下落合4丁目2108番地(のち2107番地/現・中井2丁目)に住んだ小説家・船山馨は、戦時中に女性編集者であり作家でもあった「佐々木翠」を妊娠させてしまい、親友の椎名麟三へ堕胎の相談をしている。戦争も末期を迎え、「本土決戦・一億玉砕」が叫ばれている時代状況のなか、結婚や子育てなど夢ゆめ考えていなかった船山は、椎名からもらったクレオソート(征露丸)に似た大量の「堕胎薬」を飲ませつづけるが、彼女は大きくて健康な赤ちゃんを産んだ。椎名は「堕胎薬」と偽って、お腹の子が元気に成長するようビタミン剤を調合していたようだ。
 このサイトでは、下落合の目白中学校Click!へ通った埴谷雄高Click!や、「全体小説」の野間宏Click!など“第一次戦後派”と呼ばれる作家については少し触れてきたけれど、かんじんの下落合に住んだ船山馨は、これまで登場してこなかった。先の女性記者を妊娠させたことについて、船山馨は1978年(昭和53)に出版された『みみずく散歩』(構想社)で、次のように書いている。
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 三日目、彼(椎名麟三)は私のために調製した薬をもってやって来た。それは色も大きさもクレオソート丸に似た錠剤で、それが大きな紙袋に三分の一あまりもあった。私はその量の多いのに不安になったが、彼は効くまで続けて飲ませろと言い、多少量をすごしても先ず危険な副作用はないはずであるという。/私は彼の友情に感激しながら、女にその薬を飲ませつづけた。袋は空っぽになったが、女は、この薬効かないわ、とけろりとしていた。そうして、喰うものもろくにない敗戦直前にもかかわらず、彼女はばかに大きな男の子を産み落し、あわてて私は彼女と結婚した。思うに、椎名君はなにかの「手違い」で、効能絶大な栄養剤を調製したのにちがいないのである。
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 ふたりは結婚したあと、旧・下落合4丁目に住んでいた出版社・豊国社の社主・高田俊郎の家に身を寄せるのだが、しばらくすると近くの空いている高田の所有地に自邸を建設することになる。この「佐々木翠」(坂本春子)こそが、船山馨が生涯を通じて連れ添い1981年(昭和56)8月5日、船山の死と同日に通夜の席で急死することになる春子夫人のことだ。
 「佐々木翠」は戦前から、文芸誌『むらさき』や『映画芸術』(映画芸術社)の編集者をしながら、同時に寒川幸太郎(菅原憲光)が主宰する文芸同人誌『創作』(創作社)へ、短編小説をいくつか発表している。同時に、彼女は『創作』の編集者兼発行人であり、ときには記者もつとめていた。同誌に掲載された彼女の作品『生活の錘』について、2010年に出版された由井りょう子『黄色い虫―船山馨と妻・春子の生涯―』(小学館)には、次のように書かれている。
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 春子は小説『生活の錘』を発表し、やはり新進作家として注目を集める。/三十一枚の短編『生活の錘』は、春子自身と重なる婦人記者島子を主人公に、母と妹をかかえた極貧の暮らしと戦争の影、文学への情熱とひとりの男へのかすかな愛、戦地で負傷する弟への思いを描いている。/<<文学に對する彼女の夢・・・それがなかつたならば、島子は今まで生きてゐることさえ出来なかつたかも知れない>>/また愛した人に書く手紙のなかで、こんな思いを吐露する。/<<文学も、生活も、女の幸せも、みんな空廻りをしてゐるのです。私の力では、この三ツの車を同時に引くことが出来ません>>
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 船山馨と「佐々木翠」=坂本春子が初めて出逢ったのは、船山の日記によれば1940年(昭和15)8月15日に銀座の喫茶店「コロンバン」でだったようだ。「佐々木翠」が作品を掲載し、また編集者や取材記者もつとめる『創作』(のち『新創作』)には、船山馨も同誌3号から同人として参加しており、ふたりの出逢いは必然的だった。
 ちょうど同じころ、「佐々木翠」に恋焦がれていた小説家がいた。やはり戦後、旧・下落合1丁目286番地(現・下落合2丁目)の権兵衛坂中腹に自宅をかまえることになる、十返肇(とがえりはじめ)だ。「佐々木翠」へのアプローチは、十返肇のほうがむしろ早くから積極的で、彼女が船山馨と出逢ったころには、すでに結婚を申しこんでいたらしい。
 十返肇は、自分の母親へ「佐々木翠」を何気なく引き会わせ、ふたりの結婚を承諾してもらおうと、1942年(昭和17)ごろ彼女を宝塚歌劇へと誘っている。しかし、劇場へやってきたのは「佐々木翠」の姉の娘で、彼女はついにやっては来なかった。それでも諦めきれない十返は、のちに彼女の住居をつきとめ強引に口説こうと逢いに出かけている。でも、彼女の住まいには友人の「船山馨」の表札が出ており、軒下には赤ん坊のおしめが干されていた・・・。
 これらの事実は、由井りょう子『黄色い虫―船山馨と妻・春子の生涯―』によれば、十返肇の妻である十返千鶴子Click!が、船山馨の十三回忌の席で証言しているようだ。まるで、矢田津世子Click!を追いかけて下落合をウロウロしていた坂口安吾のようなことを、十返肇もやっていたらしい。戦後、下落合のわずか1,500mほどしか離れていない同じ町内に住み、さまざまな作品を発表しつづけながら、そこで生涯を終えることになろうとは、当時の十返肇も船山馨も、そしてなにより春子夫人=「佐々木翠」自身も思ってなかったにちがいない。
 

