明治中期から末期にかけてまとめられた東京の地誌本に、『新撰東京名所図会』(東京15区)と『東京近郊名所図会』(東京市郊外)とがある。これは、江戸期に長谷川雪旦Click!の挿画で斎藤家3代が記録した膨大な『江戸名所図会』Click!を模倣したもので、紀行文の合い間に挿画をあしらうのは同じだが、挿画も当然、モノクロ版画からカラー印刷になっている。また、挿画のほかに当時の写真が掲載されているのも貴重だ。同シリーズが重要なのは、『江戸名所図会』と同様に旧・江戸市街地のみならず近郊の名所や旧跡も訪ねている点だが、明治になって忘れられがちな江戸東京の伝承やフォークロアを書きとめている点も挙げられる。
 『東京近郊名所図会』(『新撰東京名所図会』の市外編なので復刻版では「新撰東京名所図会〇〇之部」と表現されることもある)で、豊多摩郡の落合地域が取りあげられたのは1909年(明治42)10月発行の第50号だ。同号には、『江戸名所図会』と同様の名所・旧跡も載っているが、明治以降に拓けた新しい風物や情景を取材しているのが面白い。たとえば落合氷川明神社Click!について、新しい『東京近郊名所図会』では戸山ヶ原Click!に駐屯する近衛騎兵連隊Click!の演習とからめて、次のように記述している。なお、引用文はすべて復刻版の記述による。
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 水田に臨む。盥石(たらいいし)よりは泉水溢れ落つ。之を掬(すく)うに清冷なり。たまたま兵士の餐後(さんご)こもごも来りて、飯盒(はんごう)を落泉の下に洗うを見る。社殿は瓦葺きしら木造りにて、境内老樹散立し、喬松五株社南に列す。
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 近衛騎兵連隊の兵士が、やはり近くで騎乗演習Click!をしていたのだろう、今回は落合遊園地(林泉園)ではなく氷川明神の近くで大休止し、昼食をとっていた様子が伝わっている。境内には泉が湧き、タライ型の石が湧水源に置かれていた様子がわかる。このタライ型の石が、具体的にどのような形状をしていたものか、「下落合丸山古墳」Click!の玄室石とのからみで気にかかる。
 氷川社前の雑司ヶ谷道を西へ進むと、目白崖線の随所に当時から別荘地が拡がっていた。この時期、御留山Click!の相馬邸Click!は建築直前なので存在せず、七曲坂Click!の大嶌邸もまだない。
 
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 本村より小上に至る沿道は南に水田を控え、北は高地に倚(よ)れるを以て一見別荘地に適す。されば徳川邸の外ここに居を卜するもの二三あり、其の他なお工事に着手し居るを見る。安井小太郎氏の三計塾は徳川邸の前通りに在り。
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 すでに、西坂の徳川別邸Click!が採取されているが、崖の上や下で工事に着手していたのは相馬邸や武藤邸Click!だったのかもしれない。安井小太郎の三計塾の話が出ているが、もちろん同塾を江戸期に主宰していたのは安井息軒であり、この時期、三計塾は麹町二番町から下落合へ移転してきている。「三計」とは、安井息軒が唱えたいまでもつかわれている格言で、「一日の計は朝にあり、一年の計は春(元旦)にあり、一生の計は少壮時にあり」からきている。塾生たちは、下落合で師・息軒の教えを実践し勉学に励んでいたのだろう。
 『東京名所図会』の著者は三計塾をのぞき、張りだした崖上の徳川別邸を見あげながら、雑司ヶ谷道Click!(途中から中ノ道)と呼ばれる、現在の新井薬師道を西へとたどっている。
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 落合辺は清水に富みしものと見え、噴井を有する茶店小上(こうえ)に二軒、本村に一軒あり、夏時の得色想像うべし。
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 字小上は、現在の金山平三アトリエClick!(旧・下落合小上2080番地)あたりで、明治期に水茶屋(喫茶店)が2軒あったことがうかがわれる。小上の下のバッケ(崖地)は、刑部昭一様Click!によれば戦後になっても金属の鉄パイプを突き刺すだけで、大量の水が噴出したというので、地下水脈がとても豊富な斜面だったのだろう。字本村に1軒とある茶店は、おそらく氷川明神社の境内にある江戸期からつづいていた水茶屋のことだと思われる。この茶店については、明治期に早稲田から下落合へ散歩にきた若山牧水Click!も記録している。また、旧家についての記述もある。
 
