曾宮一念Click!が描いたこの作品は、以前に「描かれた新宿編」の記事Click!でも、中村彝Click!の「下落合風景」とともにご紹介していた。描かれているのは、目白福音教会Click!(現・目白教会)のヴォーリズが設計した宣教師館Click!(通称:メーヤー館Click!)だ。中村彝も、同館をモチーフに『目白風景』(1919年)や『目白の冬』Click!(1920年)、『風景』Click!(1919~20年)などを連作している。1920年(大正9)に描かれたとみられる、曾宮一念作のタイトルは『落合風景』だ。
 『落合風景』は、長く津田左右吉の邸に架けられていた。当時、津田は曾宮一念のパトロンのひとりだった。曾宮は、下落合623番地にアトリエを建てるとき、津田から建築資金を少なからず支援してもらっていた。でも、津田は当初、資金援助をしたことを曾宮へ名乗り出ず、東洋史学者・池内宏を通じて匿名の支援者というかたちでいたらしい。曾宮が、津田へ作品をとどけたのは、支援者であることが判明したあとになってからのことだ。そのあたりの事情を、先に早大会津八一記念博物館で開催された「早稲田をめぐる画家たちの物語」展Click!図録から引用してみよう。
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 ところで、画室建設に際して、津田から寄付を受けたいきさつを、一念本人はこう回想している。/「大正九年の秋、自分の仕事場を建てるのに苦労していた或る日、池内先生(宏、東大教授)が散歩のついでだといって私を訪ね、封筒入りのお金を届けて下さった。そして『これはボクが上げるのではない、私の友人がキミの事をきいて原稿料をあげるという。その使いにボクは来たのだ。』とのことであった。その友人なる人が津田先生であったのである。もちろん私は失礼ながらお名も存ぜず、お眼にかかってもいないひとであった。/その翌年か紀尾井町に津田先生を訪ね、落合へんの残雪のスケッチをお礼心で持参すると喜んでお受けになり(後略)」(「思い出」『津田左右吉全集』第一期第五巻付録)/ここに登場する池内宏は、かつて早稲田中学で歴史を教えていたことがあり、一念の窮状を耳にしていた。文中でお礼に渡したという「落合へんの残雪のスケッチ」とあるのが、おそらく<<落合風景>>のことだと思われる。
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 『落合風景』は、1920年(大正9)の冬ごろに描かれていると思われる。画面を観察すると、メーヤー館手前の道路に残雪が描かれているので、降雪のあとに晴れ上がった日に制作されたのがわかる。また、屋根には積雪が見えないので、降雪後しばらくたってから描いたものか、あるいは雪が少量しか降らなかった日の直後の晴れた日・・・ということになる。
 この時期、曾宮一念はいまだ下落合にアトリエを建設しておらず、下落合にやってきたばかりだった。目白通りの北側、下落合544番地に彝が借りておいてくれた借家Click!に住んでいたのだが、ほどなくドロボーに入られて気味が悪くなったものか、しばらくすると大久保駅近くの柏木へ転居Click!している。中村彝が『エロシェンコ氏の像』Click!を、鶴田吾郎Click!ととともに描きはじめた1920年(大正9)9月9日現在、曾宮一念はすでに柏木近くの大久保駅から彜アトリエへ見物にきているので、下落合へとやってきたのは同年の夏以前ではないかと思われる。
★下落合544番地から柏木へ転居したのは、曾宮一念にインタビューした江﨑晴城様Click!によれば元奥さんが原因で、中村彝の奨めにしたがって友人宅へ“避難”していたことがわかりました。(コメント欄参照) 貴重な情報を、ありがとうございました。>江崎様


