1920年(大正9)に里見勝蔵Click!が描いた『下落合風景』Click!の、正面に描かれた和風の住宅がどうしても気になっていた。緑が濃い森の中にポツンと建っている家屋なのだが、この時期の里見は東京美術学校を卒業後、東京ではなく実家のある京都で暮らしていたはずだ。それなのになぜ、25歳の里見はわざわざ京都から東京へと出てきて、『下落合風景』などを描いているのだろうか。そもそも、なぜ彼は下落合へ足を踏み入れているのだろうか?
 1920年(大正9)現在、京都から東京へやってきて訪ねるほどの、親しい友人画家が下落合で暮らしていたという記録はどこにも見えない。東京に住む友人、あるいは卒業した母校でも訪ねたあと、ついでに下落合へ立ち寄ってスケッチをしたのだろうか? でも、それではなぜ下落合なのか?・・・という謎は解けない。松下春雄Click!が「下落合風景」シリーズClick!を描きはじめる5年前、佐伯祐三Click!が同様のシリーズClick!を制作する6年も前のことだ。まだ、この時点では下落合地域の風景をモチーフに選ぶ、画家たちの“下落合ブーム”Click!は起きていない。せいぜい、遠出のできない病身の中村彝Click!が、自宅とその周辺をスケッチClick!している程度だ。
 当時の下落合には、どのような画家たちが住んでいたのかを考えてみよう。1916年(大正5)にアトリエを建てて谷中初音町3丁目12番地・桜井方から引っ越してきた下落合464番地の中村彝をはじめ、関東大震災Click!で家が傾く被害を受ける下落合645番地の鶴田吾郎Click!(のち下落合804番地へアトリエClick!を建てて転居)、中村彝の弟子にあたる豪華なアトリエ付き住宅を建設した下落合584番地の裕福な二瓶等(徳松)Click!、目白通りをわたった北側で小出楢重Click!の借家もすぐ近くにあった下落合540番地の大久保作次郎Click!、すでに長崎1721番地へ引っ越してきていたかもしれない牧野虎雄Click!(のち下落合604番地へアトリエClick!を建てて転居)などが、特に目立つところだろうか。だが、彼らの中に里見勝蔵とことさら濃い接点のある人物はいない。わざわざ京都から下落合まで出かけてきて、訪ねるほどの親しい仲間が見あたらないのだ。
 また、大正中期の下落合に「芸術村」とでもいうべきアトリエが建ちはじめた様子を、里見勝蔵が見物に訪れた・・・という可能性はある。いまだ密な住宅街や繁華街は、江戸期からの集落だった清戸道Click!沿いの椎名町(現・目白通りと山手通りの交差点あたりの下落合・長崎界隈)に建設された落合第一・第二府営住宅Click!と、目白駅のごく近辺に限られていただろう。だから、森林や畑地、草原の中にポツンポツンと建設された、いかにも田園風景の中に見え隠れするアトリエの風情を少なからずのぞいてみたかったのかもしれない。また、鈴木良三Click!らが「目白バルビゾン」Click!と呼んでいた画家たちが集まる下落合に、里見勝蔵は興味を惹かれたものだろうか。
 

