笠原吉太郎Click!の孫娘にあたられる山中典子様より、貴重なアルバムの一部や夫人・笠原美寿Click!の手織り作品をお送りいただいた。そこには、笠原吉太郎のプロフィールとともに、1954年(昭和29)に80歳で死去した際の葬儀写真が含まれている。
 その葬儀のときの祭壇に、まずは目を惹きつけられた。正面に笠原吉太郎の遺影が置かれているが、その上部には佐伯祐三が1927年(昭和2)5月に制作した、そして先年に新宿歴史博物館で開催された「佐伯祐三―下落合の風景―」展Click!にも出品されている、『笠原吉太郎像(K氏の像/男の顔)』Click!が架けられている。この作品は、笠原吉太郎が1927年(昭和2)4月に『下落合風景を描く佐伯祐三』Click!(朝日晃の画名ママ)を描いたため、その返礼として1ヶ月後に笠原吉太郎へ贈られたものだ。同作品は、長く笠原邸の居間に架けられていた。
 笠原制作の『下落合風景を描く佐伯祐三』は、おそらく笠原吉太郎から佐伯祐三へ贈られていると思われるのだが、わたしは同作をいまだ実際に観たことがない。いま、笠原吉太郎『下落合風景を描く佐伯祐三』はどなたがお持ちで、どこにあるのだろうか? 朝日晃が2001年(平成13)に大日本絵画から出版した、『そして、佐伯祐三のパリ』には同作のモノクロ画像が掲載されているけれど、この画面がはたして作品の全体像なのか、それともイーゼルに向かう佐伯の立ち姿部分のみを拡大して、トリミングしたものなのかが不明なのだ。
 もし、佐伯がイーゼルを立てている周辺の風景がカットされているとすれば、ぜひ全画面を観てみたい。周囲の風景を把握できれば、おそらくわたしは、佐伯が下落合のどの場所に立っているのかがわかると思う。そして、佐伯が向かっているキャンバスには、下落合のどのような風景が描かれつつあるのかも、もしそのときの作品が現存しているとすれば、50点余の『下落合風景』Click!の中からすぐに推定することができるだろう。あるいは、作品が現存していなくても、下落合の当時の風情や地形などから、作品の姿を具体的に想定することが可能だ。また、当該の『下落合風景』は1927年(昭和2)4月に描かれていることを、ピンポイントで特定することもできる。
 
 笠原吉太郎の葬儀は、おそらく自宅で執り行われたのだろう、わたしが想像していたよりもはるかに質素だ。基本的には親族が中心の葬儀だったようで、昔からの画家仲間が集まるような大きな“葬儀会場”のイメージではない。戦後、笠原吉太郎はほとんどタブローを制作をしていなかったので、画壇から離れていたせいもあるのだろう。写真からは、親族中心の静かでしめやかな雰囲気が伝わってくる。この直後から、美寿夫人による東奔西走の大活躍Click!がスタートするのだが、その慌ただしさはいまだこれらの写真からは感じとれない。
 お送りいただいた写真の中には、いままで見たことのない1938年(昭和13)に撮影された笠原吉太郎のサイン入りプロフィールや、戦後に自邸の庭で撮影されたとみられる笠原夫妻の記念写真が含まれていた。また、こちらではご紹介できないけれど、笠原邸のおそらく居間に集まる家族写真の背後には、笠原吉太郎が戦前に制作したとみられる静物画が2点、壁に架けられているのが見てとれる。1点は、サイドテーブル上の花瓶に活けられた草花であり、もう1点は皿の上に置かれた2匹の魚と、南欧を思わせるデザインのワインボトルだろうか? 残念ながら、今回お送りいただいた室内写真には、『下落合風景』Click!と思われる作品は架けられていなかった。
 
 笠原吉太郎の肖像写真の中には、1973年(昭和48)に発行された『美術ジャーナル』復刻第6号に掲載の、外山卯三郎Click!「画家・笠原吉太郎を偲ぶ」へ反射原稿として入稿されたとみられる、写真の原版も含まれていた。同誌の印刷はかなり悪く、画面が暗くてよくわからなかったのだが、今回お送りいただいた写真原版でようやく細かなディテールをつかむことができた。
 写真類とは別に、三越で1932年(昭和7)に開催された、江戸期からの「切り絵」細工の催しかなにかで作らせたのだろう、笠原吉太郎のシルエットを描いた切り絵が、資料に含まれていたのが面白い。切り絵の作者は、「H.TAKAYAMA」と記載されているが、当時はけっこう名の知られた肖像切り絵師だったものだろうか?
 また、美寿夫人が笠原手織り機Click!で作り、孫娘の典子様へプレゼントされたパステルカラーのショールが印象深い。織り目というよりは編み目に近い表面を見ると、1960年代になって普及しはじめた毛糸の編み機による作品のようにも見えるのだが、このような編み物もまた、笠原手織り機ですばやく手軽にできたらしい。そして、このような織りの実証を通じて、美寿夫人はのちに編み機「あやとり」の開発へ取り組んでいったのではないだろうか?
 もうひとつ、着なくなった着物の生地を幅細く裂き、それを“糸”代わりにして手織りにした「裂き織り」と呼ばれる手法の作品もお見せいただいた。この着物は、山中典子様のお母様が着古したもので、それを美寿夫人が細かく裂いて手織りにし、半巾帯に仕上げたものだ。紬(つむぎ)など普段着用の半巾帯として、とてもしぶく美しい出来になっている。いかにもモノを大切にし、質素な生活にさまざまな発明や工夫をこらしていた美寿夫人らしい作品だ。
 


 下落合の「八島さんの前通り」Click!(星野通りClick!)に面した下落合679番地へ、1920年(大正9)にアトリエ付きの2階建て西洋館を建設したころは、笠原夫妻と子どもたちだけの家族だったものが、戦後に笠原吉太郎が亡くなるころには、子どもたちが次々と結婚して孫を産み、ゆうに20人を超える大家族を形成していた。笠原邸の室内で、また庭園で撮影された家族写真を拝見していると、そのにぎやかで明るい大家族の華やぎが画面から伝わってくるようだ。

◆写真上:1954年(昭和29)に行なわれた、笠原吉太郎の葬儀祭壇。遺影の上には、1927年(昭和2)5月に佐伯祐三が制作した『笠原吉太郎像』が架けられている。
◆写真中上:左は、1927年(昭和2)4月に制作された笠原吉太郎『下落合風景を描く佐伯祐三』。右は、同年5月に制作された佐伯祐三『笠原吉太郎像(K氏の像/男の顔)』。
◆写真中下:左は、1938年(昭和13)に撮影された未公表の笠原吉太郎プロフィール。右は、1973年(昭和48)に発行された『美術ジャーナル』復刻第6号に掲載の写真原版。
◆写真下:上左は、戦後に下落合の自邸の庭で撮影されたとみられる笠原吉太郎・美寿夫妻。上右は、三越の切り絵イベントで作られたとみられる笠原吉太郎のシルエット肖像。中は、美寿夫人が笠原手織り機で織って孫の山中典子様にプレゼントしたショール。下は、美寿夫人が着物を裂いて「裂き織り」にしたしぶい半巾帯。