こちらでも以前にご紹介Click!した、落合第四小学校の校歌の作詞者が、1939~1941年(昭和14~16)に落四小へ在職していた、教諭の富永熊次であることが改めて正式に規定された。前回の記事中でも書いたが、1939年(昭和14)ごろ富永教諭が目の前で校歌を作詞している様子を、現場で目撃している元・生徒たちが何人もいるにもかかわらず、「紙」に記録された資料がないために、長い間「作詞者:不詳」とされていたものだ。
 このような史的な課題は、別に落合第四小学校の校歌に限らず、あらゆるところに存在している。エピソードがあった地域、あるいは事件があった現場で直接の目撃者が複数いるにもかかわらず、また、そのエピソードを記憶・伝承している地元の方々が多数いるにもかかわらず、「紙」として記録・保存された資料がないから「なかったこと」、または「不明」とされているケースだ。実際の体験者や伝承者が目前に数多く存在しているのに、「ウラづけ」となる「紙」資料ないしは「印刷」物がないので「なかった」「不明」とされる・・・、こういうのをなんと表現すればいいのだろう。すべてが書類の堆積で成立している、前世紀のお役所的な視座とでもいえばいいだろうか。
 まったく本末転倒の視点、認識法だといわなければならない。その「紙」資料や「印刷」物自体も、そもそも体験者や目撃者の記憶・伝承と、それに取材した人間の“消化”表現とをもとに作成されていることを忘れている。再度のケース引用で恐縮なのだが、江戸の町火消しには「へ・ら・ひ組」Click!はなかったなんて資料が、公的な文化行政レベルでもいまだに存在する。昔からの火消しの子孫でも、江戸東京を通じて記憶や伝承をしっかりと保有している地付きの人でもいいから、ちゃんと「当事者」に、ないしはそれが存在した“現場”に取材してほしい。
 「紙」資料がないから、史的にも「なかった」あるいは「不明」とする、“研究室引きこもり型”、あるいは“資料室入りびたり型”の没主体的で怠惰な姿勢は、ぜひやめてほしい研究スタイルなのだ。これは、どのような史的研究にも当てはまるテーマなのではないか。町火消しの「へ・ら・ひ組」は、明治期に採集された纏印や受け持ち範囲などの資料が、どうやらかろうじて見つかっているので、ようやく少しずつ訂正されはじめているようなのだが・・・。でも、ちまたに多く出ている流行りの江戸ブーム本などではいまだ訂正もされず、そのままの状態で出版されつづけている。それらを後世に図書館や資料室などで参照した人たちは、地元に“ウラ取り”しないまま相変わらず江戸に「へ・ら・ひ組」は存在しなかった・・・なんて研究成果を発表することになるのだろうか?

 今回の落合第四小学校校歌の事例も、まさに「紙」資料がたまたま見つかったから「認め」られた同様のケースだ。なぜ、当時の校歌制定の現場にいた当事者たちの証言があるにもかかわらず、「紙」資料へ絶対的に依存・盲信するのだろうか? 「紙」の記録になると、とたんに当事者や目撃者、現場を体験した人たちの証言や地域の記憶よりも、価値や信憑性が高くなるとでもいうのだろうか。だとすれば、もう一度繰り返すが少なくとも史的な研究においては、逆立ちしている視点だといわざるをえない。実際の目撃者や体験者、現場の記憶や地域の伝承をできるだけ多く(主体的に)採集・確認し、それを出発点(基盤)にすえるのが一義的な方法論だろう。
 これにより、先入観や錯誤(証言者からの情報自体の吟味をも含む)をできるだけ排除でき、また後世の粉飾や付会、利害関係が絡むご都合主義的な解釈を加えた行政や社史などの「紙」資料wを止揚でき、ニュートラルな研究姿勢が保持できることになるのではないか。
 落合第四小学校の校歌のテーマは、この情報を提供していただいた堀尾慶治様Click!たちが、たまたま今年(2012年)の夏に自費出版に近いかたちで編纂された菅野英二『新宿区立小学校「校歌」の歴史』を見つけられたから「規定」できたものだ。この本が出版されなければ、また偶然に見つけられないでいたなら、このあともずっと落四小の校歌は「作詞者:不詳」状態がつづいていたのだろう。この書籍の中に、同校の校歌が1939年(昭和14)2月5日に制定され、翌1940年(昭和15)6月22日に大久保尋常小学校の校歌と同時に認可された(淀橋区の教育官報に掲載された)経緯が、作詞・作曲者のネームが入った譜面とともに記録されていた。同書に収録された、落合第四小学校の校歌に関する部分と菅野英二による解説を引用してみよう。
 
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 ◎淀橋・大久保尋常小学校(開校 明治十二年=一八九七・十二月四日)
  作詞 水澤澄夫 作曲 福井直秋
  認可 昭和十五年(一九四〇)六月二十二日(官)
 ◎淀橋・落合第四小学校(開校 昭和七年=一九三二・四月一日)
  作詞 富永熊次 作曲 林良夫
  認可 昭和十五年(一九四〇)六月二十二日(官)/
 落合第四小学校の校歌(富永熊次/林良夫)は、同校の先生方の手により昭和十四年(一九三九)二月五日に制定された。認可申請は多少の時を経てからのようで、認可は大久保小学校と同じ昭和十五年(一九四〇)六月二十二日であった。現在も歌われている。
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 落四小の校歌は、当初3番まで存在したが1939年(昭和14)という時局がら、歌詞に軍国主義的な表現がかなり強かったのだろう、戦後に3番は廃棄され現在は2番までしか唄われていない。同じ富永熊次が作詞した、前任校である淀橋第四小学校の校歌は、制作時期が1930年(昭和5)と比較的早かったせいか軍国調の歌詞はなく、戦後もそのまま3番まで唄い継がれている。
 

 同書では、新宿区内の小学校で戦前に作られた校歌が戦後も唄いつづけられたケースと、軍国調が強すぎるため戦後は廃棄された校歌とが分類されている。同書で取りあげられた小学校のうち、前者には落合第四小学校をはじめ、落合第一小学校(旧・落合小学校Click!)、牛込仲町小学校、大久保小学校、戸塚第一小学校などが挙げられ、後者の例には落合第二小学校、富久小学校、四谷第三・第四・第五小学校、天神小学校、戸塚第二小学校などが記載されている。

◆写真上:開校80周年を迎えた、おとめ山公園に隣接する落合第四小学校。
◆写真中上:菅野英二『新宿区立小学校「校歌」の歴史』に掲載された、落四小校歌の譜面。
◆写真中下:左は、1941年(昭和16)の卒業アルバムにみる富永熊次教諭(前列左)で、富永教諭の右横は当時の加藤校長。右は、1947年(昭和22)に米軍機が撮影した落合第四小学校。空襲Click!による延焼をまぬがれ、現在の落合第四幼稚園の位置に付属のプールが見える。
◆写真下:上左は、菅野英二『新宿区立小学校「校歌」の歴史』所収の記録。上右は、2002年(平成14)の創立70周年の記念に空撮された落合第四小学校。下は、1937年(昭和12)に行なわれた落合第四小学校の遠足。羽田穴守稲荷社近くの海岸で潮干狩りをしているが、現在の羽田風景からは想像もできない光景だ。前列の▲印が、資料を提供くださった堀尾慶治様。