子どものころ、よく小遣いをためては艦船のプラモデルを買って組み立てた。客船や専用船、軍艦、帆船、クルーザーと船のプラモデルだったらなんでも好きで、寝ずに真夜中まで組み立てては叱られた。最初に船のプラモを買ってくれたのは、親父だったと思う。どこかに行きつけのおもちゃ屋があって、その店でお土産に買ってきてくれたらしい。
 幼稚園のころのことで、当然わたしは組み立てられず親父が作ってくれたのだが、あれはプラモの組み立てを親父自身が楽しんでいたのだろう。小学校時代から高校生まで、ずっと戦争がつづいて満足に子どもらしい遊びができなかった不満を、幼児のわたしにかこつけて追体験していたのかもしれない。祖父も船が好きで、戦前のさまざまな艦船写真を所有していた。その中には旧・海軍の“軍艦ブロマイド”もあって、日米開戦の直前、1940年(昭和15)に横浜沖で行われた「紀元二千六百年」の観艦式で制作された記念絵葉書もあった。おそらく、祖父も見学しに出かけているのだろう。いちばん印象に残ったのは、第2次改装を終えた戦艦「長門」が白波を蹴立てて疾走する姿(おそらく改装直後の公試運転で撮影)だった。当時の第1艦隊第1戦隊は、戦艦「長門」と「陸奥」が主力だったので記念絵葉書になったものだろう。
 「紀元二千六百年」のこの年、大きく運命を狂わされた建築家がいた。上落合470番地Click!に住んだ吉武東里Click!だ。東京と横浜で開催される予定だった日本万国博覧会は中止され、数々のパビリオンを建築予定だった吉武東里の仕事は、すべてが水泡に帰した。東京会場に予定されていた月島周辺では、勝鬨橋Click!のみが完成しただけですべての工事が中止された。また、同時に吉武が手がけていた日本最大の豪華客船の内装設計も、戦時体制強化のため船自体を海軍が買い上げることになり、彼のデザインはまったくの徒労に終わった。戦争にからみ、これら一連の仕事がすべて失われたことは、吉武東里にとっては大きなショックだったろう。彼は5年後の1945年(昭和20)4月、敗戦を見ず失意のうちに60歳の生涯を閉じている。
 吉武東里が内装を手がける予定だったのは、1938年(昭和13)に日本郵船が計画した、当時としては日本最大の豪華客船「橿原丸」と「出雲丸」だ。排水量は27,700tと大きく、速力も当初の計画では25ノット弱と客船にしては速い船足だった。橿原丸(900番船)は、のちに戦艦「武蔵」が竣工する三菱重工の長崎造船所で、出雲丸(660番船)は川崎重工の神戸工場で翌1939(昭和14)に起工されている。吉武は、日本最大となる船の内装に意欲を燃やしていただろう。
 1938年(昭和13)の当時、海軍は戦時における民間船舶の接収・改装を前提に「大型優秀船建造助成施設」制を施行しており、姉妹船である橿原丸と出雲丸の建造では総工費の6割を海軍が負担している。海軍はカネも出すが口も出すで、同船の建造では設計レベルから深く関与し、艦載機50機前後の特設航空母艦(正規空母ではない)へ改装することを前提に計画が進められた。吉武東里を含む船内の設計チームが始動したのは、同船が計画された当初からだったろう。
 

 橿原丸の船内デザインには吉武東里、中村順平、村野藤吾、久米権九郎、前川國男、岡本薫の6名が、出雲丸のそれには吉武のほか、久米権九郎、雪野元吉、本野精吾、渡辺仁ほかが設計チームを結成して取り組んだ。これまで、橿原丸の船内装飾へ吉武東里がかかわったことは知られていたが、出雲丸への設計関与が確認されたのは、東京大学の長谷川香様Click!により吉武東里の遺品の中から660番船(出雲丸)の1等喫煙室の設計デザインが発見されたからだ。現存している吉武のデザインは、出雲丸の1等喫煙室のほか、橿原丸の1階エントランス背景図のペガサス案と京都夜景案、1等ギャラリー関連デザインなどがある。
 豪華客船の橿原丸と姉妹船の出雲丸は、起工後わずか1年ほどで海軍に建造中の船体を接収されることになる。先の万博中止と同じ年、1940年(昭和15)には早くも航空母艦への改装が決定し海軍へ引き渡されることになった。このときの国際情勢や軍部の動向を見ていると、海軍が「大型優秀船建造助成施設」を適用した時点から、そもそも客船として竣工させるつもりはなかったように思われる。おそらく、橿原丸と出雲丸の設計図が作成されるのと同時に、海軍の艦艇建造部ではまったく別の図面が引かれていたような感触があるのだ。
 海軍工廠の船渠(船台)に新艦建造の余裕がないため、民間の船渠で船体(艦体)のみを造らせておき、進水時期を見はからって接収したようにも見える。艤装工事のみなら、大きめな岸壁とクレーンさえあれば可能だが、船体の組み立てはそうはいかない。また、海軍には民間のいくつかの造船所でも大型船を建造できるよう、設備を整えさせるという思惑があったのかもしれない。大型船の建造には、船渠上にガントリークレーンの設置が不可欠だった。両艦は1942年(昭和17)の半ばに航空母艦として竣工し、橿原丸は「隼鷹」、出雲丸は「飛鷹」と命名された。
 吉武東里がデザイン予定だった両船の内装について、長谷川様は以下のように総括している。『吉武東里に関する研究―近代日本における図案家という職能―』(2011年)から引用しよう。
 

