中村彝Click!のアトリエClick!、のちに鈴木誠Click!のアトリエでもあった下落合464番地の建物が解体され、中村彝アトリエ記念館Click!の建設工事がスタートした。現在、同地番は更地になっており、解体されたアトリエや母屋の部材に関する再利用の可否選定、吟味が行われているのだろう。解体前の調査では、実にいろいろなことが判明している。
 そのひとつは、1929年(昭和4)に鈴木誠が彝アトリエを購入して、母屋を含めた増改築を行う際に、アトリエを改築Click!して不要になった部材をそのまま廃棄せず、母屋の建設へ再利用していることが判明している。特に、もともと彝アトリエに設置されていた窓が、鈴木誠によって新たにアトリエ西側へ建設された母屋の窓として再利用されていた事実を、調査にあたった建築家の方々からうかがった。今回のアトリエ記念館は、1916年(大正5)に中村彝がアトリエを新築した初期の姿を再現することになっているので、母屋の窓として活用されていた部材を、もう一度アトリエの本来設置されていた窓にもどしたい・・・という意向もうかがっている。
 今回の中村彝アトリエの再現は、彝がアトリエとして使用していた時代の部材の中で、そのまま活用できるものはできるだけ活かしながら、初期型アトリエを再建していくというコンセプトで進められている。アトリエばかりでなく、母屋に用いられていた部材にも再利用できるものが見られるとのことで、できるだけ新規の部材を減らし、1916年(大正5)現在あるいは鈴木誠アトリエClick!として利用されはじめた1929年(昭和4)現在の部材を、最優先で活用しようとする試みだ。
 これは建築史学の観点からのみならず、美術史学の視点からも非常に重要なテーマだ。できるだけ新建材を減らし、本来の部材を用いながら元の姿を再現することは、のちの美術史あるいは建築史の研究素材として“生の資料”をそのまま後世へ伝えることになる。外壁や柱のキズ、支柱に残る大工の墨書きや材木店の焼き印、窓枠の汚れや破損ひとつとってみても、そこにはなんらかの史的物語や経緯が宿っている可能性があり、また後世に判明するかもしれない新たな事実に関する“ウラ付け”としての、有力な証拠になる可能性さえあるからだ。
 同じ下落合の島津一郎アトリエClick!(文化庁登録有形文化財)のように、本来の姿をほとんど変えずに、お住まいの方がていねいなメンテナンスを繰り返されて残っている建築はきわめてまれなケースであり、現存している建築の木材や屋根瓦などを、できるだけ活かしながら再構築していくことが、もう一度繰り返すが、さまざまな研究や学術上でも必要不可欠なテーマといえる。現在では分析が不可能な部材や材質、塗装などの出所、あるいは消えてしまって現在の技術では確認できない文字や印なども、20年後には解析技術の進歩で容易に判明するかもしれないからだ。
 

 このように、もともと使われていた部材を活かしながら木造家屋を再構築することは、現在の建築あるいは防災(防火・耐震)に関する法律や条例を踏まえるならば、建築家の方々は非常に面倒でむずかしい課題や“しばり”を抱えることになるのだろう。できるだけ本来の姿を再現しようとすれば、常にそれらの法律や条例との板挟みになることは、素人のわたしにも容易に想像がつく。根津教会の再構築ケースでは、それら法律面をクリアするための申請や調整に、もっとも作業負荷やリードタイムがかかったともうかがった。でも、元の部材を活用しつつアトリエ初期の姿を再現してこそ、かけがえのない資料的な価値を高めることにつながり、学術研究の素材としても十分に活用できる可能性が、後世へ限りなく拡がることになると考えるのだ。
 さて、わたしがとても気になっていたテーマのひとつに、彝アトリエの岡崎キイClick!の部屋や台所へと通じるドアにペインティングされていた、なんらかの画像Click!の課題があった。この画像は、1925年(大正14)に発行された『ATELIER(アトリエ)』2月号に掲載された写真Click!から判明したものだ。今回の調査では、現存するドアをすべて赤外線カメラを使ってわざわざ検査してくださったが、ドアの下からなんらかの絵画あるいは模様が浮かび上がることはなかった。
 ご担当の建築家の方は、ひょっとすると写真そのものに起因するなんらかの影ないしは汚れではないかともいわれたが、わたしや同席した美術家の方は、やはり彝が残したなんらかのドアペインティングのように見えている。ひょっとすると、1929年(昭和4)に鈴木誠アトリエとして改築される際、ドアの塗装を一度すべて除去し、表面をきれいにしたあと、改めてベージュがかったグレーペンキが塗られているのではないかと想像している。ただしこの課題も、より高精細な赤外線カメラ、あるいはより高度な透過技術が開発されれば、微かな痕跡をたどって“謎”が解明できるかもしれず、当初のアトリエドアを後世に残してこそ可能性をつなぐことができるテーマだろう。
 

