二科展で樗牛賞や二科賞を受賞した前後、小出楢重が下落合540番地の大久保作次郎Click!アトリエのごく近くに「百姓家」を借りて住んでいたのは、目白駅からの帰宅途中、強度の貧血により原っぱで倒れ俥屋に救われたエピソードとともに、少し前の記事Click!でご紹介した。
 同じ大阪出身で、下落合にアトリエを設けた大久保作次郎Click!や佐伯祐三Click!、鈴木誠Click!などとは異なり、小出楢重は落合地域から関西へともどり、1931年(昭和6)に44歳で急逝するまで同地ですごしている。小出は、岸田劉生Click!と同様に、妖怪やオバケの類がとても好きだったらしく、彼のエッセイにはときどき怪談やオバケ話が顔をのぞかせる。たとえば、こんな調子だ。岩波書店の『小出楢重随筆集』(1987年)に収録された、『楢重雑筆』(1927年)から引用してみよう。
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 人間が霊魂という、単に火のかたまりであって青い尻尾を長く引いているだけのものであれば、フランス人も、日本人も、伊太利人も、ロシア人も、支那も印度も先ず大した変りはないので、知らぬ間にアメリカ人が日本へ集っていたり日本の人だまが皆巴里へ集っていたりなどしても、ちょっと区別がつかないので目に立たず、人種問題も起らないし、早速生粋のパリジャンにもなれる。欧州から日本へ、日本から欧州へと往復するにもただブラブラと青い尻尾さえ引摺れば済むのだから、今の若い日本の画家等にとっては大変な福音なのだ。
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 こんな調子で、冗談なのか本気なのかはわからない、ちょっとおかしなエッセイはつづいていく。
 
 1925年(大正14)に描かれた、小出楢重の『蔬菜静物』という作品がある。現在は東京近美に収蔵されている静物画なのだが、小出の親しい友人たちはこの作品をオバケの絵だと評した。「君の絵は妖気を含んでいる」といったのは、盟友の黒田重太郎だ。小出は、『蔬菜静物』を描く前年の1924年(大正13)、黒田重太郎や國枝金三らとともに大阪西区に信濃橋洋画研究所を開設している。親しい黒田や國枝が、『蔬菜静物』を観てオバケだといったのは、ふだんから小出が妖怪やオバケの話を、仲間うちで好んでしていたせいなのかもしれない。
 オバケの静物画について、小出は1925年(大正14)に「私の蔬菜静物に就いて」という短いエッセイを書いている。同年に発行された、「みづゑ」10月号から引用してみよう。
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 自分の絵に就いては自分の絵が一番何もかも物語つてゐる事であるので、何んともかく事柄がありません、たゞあれだけのものですが、昨日黒田君や國枝君と陳列を終つた会場内を眺めてあるいてゐた時、黒田君が私の絵の前で西瓜が舌を出してゐると申しましたら國枝君がトマトが目をむいたと云ひました。ナル程さう云へばきうりがくらやみから手を出してゐます、自分は何も気づかずに居ましたが全くさう聞けばその通りで私もなる程と思ひました、君の絵は妖気をふくんで居るぞと黒田君の言葉です成る程(ママ)自分の事は他人の方がよく知つてくれてゐるものだとこれにも感心して了ひました、國枝君はこの色調は昔しの幻燈のおばけ絵の様だとも云ひましたが、それもその通りです、すべて批評はかう行かねばなりません、自分の感想の代りとして確かな他人の噂を紹介して置きます。
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 ふつう、自分の作品をオバケだなどといわれたら憤慨しそうなものだが、小出楢重は深く納得してしまっている。それにしても、小出の静物画は野菜や果物をゴチャゴチャと、めいっぱいテーブルの上によく並べたものだ。きっと、描きたくなるようなモチーフが八百屋に寄ったらたくさん見つかったので、買ってきたものを全部テーブルに載せたのだろう。並んでいる蔬菜類から、おそらく秋の展覧会向けに制作した8月ごろの筆だと思われる。
 写生をしに出かけた先などでも、小出は「妖気」を含んだ不気味なものに惹かれている。その文章から、今日的な表現でいうなら「見える」「感じる」「霊がいる」・・・というような感覚に近しいものだろうか。同じく岩波の随筆集に収録された、『大切な雰囲気』(1930年)から引用してみよう。
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 真夏の昼、蝉の声を樹蔭に聞きながら本堂の縁側に憩いつつ内陣の暗闇を覗くと、この女の黒髪が埃をかぶってその幾束かが本尊の横手の柱から垂れ下がっているのを見るとき、いとも冷たい風が私の顔を撫で、私の汗は忽ちにして引下るであろうところの妖気を感じるのである。私はこの不気味を夏の緑蔭に味わうのが好きである。そこには女一代の古びたるフィルムの長尺物を感じることさえ出来る。
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 生まれつき心臓が悪く僧坊弁閉鎖不全症Click!に加え、貧血気味で胃アトニーを長く患っていたせいか、小出楢重Click!は細かなところにまで気がまわる神経質な性格だったらしい。だからこそ、口ベタにもかかわらず内面は饒舌で、流暢な筆致による優れた随筆集を残すことができたのだろう。同じ口ベタな画家でも、文章を書くのも読むのも苦手だったらしい佐伯祐三とは、まったく異なるタイプだった。画家には、「無口な大阪人」が多くいそうな気さえしてくる。

◆写真上:1925年(大正14)の晩夏、秋の展覧会用に制作された小出楢重『蔬菜静物』。
◆写真中上:左は、1928年(昭和3)制作の同じくテーブル上にゴチャゴチャとモチーフがいっぱいの小出楢重『卓上静物』。右は、1930年(昭和5)に描かれた同『枯木のある風景』。
◆写真中下:いずれも小出楢重の随筆集で、1927年(昭和2)の『楢重雑筆』(左)と1930年(昭和5)の『めでたき風景』(中)、死後に出版された1936年(昭和11)の『大切な雰囲気』(右)。
◆写真下:記事とはまったく関係ない、女子高生と佐伯祐三『立てる自画像』(1924年)。当サイトでも、負け犬さんの映評が載る『リンダ リンダ リンダ』Click!(山下敦弘監督/2005年)より。