松下春雄Click!は、1925年(大正14)に池袋の上屋敷Click!(西巣鴨町池袋大原1382番地の横井方)から、下落合1445番地の鎌田方Click!へと転居している。これが、松下が落合地域へ足を踏み入れる端緒となった引っ越しだった。このとき、おそらく彼は上屋敷にあった渡辺医院の娘、渡辺淑子Click!とはすでに恋愛関係にあったのだろう。
 3年後、1928年(昭和3)の3月20日に、松下は目白文化村の第一文化村に接した北側の一画、下落合1385番地の借家へと転居している。同年4月6日に、松下は渡辺淑子と結婚式を挙げているので、それが直接引っ越しのきっかけになったのだろう。この間、彼は目白文化村Click!とその周辺域の風景をモチーフにした、『下落合文化村』Click!をはじめとする下落合風景シリーズClick!を、油彩ではなく水彩で描きつづけている。このころ、帝展へは油彩部門ではなく水彩部門に応募しつづけており、応募作は毎年順調に入選をはたしている。
 松下春雄は、箱根土地Click!が名づけた「目白文化村」という開発宅地名を一度もタイトルに用いず、一貫して「下落合文化村」と表現している。地名を優先する松下独自の考えからか、あるいは地元では「ここは目白じゃなくて下落合だよ」という意識により、当初、地元の住民たちからそのように呼称されていたものかは不明だけれど、中村彝Click!が下落合へやってきて暮らしているにもかかわらず、地名ではなく最寄りの駅名「目白」を多用したのとは対照的だ。
 松下春雄アルバムClick!には、1925年(大正14)に移り住んだ下落合1445番地の鎌田方を撮影したと思われる写真と、南側を第一文化村に隣接し、住宅が建てこむ府営住宅エリアの下落合1385番地の新居で、明らかに淑子夫人との生活を撮影したと思われる貴重な写真とが残されている。まず、1928年(昭和3)5月に我孫子旅行の直前に撮影されたと思われる家屋写真、そしておそらくその家の2階から撮影した風景写真とが、きわめて重要だと思われる。結婚式を終え、新婚旅行からもどった松下は、鎌田家へあいさつに出向いているのではないか。
 この残された数枚の情景こそが、下落合1445番地の鎌田家の路地および下宿していた建物、さらには鎌田家2階の窓辺から南側の眺望を思い出の記念として、松下自身が撮影した可能性が非常に高い。単独で写っている家は、初めて松下が落合地域へやってきたときに下宿している鎌田家であり、家が建ち並ぶ路地は袋小路で突き当りの敷地が滑川邸、左側が落合町役場に面した「松月庵」(蕎麦屋?)の裏手、また路地の右側には手前に写る小泉邸と、その奥に鎌田邸があると思われる。松下は、鎌田家に下宿してから外出するときに、何度も木星社Click!前のこの路地を往復しているのだろう。そして、鎌田家の2階から撮影したと思われる1葉も残っている。
 

 手前に、路地の入口左手(東側)にあった小泉邸と思われる屋根が写り、遠景には徐々に低くなる地形とともに、多数の西洋館らしい住宅群がとらえられている。ちなみに美術雑誌『木星』Click!の出版社である木星社は、小泉邸とは道をはさんで南側の斜向かいに建っていた。射しこむ光は西陽のように見えるので、鎌田邸の2階西側の窓から南側を向き、ここでの暮らしで見なれた風景を写しているのではないだろうか。方角的には、会津八一Click!の秋艸堂Click!が建っていた霞坂から、何度もスケッチに足を運んだ徳川邸Click!のある西坂方面ではないかと思われる。
 つづいてアルバムには、下落合1385番地の借家で撮影した写真が多数掲載されている。淑子夫人とともに暮らしはじめ、長女・彩子様Click!が生まれたせいもあり、松下はカメラを手にする機会が増えたのだろう。1928年(昭和3)8月13日に、下落合の森で『草原』を制作中の松下春雄をとらえた写真には、写生に淑子夫人の寄り添う姿も見える。カメラを渡されて撮影しているのは、松下の友人のひとり(鬼頭鍋三郎Click!?)だろうか。借家の画室をとらえた貴重な写真類も残されており、このころから完成した作品画面をカメラに収める習慣が生まれたのだろう。画室で撮影された作品は、スケッチ写真で描かれていた『草原』(1928年)で、手前に淑子夫人を座らせプロフィールとともに撮影している。このとき、淑子夫人のお腹には長女・彩子様がいた。
 下落合1385番地から杉並町阿佐ヶ谷Click!へ転居するのは、彩子様が生まれたあとの1929年(昭和4)6月なので、アルバムで5月末までの日付が入った写真類が下落合1385番地の情景だ。その中に、うれしくて飛び上がりそうになった写真が含まれていた。箱根土地本社の不動園Click!あたりから、南東側の第四文化村Click!の敷地を向いてモッコウバラと思われる花垣を撮影した写真だ。このポイントから、松下は第一文化村の水道タンクを遠景に入れた『五月野茨を摘む』Click!(1925年)と、落合第一小学校の竣工Click!間近な校舎を入れた『下落合文化村』Click!(1927年)を描いている。そして、1929年(昭和4)5月24日に撮られたモッコウバラ写真の向こうには、完成したばかりの落合第一小学校の新築校舎と講堂がとらえられている。(冒頭写真)
 