 もうひとつ、彝アトリエの庭に繁っていた“緑”のテーマがある。できるだけ樹木を残してほしいという要望はお伝えしたが、これも種々の建築法あるいは防災法などと絡む課題があるかもしれない。また、一度はすべて解体し初期型アトリエを再構築する際には、重機などの設置や建築資材の搬出・搬入があるため、邪魔な樹木は撤去する必要もあるだろう。現在の状況は、南の門脇にある1本を残して、他の樹木はすべて撤去されている。
 この撤去が、タヌキの森Click!ケースのように、将来的に緑地公園化を実現して再び樹木を植えもどすために、生えていた既存の木々を一時避難的に近くへ移植しているものか、あるいはまったく新しい樹木を植え、従来の樹木はほとんど用いられないのかは不明だけれど、もし後者だとすれば再びアトリエの周囲に緑が繁るまでには、それなりの時間が必要となるだろう。ただし、彝アトリエが建設された1916年(大正5)の当時、庭に植えられていた樹木をできるだけ忠実に再現したい・・・という、建築家のみなさんの意向はうかがっている。
 それら樹木の中で、彝の作品や物語と絡めてもっとも有名なものに、アトリエの手前に植えられたアオギリと、林泉園Click!の桜並木に近い芝庭の南端に植えられたツバキがある。アオギリについては、現状のものは屋根をはるかに超える巨木となってしまっており、そのまま再構築される彝アトリエの前へ植えもどすのはおそらく困難だろう・・・というお話はうかがっていた。また、芝庭の端のツバキについては初期の計画図面に記載がなく、再現されるかどうかは不明だ。彝が暮らしていたころ、西側の勝手口に近い井戸の傍らに生えていた柿は、元どおりに再現されるようだ。
 
 中村彝アトリエに関しては、その保存活動の最初期から関わらせていただいた経緯Click!もあるので、ぜひ後世の美術史あるいは建築史の研究者が直接資料として参考になるよう、レプリカではなくホンモノの部材などにこだわって、可能な限りそのまま再利用してほしいと思ってきた。幸い新宿区のご担当や、再構築を手がける建築家のみなさんのご理解もいただけ、その方向性で事業が進展している。個人的な望みをいえば、アトリエ記念館がオープンする際には、タヌキも往来Click!する従来は豊かだった屋敷林の風情へ、少しでも近づけてくれればと願っている。

◆写真上:建物が解体され更地となった、下落合464番地の中村彝(鈴木誠)アトリエ跡。
◆写真中上:上左は、工事がスタートした8月ごろのアトリエの状況。上右は、茨城県近代美術館の敷地内へ復元されたアトリエレプリカの天井木組み。下は、1930年(昭和5)ごろの新築間もない鈴木誠アトリエと鈴木家の人々。母屋の右手には、中村彝が植えたアオギリが見えている。
◆写真中下:上は、アトリエに残るドアで、いずれかのドア表面になにかが描かれていたと思われる。下は、1930年(昭和5)ごろに撮影されたとみられるアトリエで制作中の鈴木誠。
◆写真下:左は、アトリエの前に植えられ巨木化したアオギリ。右は、1916年(大正5)の竣工直後に撮影されたとみられる中村彝アトリエ(震災前の最初期型)。