火班の活動だったろう。ニュース映画や報道写真などにも、「備えはよいか、敵も必死だ」のキャッチフレーズとともに、その活動が頻繁に紹介されている。
 以前にご紹介した東日本橋Click!の防護団役員で、防空演習ではエラソーに団員や周囲へ威張りちらし(元・軍人だったのかもしれない)、いざ1945年(昭和20)3月10日に東京大空襲Click!がはじまると、よく情勢や被害も見きわめないうち防火ハタキやバケツ、小型消防ポンプを持って待機する班員たちをよそに、「退避~~ッ!」と真っ先に防空壕へ飛びこんで周囲から顰蹙をかったのは、この防火班ないしは警報班の班長だったと思われる。また、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、下落合の高良興生院Click!へたまたまやってきた消防自動車を、高良とみClick!たちがつかまえ消火活動を行ったのは、落合消防署の消防車であり防護団の防火班ではない。あとでも触れるが、B29による絨毯爆撃には、防火ハタキやバケツリレーなどほとんど役には立たず、防護団のメンバーを含めた住民たちは、爆撃や火勢から逃げまわるのに必死だったのだ。


 防護団の交通整理班は、避難する人々を統率したり緊急車両を誘導したり、あるいは混乱を収拾するのが役目だったと思われる。また避難所管理班は、管轄内にある防空壕の管理や大火事が起きた場合の避難場所の確保、工作班は防空壕や消火設備(消防ポンプや消火栓、天水桶など)の設置が任務だったろう。防毒班は、敵機から投下される爆弾に毒ガス兵器が使われた場合、その解毒や防ガスあるいは危険区域の指定などを、防毒マスクをつけながら行う役目だとみられる。さらに、救護班と配給班は、空襲被害でケガをした人々の治療や、避難した人たちへ必要品や食料を配る役目を担っていたと思われる。
 こうして、各班とも多様な演習を繰り返し空襲に備えたわけだけれど、実際に1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲、つづいて5月25日の第2次山手空襲Click!では焼夷弾が雨のように降りそそぎ、とても防護団が満足に活動できるような状況ではなかった。下町Click!の東京大空襲でも、担当区域にとどまりマジメに防火活動を行っていた人々が、火勢に囲まれて逃げ遅れ多数が焼死している。B29による住宅街や繁華街に対する無差別絨毯爆撃は、空襲の開始と同時にすみやかに避難しなければ生命が危うい、それほど容赦のない苛烈なものだった。
 防護団の落合第二分団が展開していた、上落合への空襲の様子を1989年(平成元)に編纂された『おちあい見聞録』(コミュニティおちあいあれこれ)から引用してみよう。ちなみに、同冊子に収められた空襲の証言者(上落合在住)は「3月」としているが、上落合全域が空襲で焼け野原となったのは1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲だ。おそらく、3月10日の下町が被害に遭った東京大空襲と、その後に行われた山手空襲Click!とを混同しているものと思われる。
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 (前略) 夢中で郵便局の前を通って、中井駅の方向に走りました。家族3人が手をしっかりと握り合って、そうだ、落二(今の落五小学校)へ行こう。そばまで行ってみると、校庭は真っ赤な火の海です。もとに戻ってバッケの原へ行こうと、のどが乾く(ママ)ので薬罐の水をかわるがわる口飲みしながら中井駅まで来ると、バッケの方から大勢逃げてくるではありませんか。どこへいっても、下落合方面からもこちらに逃げてくるのです。どのくらい時間がたったでしょうか。辺りを見まわすと、火はだいぶ下火になってきました。/空襲も終わったようです。急に家に帰りたくなりました。なにもかも全部焼けてしまった。放心というのは、あの時のことでしょう。(カッコ内は引用者註)
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 落合第二分団名簿を見ていると、各班員の名前の下にカッコで漢字1文字がつけ加えられている。「同」や「協」、「栗」、「下」、「田」、「大」、「三」、「若」の字がみえる。これは、その人物が所属していた地域の町会の略号と思われ、「同」は同志会、「協」は上落合協和会、「栗」は栗原親和会、「下」は下部親和会、「田」は前田親交会なのだろう。ただし、「大」「三」「若」の3つが不明なのだが、住宅が急増していった昭和10年代に設置された、新しい町会のやはり略号なのだろう。ひょっとすると、町会の名称は土地の字(あざな)からとられており、「大」は大塚(旧・上落合2丁目南部)、「三」は三輪(旧・上落合2丁目北部)の可能性があるが、「若」はちょっと想像がつかない。

◆写真上:1944年(昭和19)ごろに印刷されたとみられる「淀橋区防護団・落合第二分団名簿」。
◆写真中上:左は、任務ごとに分けられた班別の目次。右は、顧問や役員を印刷したページ。
◆写真中下:各班の班員名が住所とともに記録された、「落合第二分団名簿」の本文ページ。
◆写真下:左は、中井駅前で行われた落合第二分団による防空演習の様子。右は、1945年(昭和20)5月25日の空襲で焼け野原になった上落合の住宅街から西武線方面を眺めたところ。