 もうひとつ、可能性として考えられることがある。里見の画家仲間や友人ではないが、東京美術学校の恩師が下落合に住んでいた。東京美術学校で英語と西洋美術史を担当し、この時期は助教授に就任していた下落合323番地Click!(のち下落合630番地へ自邸を建てて転居)に住む森田亀之助Click!だ。恩師といっても森田は若く、1920年(大正9)現在は37歳だった。里見とは、10歳ちょっと歳が離れているだけだ。里見は、森田へなにかの相談をするために下落合へやってきたのかもしれない。同年、里見は京都で結婚し、再び東京へ出てきて池袋に住むことになるのだが、池袋シンフォニーClick!などを通じて佐伯祐三や山田新一Click!と知り合うことになる。翌1921年(大正10)には、念願のフランスへ向けて旅立っている。
 里見勝蔵が、森田邸を訪れてなんらかの相談ごとを持ちこんだとすれば、海外旅行をする際のアドバイスだろうか? それとも、京都から東京へ再び出てくるにあたっての、当面の住まい(アトリエ)に関する相談だろうか? わたしは、どうも後者のように思えてならない。なぜなら、里見は帰国後の大正末に、下落合630番地へ自邸を建てて引っ越していた森田亀之助を訪ね、その隣りにあった同番地の借家Click!を紹介されていると思われるからだ。「森たさんのトナリ」Click!の家を借りた経緯と同様のことが、1920年(大正9)の下落合で起きてやしないだろうか。
 萬鉄五郎が目白中学校Click!の美術教師を介して、茅ヶ崎の療養先から下落合のアトリエを物色Click!していた例をみるまでもなく、画家や美術家の知り合い同士の間で、借家やアトリエ物件の情報が頻繁にやり取りされているのを見ても、それほどピント外れな推測ではないだろう。
 
 1920年(大正9)10月ごろ、佐伯祐三は下落合に借家(おそらく下落合523番地Click!)を借りて引っ越してくるが、この時期はいまだ里見と佐伯はそれほど親しくなかっただろう。同年暮れに投函された山田新一あてのハガキClick!の文面でも、佐伯は山田を通じて里見とコミュニケーションをとろうとしている。したがって、里見のほうからそれほど親しくない後輩の佐伯を、わざわざ京都から出てきて訪ねた・・・とは考えにくいのだ。でも、美校の恩師である下落合の森田亀之助邸を訪れたとすれば、それほど不自然ではないように思われる。
 森田邸を訪問したあと、里見は付近の風景に制作欲を刺激され、ついでにスケッチブックを取りだして写生したものだろうか。ひょっとすると、下落合323番地の森田亀之助邸を、七曲坂Click!の庚申塚Click!が奉られていた北側の林間から南を向いて描いているのかもしれない。画面の右側から夕陽と思われる光が射しこみ、相馬坂から七曲坂へと抜ける小道沿いの森田邸の門は、おそらく北を向いていただろう。もし、描画ポイントが森田邸の北側だとすれば、里見の背後は切り立った低めの崖地となっていただろう。現在の落合中学校グラウンドがある数メートルの段差で、1/10,000地形図にもこの低い崖線が記載されている。
 森田邸は、数年前まで文具店「はとや」さんClick!が建っていたあたりだが、小路をはさんだ北側には現在、落合中学グラウンドへと上がるスロープ状のなだらかな坂道が設置されている。里見は森田邸の門を出たあと、急にその静寂なたたずまいをスケッチしたくなったのかもしれない。
 
 当時の森田邸は、権兵衛山Click!(大倉山)の山頂に近い地点だが、1/10,000地形図を参照しても当時は森田邸以外、周辺に家屋は採取されていない。もし、作品のモチーフが森田邸だとすれば、背後に見える森は権兵衛山のピークであり、その向こう側は目白崖線の南斜面ということになる。ただ、画面中央の家の左奥にも、もう1軒の家がありそうな雰囲気に感じるのだが・・・。

◆写真上:1920年(大正9)という、かなり早い時期に制作された里見勝蔵『下落合風景』。
◆写真中上:上左は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる下落合323番地の森田亀之助邸とその周辺。上右は、1926年(大正15)の同地点で森田邸はすでに存在していない。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同地点。北側の森が伐採されて宅地造成が行なわれ、権兵衛山(大倉山)にはテニスコートができ山頂付近の森が草原になっているのが見てとれる。
◆写真中下:左は、北側スロープからの森田邸跡の眺め。崖線との段差を埋めるため、土砂で斜面が造成されたと思われる。右は、大正期に下落合へ建てられたとみられる夕暮れの和館。
◆写真下:左は、1924年(大正13)に制作された里見勝蔵『マリーヌの記念』。右は、1924~1925年(大正13~14)ごろに描かれたとみられる里見勝蔵『雪景―リラダム―』。