落合地域の記録を重ねて読んでいると、現在の六ノ坂下の水車場Click!近くにあったバッケ堰Click!とはどうしても思えない、もうひとつ別のバッケ堰らしいものが登場してくる。高群逸枝Click!が夫の帰りを待ちながら五ノ坂上Click!から見下ろし、林芙美子Click!が洋画家の中出三也Click!と甲斐仁代Click!がいっしょに暮らしていた豚小屋奥のアトリエを訪ねたとき、常に目にしていたバッケ堰とは異なる妙正寺川のさらに上流にあった堰だ。
 ここでややこしいのは、大正期にバッケが原Click!と呼ばれていた上落合西部の妙正寺川にあった堰が、「バッケ堰」と呼ばれていたこと。でも、昭和初期に上落合の同地域が急速に宅地化され、広い河原沿いの原っぱが少なくなると、バッケが原の呼称が西の上高田側へと徐々に移動Click!し、太平洋戦争がはじまるころは中井御霊社Click!や目白学園の西側バッケ下の河原一帯が、バッケが原と呼ばれていたこと。そして、そこに形成された妙正寺川の堰(現在の御霊橋)もまた、いつの間にか地元の住民には「バッケ堰」と呼ばれたことだ。つまり、通称「バッケ堰」と呼ばれた灌漑用の川堰が、落合地域にはふたつ存在していたことになる。
 双方のバッケ堰ともに、堰の上には橋がわたされ、六ノ坂下のバッケ堰は妙正寺川の整流化工事とともに消滅したが、御霊社西側のバッケ堰は御霊橋として現在でも残っている。しかし、御霊橋の堰も通称「バッケ堰」と呼んでいたのはおもに下落合側の住民で、上高田側の農民は「新堰」と呼んでいた。これは、より古い時代からあった四村橋Click!近くの下流に築かれた「旧堰」に対して「新堰」と呼んだもので、西へ移動したバッケが原にある同堰を「バッケ堰」と呼んだのは、下落合側の新しい住民たちだったのだろう。もちろん、「新堰」の水利運用の管理権は下落合側ではなく、上高田Click!で水田や麦畑を経営していた農家にあった。
 上高田の子どもたちは、御霊橋のバッケ堰すなわち新堰を、上級者の水練場にしていたようだ。初中級者は、不動堂のある桜ヶ池Click!や池からの小流れで形成された灌漑池でまず泳ぎを習い、次いで「新堰」で形成された深淵で練習をはじめたようだ。1982年(昭和57)に出版された細井稔・加藤忠雄『ふる里上高田昔語り』(いなほ書房)の「明治・大正・昭和編」から引用してみよう。
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 我々の小供の時は、水泳は、独りで行くこともなく、泳げる年上と一緒だった。場所は桜ヶ池は冷た過ぎて、泉の中を腰から臍の辺までつかり、往復する事は鳥はだが立って泳ぎには無理だった。(中略) 不動様の水路の水は冷たくきれいで、七、八寸の八ツ目鰻が随分居たし、沢蟹もいたし、夏の夜は蛍が沢山出る処だった。川底は他の水路の底は泥であったが、こちらは小砂利や砂気が多かった。/石橋の水泳を卒業すると、今度は、新堰(現在の御霊橋)の堰の上や堰下で磨きをかける。上下とも、小さい連中には、背のたたぬ所であった。陽気の暑い時は六月末、大体七、八月の大雨で増水した水が、堰坂の上を物凄い勢で押流した翌日、天気さえ良いと、ガキ大将の集合がかかる。これから新堰で飛込をするから行けとの命令だ。
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 また、四村橋にあった「旧堰」についての記録もみえている。この堰は、ちょうど下落合村の葛ヶ谷と上高田の境界にあった堰で、おそらく江戸時代に建設されていると思われる。「旧堰」もまた、水利の管理権は上高田側にあったので、上高田の農民たちが建設したものだろう。
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 上高田の堰場は、現在の四村橋、オリエンタル前の橋の直ぐ下手にあった。四村橋といういわれは、上高田、片山、江古田、葛ヶ谷の四村の境なので、この名がつけられた。堰の水は、現在の妙正寺川の南側の山裾に水路があった。大雨で出水の時は、堰板を上げてやらぬと、堰が破壊されて、後々大変なことになる。/鈴木弥太郎さんの話によると、大水の時いつも真先に堰板を上げに来るのは、細井の萬五郎さんと俺で、ある時萬五郎さんが大水の流れに落ち、巻き込まれて終い(ママ)、はるか下手から浮び上った時は、本当に良かったと思ったよと、当時の苦心談を話すのを度々聞かされたものである。