 手前に見えている空き地は第四文化村だが、同時点ではまだ家が1軒も建っていないのがわかる。現在の場所でいえば、松下春雄は山手通りの真ん中あたりに立って、落合第一小学校の方角を向いていることになる。そして、一連のバリエーション写真には、佐伯祐三Click!が「文化村スキー場」を描いた『雪景色』Click!の、尾根上にとらえられている長屋状の建物(箱根土地の資材加工作業場か資材倉庫か)北端の1棟が写っているようだ。初めて目にする、佐伯と同時代の第四文化村および「文化村スキー場」界隈の実景だ。佐伯祐三は、この尾根道を何度も往復して『下落合風景』シリーズClick!を描いていたのであり、佐伯自身も繰り返し目にした光景だろう。キャンバスを手にした松下と佐伯は、このあたりで邂逅しているのではないか。
 下落合1385番地の家では、お腹が大きくなった淑子夫人を1928年(昭和3)12月4日に、居間と思われる部屋で撮影した写真が残っている。このわずか9日後の12月13日に、長女・彩子様が誕生している。夫人の背後には、下落合の森を描いたとみられる『草原』と同じ傾向の作品が架けられていた。このときから、生後の彩子様をとらえた写真が急増することになる。1929年(昭和4)4月に撮られた、彩子様を抱く夫妻の写真背後には、目白文化村と第二府営住宅とにはさまれるような敷地だった、下落合1385番地の家々が写っている。中出三也Click!や甲斐仁代Click!など、他の洋画家たちも暮らしたので、アトリエ仕様の借家が建っていたのかもしれない。
 
 
 戦災による焼失をまぬがれた松下春雄アルバムは、彼の仕事ぶりや昭和初期の家族の様子が具体的に見られ、また画家仲間との交流が詳細にたどれるばかりでなく、当時の落合地域の風景を実際に目にすることができる、願ってもない貴重な資料といえるだろう。その枚数は膨大にのぼるので、また気がついた貴重な写真があれば随時こちらでご紹介していきたい。

◆写真上:『五月野茨を摘む』のモチーフに描かれた不動園近くのモッコウバラ垣越しに、完成して間もない落合小学校の西側校舎と講堂(画面中央から左手)。手前の敷地は第四文化村で、前谷戸からつづく深い谷間が中央にあり、文化村住民がスキーを楽しんだ急斜面が右手にある。
◆写真中上:上左は、下落合1445番地にあった下宿先・鎌田家と思われる住宅の一部。上右は、鎌田邸へ通じる袋小路。下は、同邸の2階からの眺望と思われる霞坂・西坂方面らしい風景。
◆写真中下:上は、1928年(昭和3)8月13日に撮影された下落合の森をスケッチする松下春雄と寄り添う淑子夫人。中は、下落合1385番地の画室で完成した『草原』と淑子夫人。下は、冒頭のモッコウバラと落合小学校を撮影したバリエーション写真の1枚。この画面では、箱根土地の加工作業棟か資材倉庫と思われる長屋状の建物が、スキー場の尾根上(右端)にとらえられている。
◆写真下:上左は、居間と思われる部屋の淑子夫人(右)。上右は、乳母車に入れられた屋外の彩子様。下は、彩子様を抱く松下夫妻の背後には下落合1385番地の家並みが見えている。

★本記事をお読みになった山本和男様・彩子様より、「まったく書いてある通りで、ぜひ亡き母(淑子夫人)にも読ませたかった」とのご連絡をいただいたのがうれしい。これで、写真の建物が下落合1445番地の鎌田宅の下宿であること、また第一文化村の北側に接した一画に芸術家たちが多く住んでいた、下落合1385番地界隈の情景であることが確認できた。