 『落合風景』は、曾宮が柏木に仮住まいしていた1920年(大正9)暮れか、あるいは翌1921年(大正10)の新年早々の可能性が高いように思う。1920年(大正9)の年末、東京中央気象台の記録によれば降雪した日はわずか2日しかなく、いずれも翌日は快晴となっている。なお、記載されている数字は雪が溶けたあとの水量であり、降雪換算は一般的に×5~10倍の積雪となる。
 ◆1920年(大正9)
  12月7日(雪)・・・降水量44.5mm(積雪量222.5~445mm)
  12月8日(快晴)・・・降水量0mm
  12月9日(快晴)・・・降水量0mm
  12月10日(快晴)・・・降水量0mm
  12月11日(曇り)・・・降水量0mmm
  12月31日(雪)・・・降水量3.6mm(積雪量18~36mm)
 ◆1921年(大正10)
  1月1日(快晴)・・・降水量0.3mm
  1月2日(小雨)・・・降水量3.2mm
 12月7日と31日の降雪のうち、大晦日の降雪はかなり少量であり、積もったとしてもすぐに溶けてしまっただろう。翌日の元旦は快晴で、2日には小雨が降っており、残雪がいつまでもあったとは思えない。それに対し12月7日の降雪は、わずか1日にもかかわらず大雪だったことがわかる。そして、のちの3日間は快晴がつづいているので、こちらのほうが可能性としては高いだろうか。しかも、屋根上の雪がすでに溶けていることを考えると、降雪日の直後(12月8日)ではなく、9日ないしは10日に描かれた可能性が強いように思われる。
 
 中村彝が、1920年(大正9)の早春に制作したとみられる『目白の冬』が、11月に新潟県柏崎で開催された個展Click!へ出品しているのを見て、曾宮もメーヤー館をモチーフに描きたくなったものだろうか。ひょっとすると下落合464番地の中村彝アトリエClick!を訪ねたあとでスケッチしたか、あるいは中村彝とともにアトリエから外出して描いているのかもしれない。
 曾宮一念がイーゼルを立てているのは、メーヤー館の南にあたる路上、七曲坂Click!筋の道から東へほんの少し右折した一画だ。道をこのまま右手(東)へ進むと一吉元結工場Click!の干し場へと出られ、左手(西)に進んで突き当りの七曲坂筋を右折(北進)すると、旧・英語学校(のち牧師宿泊施設)のメーヤー館とは角度が異なる建物を右手に見ながら、目白通りへと抜けられる。曾宮がイーゼルをすえた位置の、もう2本南側の道路は桜並木がつづく林泉園Click!沿いの小道であり、下落合464番地の中村彝アトリエはその道沿いの北側に建っていた。
 余談だけれど、中村彝や曾宮一念が下落合へとやってくる以前の明治末か大正初期に、メーヤー館の北側にある竣工したばかりの旧・英語学校の建物をモチーフに小島善太郎Click!が描いている。その作品を、わたしは一度も観たことがないのだが、ひょっとすると出来が気に入らない小島は、戸山ヶ原Click!でもよくそうしたように、未完のキャンバスをそのまま写生現場へ遺棄Click!して帰っているのかもしれない。どのような画面だったのかは想像できないが、描画のタッチとしては1913年(大正2)制作の『目白駅から高田馬場望む』Click!に近いものではなかっただろうか。
 
 また、戦後になると奇跡的に焼け残ったメーヤー館は、堀潔Click!に好まれたのか頻繁にモチーフに選ばれ、繰り返し描かれている。わたしの知る限り、堀のメーヤー館作品は4~5点ほどにもなるだろうか。下落合でも記念的なモチーフが移築されてしまったのが、いまだ残念でならない。

◆写真上:1920年(大正9)の暮れに描かれたとみられる、曾宮一念『落合風景』。
◆写真中上:上は、モチーフになっている落合福音教会(のち目白福音教会)のメーヤー館(撮影:小道さんClick!)。下は、1936年(昭和11)の空中写真に見るそれぞれの描画ポイント。
◆写真中下:左は、1919~20年(大正8~9)ごろに描かれた中村彝『風景』。右は、1920年(大正9)の早春に制作されたとみられる中村彝『目白の冬』。『目白の冬』には目白通り沿いに建つ、メーヤー館とは建築角度の異なる最初期の英語学校(のち牧師の宿泊施設)も描かれている。
◆写真下:左は、1923年(大正12)に制作された曾宮一念『風景』で「早稲田をめぐる画家たちの物語」展図録より。右は、1963年(昭和38)制作の堀潔『聖書神学校メーヤー館』。