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 (前略)東里が手がけた船内装飾の特徴として 1)他の船室との調和、2)室内装飾に取り込まれた絵画の使用、の2点が挙げられるだろう。/1)他の船室との調和に関しては、周囲の部屋の図面が残されていない660番船(出雲丸)では定かではないが、900番船(橿原丸)において東里が手掛けた一階エントランスと一等ギャラリーというどちらも様々な部屋をつなぐ空間であった。確かな図案技術によってあらゆる様式を使いこなす東里は、村野や前川といった個性の強い建築家らにより様々な様式が混在する船内を、調停する役割を期待されていたのではないだろうか。/2)室内装飾に取り込まれた絵画の使用は、二条離宮や御料車、藤山雷太記念碑、そして国会議事堂にも共通する要素だと言えるだろう。船内という限られた空間においては、室内空間の形態によって変化に富んだ空間を生み出すのは難しい。そうした際に、室内の形態は変えずして、室内装飾に壁画や天井画といった要素を巧みに取り込んで空間を豊かにするという技術は、船内装飾において非常に有効であった。/上述の2つの特色を踏まえると、豪華客船の室内装飾とは高度な「図案」技術を必要とされるものであり、まさに橿原丸と出雲丸という戦前最大規模の室内装飾は、東里に任されるべくして任されたと言えるだろう。(カッコ内は引用者註)
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 特設空母に改装されたことで、橿原丸と出雲丸の設計当初に想定されていた速力は増し25ノットを超えているが、このスピードは30ノット前後の正規空母が一般的だった当時としてはかなり遅い。したがって、両艦は日米の機動部隊が正面から対峙する海戦へ参加するよりも、補助・支援的な作戦や任務につくことが多かった。だからこそ、速力が遅く装甲も薄い艦にもかかわらず、戦争の最終段階まで命脈を保つことができたのだろう。
 空母「飛鷹」は、1944年(昭和19)6月のマリアナ沖海戦で米軍機の攻撃を受け、多数の魚雷や爆弾を受けて沈没している。ただし、装甲が薄い客船用の船体にもかかわらず、沈没までにはかなりの時間があり、被弾箇所の火災が鎮火したこともあって多くの乗組員が駆逐艦に救助された。また、空母「隼鷹」は1944年(昭和19)12月に、長崎沖で米潜水艦の攻撃を受け魚雷2本が命中したが、なんとか佐世保港までたどり着くことができ、応急修理後に港内へそのまま繋留されている。「隼鷹」は敗戦時、沈まずに“浮かんで”いた唯一の空母だった。
 

 子どものころ艦船のプラモデルを作っていると、空母「大鳳」や「信濃」Click!には特別に強い印象を抱いた。それは、日本の空母にはめずらしくアイランド型の艦橋を採用しており、そこから突き出た煙突が飛行甲板へ排煙が流れるのを防ぐため、斜め26度で外側に倒れているからだ。それまでに設計された空母(改装空母含む)では、排煙は舷側に突き出たやや不格好な煙突から海面へ向けて排出されるよう設計されており、艦橋の上に煙突が突きだしている艦姿がめずらしかったからだ。そのテストケースとして、斜め煙突の設計が初めて採用・導入されたのが、橿原丸と出雲丸を改装し1942年(昭和17)に竣工した特設航空母艦「隼鷹」と「飛鷹」だった。
 同じアイランド型艦橋をもち、似た艦影をしていた正規空母「大鳳」がわずか魚雷1本で、巨大なバルジClick!を備えた「信濃」が魚雷4本で沈没したのに対し、船足も遅く薄い鋼板で造られた橿原丸の「隼鷹」が、攻撃を繰り返し受けながらも戦後まで生き残ったのは、ほとんど奇跡に近い。

◆写真上:1938年(昭和13)に描かれた、日本郵船の豪華客船「橿原丸」の完成予想図。
◆写真中上:上は、橿原丸の船内デザイン案で一等食堂(左)と一等入口広間(右)。下は、わたしが子どものころまで残っていた旧・横須賀海軍工廠のガントリークレーン(1970年撮影)。
◆写真中下:上左は、1945年(昭和20)の敗戦後に佐世保港で撮影された空母「隼鷹」。舷側を観察すると客船「橿原丸」のままで、できるだけ速度を上げるためか雷撃防御のバルジは装備されていない。上右は、翌1946年(昭和21)に撮影されたドックで解体を待つ「隼鷹」。下は、1941年(昭和16)4月に海相より発令された特設空母「隼鷹」と「飛鷹」の乗組兵員数表(改正版)。
◆写真下:上左は、1942年(昭和17)に竣工直後の空母「飛鷹」。艦体はいかにも客船のような姿で、正規ではなく特設空母のため艦首に菊の紋章が見えない。上右は、消火訓練中の「飛鷹」で艦橋から突きでた斜め26度の煙突が印象的だ。下は、公文書館に残された「飛鷹」飛行隊の戦闘行動調書。1944年(昭和19)2月19日が最後の記録で、飛行隊がラバウルまで進出していたのがわかる。「飛鷹」は、わずか4ヶ月後の同年6月にマリアナ沖海戦に参加して撃沈された。