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 こちらでも、幕末の火薬製造にかかわる爆発事故や、長野新一Click!が1924年(大正13)に描いた下落合風景作品である『養魚場』Click!でも取りあげている、水車橋近くの水車小屋は上高田の記録にもたびたび登場してくる。上高田の農民たちは、この下落合の水車小屋で収穫した米や麦を加工していたのだ。水車小屋の名前は、江戸期からつづく「稲葉の水車」で、近接する池では釣り堀用のフナやコイなどの川魚が養殖される「養魚場」だった。「養魚場」を経営していたのは、上高田の鈴木屋(のちに結婚式場「日本閣」)の鈴木家で、水車小屋を経営していた稲葉家とは姻戚関係にあったが、のちに鈴木家が同水車を経営している。落合側の記録でも、「稲葉の水車」は小島善太郎Click!の実家近くの水車場Click!とともに頻繁に登場している。


 ただし、時代が下るにつれて落合側では住宅街が拡がり田畑が減って、上高田側に住んでいた農民の利用が急増していったらしい。昭和初期には、ほとんど上高田生産の穀物用水車のようになっていたようだ。「稲葉の水車」は付近の宅地化が進むとともに、鉛筆の芯を製造するための炭素の製粉に変わっていった。再び、同書から引用してみよう。
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 現在の中野区営の野球場の裏手の御霊橋は、前述した懐かしい泳ぎ場所新堰で、このやや上手から目白の山下を道沿いに導水して、落合い(ママ)田んぼと、一部は稲葉の水車に流れていた。/稲葉の水車は今の落合公園の南側、妙正寺川に近い北側にあり、まわりは、杉や樫に囲まれ、相当広い場所を占めていた。落合公園のあたりは、鈴木屋(日本閣の前身)の釣堀用の養魚場であった。/稲葉氏は鈴木屋と姻戚関係であるが、何か失敗し、後に鈴木屋鈴木磯五郎氏に所有が移った。/水車は相当大きく幅約三尺、直径は三間以上あった様に思う。悪戯盛りが水車で遊んでいる時、水の取入口から水車の下に落ち、幅に余裕があったのでうまく輪の下を流され、妙正寺川の本流まで押し流された悪童がいた。命に別状なく怪我もせずに済んだ。
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 「稲葉の水車」の稲葉家は、幕末にやはり火薬製造にかかわっていたようで、黒色火薬をつくるために硝石や硫黄、炭などを細粉していたらしい。当時の黒色火薬は、硝石粉70%に硫黄粉15%、炭粉15%ずつ混合して製造されていた。淀橋水車Click!は爆発事故を起こして跡形もなく吹っ飛んだけれど、下落合の「稲葉の水車」はなんとか事故をまぬがれていたようだ。

◆写真上:御霊橋あたりから眺めた、目白崖線のバッケ。
◆写真中上:上左は、葛橋から眺めた佐伯祐三Click!「洗濯物のある風景」Click!の描画ポイント。上右は、2月に行われた「染の小道」で生徒たちが染めた反物がわたされた妙正寺川の川面。下は、1941年(昭和16)の空中写真にみるバッケ堰と新堰(バッケ堰=御霊橋)。
◆写真中下:上は、一面の田畑が拡がる和田山(井上哲学堂Click!)下の上高田。下は、昭和初期の新堰=御霊橋の様子で『ふる里上高田昔語り』に掲載の細井稔・挿画より。
◆写真下:上左は、1954年(昭和29)に改修された桜ヶ池。上右は、現在の桜ヶ池。この池の近くに建っていた、1954年(昭和29)以前の桜ヶ池不動堂の写真がぜひ見たいものだ。下左は、1933年(昭和3)の地形図にみる桜ヶ池と旧・不動堂。下右は、1947年(昭和22)の空中写真。旧・桜ヶ池不動堂は1954年(昭和29)まで、現在の位置より南側の区画に建っていた。