中村彝Click!が、1919年(大正8)の暮れに12号キャンバスに描いていたと思われる、彝アトリエClick!裏に建っていた一吉元結工場Click!の作品画像が残っていないかどうか探していたら、目白福音教会Click!の宣教師館(メーヤー館Click!)に近接して北側に建っていた、旧・英語学校(一時は聖書学校として、また昭和期には牧師たちのゲストハウスとして使われていたようだ)を描いたとみられる作品を見つけた。現在では展覧会でも目にすることのないめずらしい作品だ。
 中村彝は、いま開催中の「中村彝―下落合の画室―」展Click!に出品されている、笠間日動美術館が所蔵していた『風景』Click!(制作年不詳)や、『目白の冬』Click!(1920年)の画面右端に、この建物をチラッと入れて描いている。この作品は、その旧・英語学校(のち牧師宿泊施設)をモチーフの中心にして制作していると思われる。同建物は、落合福音教会(のち目白福音教会と改称)が計画された最初期に建築され、メーヤー館Click!とごく近似した意匠をしているので、明治期における最後期のヴォーリズ建築事務所による仕事だと想定することができる。
 見つけた作品画面は、戦後の中村彝の画集や展覧会の図録では精細なカラー画面をどうしても確認できないので、ひょっとすると戦災で失われてしまった1枚なのかもしれない。なお、目白福音教会の同館は、下落合や目白駅付近の風景を多く制作している小島善太郎Click!も、大正の早い時期に写生しているはずだが、現在ではその画面を見つけられない。小島の自伝では、作品が気に入らないと写生場所の付近へ棄ててくるので、同館を描いた作品も気に入る仕上がりにならず、林泉園の谷間へでも放りこまれてしまったものだろうか。
 同作を見つけたのは、彝が死去した翌年、1925年(大正14)2月に発行された『みづゑ』240号の「中村彝追悼号」だ。同作は『風景』というタイトルが付けられ、制作年は不詳ということになっている。1925年(大正14)のこの時点では、「森巻吉」という人の所蔵品だったことが、巻末の「アトリエ雑記」に記されている。同誌の巻頭図版に、カラーで掲載されている作品のひとつが『風景』なのだが、現代とは比べものにならない大正当時の4色(3色?)製版によるオフセット印刷なので、どこまで精細なタッチが再現され、その色彩が忠実に表現されているかどうかはわからない。おそらく、実物の印象とはかなり異なるのではないかと思う。
 これは、新宿歴博で開催中の「中村彝―下落合の画室―」展に展示されている『雪の朝』Click!にもいえることで、成蹊学園が当初、同作を1923年(大正12)2月5日に発行された教育機関誌『母と子』(成蹊学園出版部)の表紙に採用した際の印刷品質を見ても明らかだ。同誌の印刷は3色分解による製版なので、実物の作品画面と比較すると、よけいにタッチや色彩のちがいが目につく。おそらく、『みづゑ』240号のカラー印刷も大なり小なり、同じレベルの印刷だと思われる。
 『風景』の構図は、庭木と思われる低い樹木の間から少し大きめな西洋館を描いているもので、手前に描かれた朱色の花がカンナだとすれば、夏から秋にかけて制作された可能性が高い。よく晴れあがった日に描かれたらしく、木々の葉や建物の壁面には強い陽射しがあたっているように見える。太陽は手前、つまりこの画面をスケッチしている中村彝の左寄り背後にあり、南側からほぼ北側を向いて写生をしているらしいことが、陰影などから想定できる。空は、印刷からはグレーっぽく見えるのだが、実際は快晴の空でブルーなのではないか。
 
 彝が描いたメーヤー館でも同様に感じるのだが、2階建てのかなり大きくて立派な教会付属の西洋館が、屋根裏部屋の設けられたまるで1階建ての建物のように描かれている。それは、メーヤー館も、また北側の旧・英語学校も、周囲を低木の生垣や樹木で囲まれているせいで、彝の描画位置からは1階部分が隠れて見えなかったからだ。『風景』の画面では、建物の東側(右側)へ規則的に植えられた生垣と思われる樹木が並んでいるのが見えている。これら2~3mほどの木々が、1階部分を覆って彝の視界から隠していることになる。
 これは、津田左右吉が所蔵していた曾宮一念Click!のメーヤー館作品『落合風景』Click!(1920年)にもいえることで、周囲の生垣がかなり伸びてメーヤー館を1階建ての西洋館のように見せている。彝のメーヤー館4部作では、真東にある袋小路の路地から描いた『風景』(1919~1920年)が、突きあたりに見えている目白福音教会の敷地境界に設置されていた板塀に、1階部分を丸ごと隠されながらも、周囲に高い木々がないためにどうやら2階建てらしい風情に描かれている。
 さて、彝は旧・英語学校をどこから描いているのだろうか? 従来のメーヤー館を描いた立ち位置、すなわち一吉元結工場の干し場からでは、同館の北側に位置する旧・英語学校をこのような角度で眺めることはできない。もう少し西側のメーヤー館に接近して北側を眺めなければ、旧・英語学校はこのように見えなかっただろう。すなわち、彝は元結工場の干し場から西へ歩き、目白福音教会の板塀を越えて敷地内にだいぶ入りこみ、同作を描いていることになる。
 新宿歴博に展示されている笠間日動美術館の『風景』(制作年不詳)や、『目白の冬』(1920年)には、元結工場の干し場と目白福音教会の敷地との境界に設置された板塀がとらえられている。両作には、板塀の途中に扉が描かれており、日動の『風景』の板塀では扉が開いているように見えるので、教会内へは当時から誰でも自由に出入りできたのだろう。彝は、まさに描かれたこの扉からメーヤー館の近くまで足を踏み入れているのかもしれない。
 