 2006年に亡くなった十返千鶴子は、その散歩エッセイに近所の中村彝(鈴木誠)アトリエClick!について記述した作品を残しており、いずれ近い将来に壊されてしまうのをたいへん惜しんでいた。彼女は、わたしが彝アトリエの鈴木様Click!へ手紙を出し、やがてはお訪ねすることになる、いちばん最初のきっかけをつくってくれた方だ。残念ながら面識は一度もなかったけれど、中村彝アトリエの保存が実現できたことを、きっと喜んでくれていると思う。
 また、「落合新聞」Click!の竹田助雄Click!は、御留山Click!の緑地保存の署名集めのため、1965年(昭和40)4月に船山家を訪問している。春子夫人の印象について、1982年(昭和57)に出版された竹田助雄『御禁止山―私の落合町山川記―』(創樹社)から引用してみよう。なお、竹田助雄は春子夫人がことさら印象深かったものか、彼女の挿画まで描いている。
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 玄関に入れば、すぐのところが畳敷の茶の間になっていることを私は知っている。呼鈴はあったかどうか・・・、玄関の外から声をかけたら、中から、それはそれは聞きとりにくいほどの低い声で、「どうぞ」という夫人の返事が聞こえた。その声の低さが、何を意味するのか私にはよく分かるのである。つまり、只今、執筆中という暗黙の注意が、表に立っている私に伝わってくる。/戸を徐かに引いて玄関に入ると船山春子夫人は火鉢に屈みこむような姿勢で、火箸でしずかに灰をならしていた。そして、顔だけはこちらに向けて私を見ると、ますます低い声で、「どうぞ」という。/終始、火鉢に屈みこんだままである。私はそれほど近しい間柄ではないのに、家族が、ひょいと外へ出て、ひょいと戻ってきたような、さりげない様子なのだ。私にはその夫人が、きびしい玄関番のように映った。/私は上がりこむ。茶の間は薄暗い。まるで内証話でもするように顔を近づけて「ちょっと、お願いがあってあがったんですよ」と声を殺せば、夫人は傍らの茶だんすに手を伸ばして音を立てずに湯呑みなどを出しながら、「なんですか」とひっそり。
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 船山馨・春子夫妻というと、太宰治Click!の心中事件で穴の開いた朝日新聞の連載小説を強引に引きうけさせられ、昼夜を問わず無理な執筆の必要性から、夫婦そろって覚醒剤メタンフェタミン(通称ヒロポン)による中毒となり、借金と貧困にあえぎつつ文学界でさまざまなエピソードを残しているのはつとに有名だが、下落合での日常について語られることはあまりなかったように思う。そういう意味から、夫妻の生涯をていねいに追いかけて記録した由井りょう子『黄色い虫―船山馨と妻・春子の生涯―』は、きわめて貴重な作品といえるだろう。
 同書で、春子夫人が好んだおやつに「目白のボストンのケーキ」が何度となく登場するのだが、わたしは目白よりも高田馬場駅前の、喫茶室も付属した「ボストン」のほうが印象深い。目白通りの「ボストン」は、確か10年ほど前に火災で焼失して、いまは残念ながら残っていない。
 
 春子夫人は、横浜市長を辞めて社会党の委員長へ就任するために、総選挙へ立候補した飛鳥田一雄の選挙ビラまきを、高田馬場駅頭で手伝っている。おりしもベトナム戦争Click!の真っ最中で、修理を終えた米軍の戦車が相模補給廠から横浜港のノースピアまで、国道16号線を使って輸送されようとしたとき、途中に架かる橋梁の脆弱性を理由に飛鳥田市長が輸送を阻止した記憶も真新しい時期だ。国道16号線沿いの市民たちが、米軍の輸送をストップさせるために道路へ座りこんでしまう騒然とした情景を、わたしも強烈な印象の映像とともに憶えている。
 船山家と飛鳥田一雄のつながりについては、当時、飛鳥田の秘書をつとめていた新宿区議会議員の根本二郎様より、貴重な資料をいただいているのだけれど、それはまた、別の物語・・・。

◆写真上:旧・下落合4丁目2107番地(現・中井2丁目)の、船山馨・春子夫妻の邸跡。
◆写真中上:上は、独身時代の船山馨(左)と春子夫人(佐々木翠/右)。下左は、2007年に撮影した十返肇・千鶴子邸(解体前)。下右は、船山馨とも親しかった十返肇。
◆写真中下:上左は、1960年(昭和35)に発行された「東京都全住宅案内帳」(住宅協会/人文社)にみる船山邸。上右は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる高田俊郎所有の下落合4丁目2108(のち2107)番地。空き地になっており、戦前までは松原邸が建っていた。下は、『御禁止山―私の落合町山川記―』(創樹社/1982年)に挿入された竹田助雄の挿画「船山春子」。
◆写真下:左は、1978年に出版された船山馨『みみずく散歩』(構想社)。右は、2010年に出版されたばかりの由井りょう子『黄色い虫―船山馨と妻・春子の生涯―』(小学館)。