 
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 (宇田川家は上落合)六百六十番地に在る当地の旧家なり。現主を新右衛門という。門前榎の老樹あり。太さ二囲半、その門に左の如く表示せり。
 八十八ヶ所弘法大師御参けいの御方様へ夕けいよりちょうちんをさしあげます。
 大師の崇信者たることを問わずして知るべし。その南東高地に同家歴代の墓地もあり。
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 宇田川家の墓地は、のちに近くの最勝寺Click!へと改葬されたようで、大正期に目白文化村Click!の南側に住み、箱根土地へ土地を売らずにいろいろと嫌がらせを受けた宇田川家Click!、つまり現在は佐伯祐三Click!の描画ポイントClick!にお住まいで、佐伯展の図録づくりClick!ではお世話になった最勝寺の檀家である宇田川様は、その末裔のおひとりだ。ちなみに、落合地域に多い宇田川家は鎌倉時代までさかのぼれる、もともとは関東武士団の出自のようで、800年を超える歴史の中で落合地域に根づいてきたと思われる。おそらく、和田山Click!(現・哲学堂公園Click!)に館のあった、鎌倉武将の和田氏とのつながりが濃かった一族だろう。また、最勝寺の記述もある。
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 弘法大師堂、現在職は斉藤了渓師。本堂茅葺にて、前に高野槇の大樹あり。弘法大師堂は東に面す。門前に文化年間宇田川文蔵の建てし石標、大師堂南に宇田川銀之助寿蔵碑あり。共に前記宇田川家のものと知られたり。
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 わたしは、桜ヶ池不動堂Click!に気をとられて、近くの最勝寺の大師堂を見落としていた。もちろん、佐伯が描いた『堂(絵馬堂)』Click!のモチーフに関してのことだ。最勝寺も戦災で焼けているので、当時の写真が残っているかどうか不明なのだが、追って調べてみたいテーマだ。
 上落合から小滝橋Click!へと南下し、以前、石をぶっつけられたお姉さん幽霊の記事でご紹介した、お花畑の遊園地「華洲園」Click!も紹介されている。現在は小滝台と呼ばれる住宅街で、上落合の区画が一部入りこんだ高台のエリアだが、江戸期には「御成山」と呼ばれていたらしい。
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 御成山、華洲園は柏木停車場より北東三丁の処に在り四時の花卉(かき)を培養し縦覧に供す。園は凡そ一万五千坪ありて各処に花壇を設け、中央に温室あり、香色常に絶ゆるなし。其の地は神田旧上水渠の北西岸なる高所に倚り水田を一望し、風景愛すべし。園内四阿(あずまや)あり以て休憩すべし。亭しゃあり以て娯楽すべし。販売部の外、陶器の陳列所もあり。この地はもと御成山と称し、将軍啓行の地なり。
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 柏木停車場とあるのは現在の東中野駅のことで、ちょうど下落合の小島善太郎Click!が駅の踏み切り番として働いていたころの情景と重なってくる。バッケ堰Click!近くの水車小屋跡に、家族とともに住んでいた小島善太郎は、上落合を抜けて華洲園のある御成山の麓を歩きながら停車場へ毎日通っていた。御成山は、「御立場」Click!のある御留山と同様に徳川将軍が鷹狩りを催したか、その帰りに休憩しに立ち寄っているのかもしれない。御成山の西側にあたる小滝橋も、あちこちの斜面から泉水が湧いており、その小流れでラムネが冷やされている光景を著者は目撃している。

◆写真上:鎌倉時代に拓かれた、目白崖線下の鎌倉街道から分岐して鼠山へと抜ける黄昏の七曲坂。右手につづくコンクリートの擁壁が、旧・大嶋子爵邸が建てられた大正期からのもの。
◆写真中上:左は、1932年(昭和7)ごろに撮影された宇田川家の門前。右は、薬王院の崖地。
◆写真中下:上は、1980年代末に撮影された茅葺きの中井御霊社(左)と現在の同社(右)。下は、1955年(昭和30)に撮影された上落合住宅街(左)と、なつかしい風情が残る同住宅街(右)。
◆写真下:左は、山手通りの開通で境内が削られた最勝寺。右は、御成山・華洲園跡の住宅街。