 
 彝が描いている位置は、メーヤー館の東約20~30mほどのポイントになるだろうか。手前の緑は、目白福音教会の敷地内を東西あるいは南北に区切っていた当時の生垣で、画面に描かれた樹木はメーヤー館から東へまっすぐに伸びていた生垣の一部ではないかと思われる。区画割りの杭らしいものも描かれた生垣越しに、彝はほぼ北西を向いてイーゼルにすえたキャンバスに向かうか、あるいはスケッチブックを手持ちで写生しているのだろう。彝の左手(西側)には、メーヤー館がすぐそこに大きく迫って見えていたはずだ。現在の場所でいえば、描画ポイントは目白平和幼稚園の園庭南端、または日本聖書神学校の幼稚園寄り校舎あたりということになる。
 この『風景』も、また『目白の冬』(1920年)でも、メーヤー館と旧・英語学校の外壁はベージュあるいはタマゴ色に塗られている。でも、強い陽射しがあたった建物の外壁表現として、このような色あいで表現するのは、別にめずらしくはなかっただろう。当時の2館は、はたして何色の外壁をしていたのだろうか? 東側の路地から眺めた『風景』(1919~1920年)のメーヤー館は、薄いグリーンの外壁で塗られているが、彝が建物の陽陰表現をたまたまグリーンで表現したか、あるいは周囲の樹木の緑が映えていたものか、どちらかはわからない。
 メーヤー館の北側に建っていた旧・英語学校の建物は、本格的な英語学校の大きな校舎が目白通り沿いに完成すると、戦前には牧師たちの宿泊施設として活用されてたようだ。だが、1944年(昭和19)の秋から目白通り沿いの南側で幅20mにわたって実施された建物疎開Click!により、同建物は解体されていると思われる。地元では、空襲で焼夷弾が直撃して焼けた…という伝承もあるけれど、当時の特高Click!や憲兵隊Click!によるキリスト教会への弾圧を考慮すると、目白通り沿いの建物疎開計画Click!でキリスト教会の建物が解体をまぬがれていたとは、どうしても考えにくい。
★その後、目白通り沿いの建物疎開は、1945年(昭和20)4月2日から5月17日までの、いずれかの時期に行われているのが判明Click!している。


 中村彝が、1919年(大正8)の暮れに描いていた一吉元結工場の作品画面を探していたら、思わぬ作品に出あうことができた。『みづゑ』240号に収録された『風景』は制作年が不詳だけれど、いまだ病状がそれほど悪化せず外出が可能だった時期には、かなりの点数にのぼる下落合風景を描いているのではないか? 彝が下落合へとやってくる以前に描かれたとされている、ひょっとすると制作年の誤記かもしれない作品、あるいは「制作年不詳」とされている作品にも留意が必要だ。元結工場の作品を探しがてら、彝が下落合464番地にアトリエを建てた1916年(大正5)以降の作品を中心に、もう一度注意深く検証してみたいと思っている。

◆写真上:『みづゑ』240号の巻頭に収録された、中村彝『風景』(制作年不詳/部分)。
◆写真中上:左は、1925年(大正14)2月に発行された『みづゑ』240号の「中村彝追悼号」。右は、『雪の朝』と同様にタテ長のプロポーションで小品と思われる中村彝『風景』の全画面。
◆写真中下:上は、『目白の冬』(1920年/左)と日動の『風景』(制作年不詳/右)にみるメーヤー館の北側に建つ旧・英語学校の西洋館。下左は、右手の白いビルのあたりに同館は建っていた。下右は、彝アトリエの北側からの眺めで同館は遠景に見える白いビルのあたり。
◆写真下:上は、1930年(昭和5)に東側の芝庭から撮影された旧・英語学校(当時は牧師宿泊施設)の西洋館。下は、アトリエ周辺で中村彝が下落合風景を描いた作品群の描画ポイント。