先日、落合第四小学校の1941年(昭和16)に作成された貴重な卒業アルバムを、堀尾慶治様Click!よりお見せいただいた。同年は太平洋戦争開戦の年であり、「非常時」から多くの領域で物資統制が開始されていたため、紙質もそれほどよくないものが使用されているのだろう、表紙などの劣化が著しく、かなり傷んだ状態になっている。以前、小日向の黒田小学校Click!の卒業アルバムClick!(1937年印刷)をご紹介しているが、わずか4年のちがいにもかかわらず用紙や印刷、あるいは写真の品質が目に見えて落ちているのがわかる。
 当時の落合第四小学校は、1学年が3組の構成だった。ちょうど、現在と同じぐらいの規模になる。ただし、男女共学のクラスは1組しかなく、それぞれ「男組」「男女組」「女組」と分かれていた。堀尾様は「男組」だったため、「男女組」にいる男子たちが軟弱そうに思えたためか、「相手にしなかった」(うらやましかった)そうだ。w 当時の思想や社会的な規範を考えるなら、当然のことだったろう。わたしなら、まちがいなく「男女組」志望なのだけれど・・・。w
 余談だけれど、わたしの高校時代のクラスは文科コースの外れだったせいか、男子16人に対して女子が2倍の32人もいた。なにかというと、圧倒的な女子がヘゲモニーを取るクラスだったので、たいへん気楽ですごしやすく、まるで下町のような環境だったのがなつかしい。彼女たちにまかせておけば、なんとなくすべてが丸く収まっていて、細々とした気づかいや心配は不要だった。男子たちは、よほどの異議・異論がない限り、彼女たちに巻きつくように暮らしていれば、快適な高校生活を送れたのだ。ただし、他のクラスからは「たいへんだよなぁ、まったく」と同情されたのだが、とりあえずかたちだけ相槌を打ちつつ、「お気楽で、ぜんぜんたいへんじゃないし」と密かに思っていたのだ。わたしの軟弱な下町気質Click!は、おそらく高校時代に増幅されたものだろう。
 さて、落四小の卒業アルバムには、当時の貴重な校舎や校庭が写っている。北側にあった校舎をバックに写っているのは、同小学校の校歌を作詞した富永熊次教諭Click!の男組。富永教諭の左側、加藤校長をはさんで座っているのが卒業間近な堀尾慶治様だ。各クラスを総合すると、女子のほうがやや多い学年だったようで、モノクロ写真にもかかわらずかなり華やかさが感じられる。1941年(昭和16)の春なので、いまだカーキ色の国民服姿は見えず、女子は思いおもいの服装を着てスカートをはき、教師は三つ揃えのスーツにネクタイ姿だ。おそらく、翌年の1942年(昭和17)春より、卒業アルバムの服装は一変していると思われる。この年が、太平洋戦争前における最後の、ふつうで「まとも」な姿をして写る卒業アルバムだろう。
 

 
 アルバムには、各クラスの写真とともに鎌倉遠足の写真も掲載されている。写っているのは、二階堂ヶ谷(にかいどうがやつ)の鎌倉宮(かまくらぐう)前での記念写真なのだが、わたしの世代の遠足では、もちろん頼朝と政子さんClick!の鶴岡八幡宮のほうで撮影をした。「♪鎌倉宮に詣でては~尽きせぬ親王(みこ)の御恨(みうら)みに~」のほうが、史的に重要だと考えられていた非科学的で強烈な皇国史観Click!の時代だ。
 そのほか、空襲によって焼けてしまう貴重な下落合の住宅街風景もとらえられている。まず、校庭で体操をする男女組の向こう側(東側)に見えているのは、相馬坂Click!をはさんだ御留山Click!(現・おとめ山公園Click!)だ。当時は、相馬孟胤Click!の死去から2年がたち、相馬家は中野区広町20番地(現・中野区弥生町6丁目)へ引っ越したあとで、東邦生命の太田清蔵Click!や、ほどなく社長に就任する長男の太田新吉Click!ら太田一族が暮らしていた。
 1941年(昭和16)というと、福岡に開設されたばかりの香椎中学校Click!の校長・長沼賢海Click!が、御留山の旧・相馬邸Click!にいた太田清蔵を九州から訪ね、屋敷の正門Click!(黒門Click!)の移築計画を相談しはじめていた年だ。同時に、相馬邸母屋の解体もスタートし、敷地の北側を住宅地として造成する計画もすでに始動していただろう。敷地を東西と南北に横切る三間道路も切り拓かれようとしていた。アルバムの写真に見える御留山の森は、冬期に撮影されたものだろう、落葉していてそれほど緑が濃いようには感じられない。

 
 もう1枚の下落合風景写真は、校庭の南側、一段下がったバッケ(崖)下にあった同小学校のプール端で男組を撮影したものだ。ちょうど、現在の落合第四幼稚園が建っている場所にあたる。画角は、西北西を向いており画面左手(南側)の家々の前には、鎌倉街道である雑司ヶ谷道Click!(現・新井薬師道)が通っている。その道沿いにある、電柱にご注目いただきたい。この電柱は電燈線ではなく、変圧器の載る電力線Click!だと思われるが、佐伯祐三Click!が描く『下落合風景』Click!に登場する電力柱とウリふたつだ。特に、『八島さんの前』Click!シリーズに描かれた電柱と比較すると、佐伯がいかに正確に下落合の電柱を描写していたかがわかって興味深い。佐伯はサッサッと、電柱をテキトーに描きこんでいるわけでないことが明らかだ。エリアからみて、この電柱は東京電燈の「近衛線」ではなく「氷川線」Click!のほうだろう。(冒頭写真)
 電柱が建つ道路を隔てた向こう側、下落合1丁目87番地に見えているのは、ラス張りにスレート葺きで防火建築に指定されていると思われる、三菱薬品合資会社の研究施設だ。その左手(南側)にチラリと屋根が見えているのが井上邸、三菱薬品合資会社の背後の樹間に見えている住宅が、同じ番地の田所邸だろう。また、樹木に隠れて見えないが、落四小学校のプールの並び(西側)の下落合1丁目274番地には、落合キリスト伝道館の大きな西洋館が建っていた。これらの建物は、すべて1945年(昭和20)の二度にわたる山手空襲Click!で焼失している。

 
 卒業アルバムとともに、堀尾様から林間学校や遠足などでの記念写真も同時にお見せいただいた。特に林間学校では、生徒全員が集団で食事をとる風景などが写っているのだが、のちの学童疎開で撮影された食事風景に比べると、子どもたちの表情には暗さや屈託がなく、とても明るいのが印象的だ。また機会があれば、ぜひこちらでご紹介したいと思っている。

◆写真上:1941年(昭和16)に、できて間もない落合第四小学校プール(1937年竣工)で撮影された男組。
◆写真中上:上左は、1941年(昭和16)春に作成された卒業アルバムの表紙。上右は、鎌倉は二階堂ヶ谷の鎌倉宮で撮影された遠足の記念写真。中は、卒業アルバムの男組記念写真で堀尾様とと富永教諭が写る。下は、同じく卒業アルバムから男女組(左)と女組(右)の記念写真。
◆写真中下:上は、校庭で体操をする男女組を写したもので向かいの森は御留山。下左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる落合第四小学校。下右は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同校。北側に新校舎が建ち、南のバッケ下にはプールが造られているのが見える。
◆写真下:上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる落合第四小学校と撮影ポイント。下左は、プールでの記念写真に見える電柱の拡大。下右は、1926年(大正15)9月21日に描かれたとみられる佐伯祐三『八島さんの前通り』(タテの画)の部分。