萩原稲子(旧姓・上田稲子)が、大森のバッケ(崖地=八景)Click!に通う八景坂の途中、首くくり松の木陰で若い画学生の恋人とキスしていたのを、夫である萩原朔太郎に目撃されたのは、1928年(昭和3)ごろのことだった。・・・こういう書きだしではじめると、萩原稲子は夫・朔太郎に離婚されてあたりまえの、ふしだらな浮気女のように感じるのだが、実情はそれほど単純ではなく、まったく異なっていた。萩原朔太郎は、妻が自分以外の男とダンスをし、恋愛関係になるのを眺めることに一種の快感をおぼえる、変態的で奇妙な性癖をしていたのだ。
 上田稲子(のち萩原稲子)は、旧・金沢藩の家臣の家柄に生まれ、屋敷は旧・加賀藩上屋敷(そのほとんどが現・東京大学)の敷地内にあった。1918年(大正7)5月に萩原朔太郎と結婚するが、萩原家の姑(萩原ケイ)と結託した朔太郎の妹たちから徹底的に攻撃され、正式な結婚なのにもかかわらず「妻とはいっさい認めない」と一貫して疎外され、家族から排斥されるような扱いを受けている。妻が攻撃され、萩原家から追い出されかねない扱いを受けていることに対し、かんじんの朔太郎はまったくの無関心で、稲子を守ろうとも家族との間をとりなそうともしなかった。家庭内の紛糾を、朔太郎は一貫して無視するか逃げまわり、見て見ぬふりをしていた。
 この萩原家の母親と娘たちが一致団結し、長男・朔太郎を「独占」しつつ、妻の座にいる女性を徹底的にいじめ抜くという性癖は、その後も朔太郎の2番目の妻・美津子にもまったく同様に繰り返され、彼女は物理的に萩原家から締めだされ、たたき出されている。再婚した美津子の窮状にも、朔太郎はなんら注意を向けず、また解決策をこうじようともせず家を出た妻のもとに通うだけで、まったくの無関心を決めこんでいた。姑と小姑たちに繰り返し現れる、朔太郎の妻に対する病的な攻撃性は、今日の精神分析学的な視座から見れば、なんらかの「病名」がつくのだろう。この間、家庭の修羅をよそに萩原朔太郎自身は、よそに妾を囲っているというありさまだった。
 
 1927年(昭和2)ごろから、大森駅近くの馬込には文学関係者が多く集まりだし、のちにいわゆる「馬込文士村」と呼ばれる住宅街が形成されている。翌1928年(昭和3)11月には、室生犀星も馬込に転居し、北原白秋と萩原朔太郎とともに三大詩人が集合していた。そこではモダンな生活が営まれ、夜ごとにダンスパ―ティが開かれるなど、昭和初期における最先端の文化街のひとつとなっていた。馬込でも、朔太郎はまったく妻を顧みず相手にもしなかったようだ。では、なぜ結婚したのか?・・・と思うのだが、そこが朔太郎のおかしな性格だとしかいいようがない
 夫の奨めでダンスパーティへ出席するようになった稲子は、馬込では宇野千代Click!に次いで髪を思いきって断髪にしたモダンな女性だった。次に断髪にしたのが、川端秀子(川端康成の妻)だった。そして、稲子がよその男に抱かれながらダンスをし、親しげに囁き交わしているのをジッと見つめながら嫉妬心を燃やすのが、朔太郎にはこの上ない快感だったようだ。ある酔った青年が、稲子夫人にキスしてもいいかと訊きにきたとき、朔太郎は「えーえ。かまへませんよ。もう一つ先きのことを為さつたつてかまひませんよ」と答えている。
 夫から無視されつづけ相手にされない妻の稲子に、ダンスパーティやサロンを通じて若い恋人ができるのは時間の問題だった。また、朔太郎もどこかでそれを望んでいた。八景坂でキスをしていたのを朔太郎に目撃された若い男は、宇野千代から紹介されたまだ18歳の画学生だった。朔太郎は稲子に恋人ができると、馬込の“文学サロン”における人間関係の緊張感と、わくわくするような嫉妬心に喜びを感じていたらしい。また、稲子はもともとが乃手Click!の武家でお嬢様育ちのため、わがままな性格で気が強い一面があったようだ。その後、稲子は朔太郎に見切りをつけ、娘ふたりを残したまま若い画学生と駆け落ちしてしまう。文士たちの間に起きた、さまざまなウワサを流すネットワークのことを、当時は「馬込放送局」と呼んでいたらしいが、宇野千代と萩原稲子のふたりは、「馬込放送局」には願ってもない、かっこうのゴシップ・ヒロインだったろう。
 

 こんなふたりが、そのまま夫婦生活をつづけられるはずがなく、結局、1929年(昭和4)7月に離婚している。離婚直後の稲子の言葉を、2010年に出版された川西正明『新・日本文壇史』(岩波書店)の「室生犀星と萩原朔太郎」から、川西の要約文として引用してみよう。
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 結婚して十一年たち、九歳と七歳の娘がいる。その夫婦の関係がなぜ崩れたかと言えば、お互いに救いようのない性格の不一致からである。もっと解りやすく言えば、我儘の衝突であった。萩原は、結婚生活に無頓着であった。私は当初から一つの融合出来ぬ冷たさを感じていた。その冷たさは萩原の根本的な性格であった。私は我儘で負けず嫌いな性格である。人と妥協することは苦手であった。好きなら好きと遠慮なく言うが、厭になったらそれきりもう何もかも厭になる性格の女である。/結婚当初から互いの自由を尊重する契約を交わした。当然ながら自我の衝突がおこった。萩原は子供が病床に苦しんでいても、飲みに行くことを止めなかった。私はそういう萩原の行為を拒んだ。二人は口論になり、別れ話がもち上がった。こうしたことが線香花火のように火花を散らしては消えていく毎日だった。
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 1932年(昭和7)に上田(萩原)稲子は「落合文士村」というよりは、画家など美術家のアトリエのほうが圧倒的に多いので、「落合芸術村」とでも総称すべきエリアへとやってきた。そして、年下の駆け落ちした画学生をカウンターに入れ、下落合3丁目1909番地の寺斉橋Click!北詰めに「ワゴン」を開店している。三富と呼ばれる画学生は、神楽坂で逸見猶吉が経営していたバーのバーテンダーをしていたことがあり、その経験を活かした起業だったのだろう。「ワゴン」のショルダーは喫茶店または珈琲店となっているが、酒も当然置いているカフェバーのような店だった。1937年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!には、開店して間もない「ワゴン」が偶然写真に撮られている。
 
 「ワゴン」には、近所の檀一雄Click!や林芙美子Click!、太宰治Click!、尾崎一雄Click!、武田麟太郎Click!、古谷綱武をはじめ、神楽坂のバーで三富といっしょだった逸見猶吉、宍戸義一、石川善助、伊藤整、百田宗治などが通ってきている。ウィスキーのストレートが1杯10銭だったので、カネのない文士たちは稲子ママの顔を眺めながら、チビリチビリやる居心地のいい店だったのだろう。

◆写真上:馬込の崖地に通うバッケ階段で、擁壁には文士たちのレリーフが嵌めこまれている。
◆写真中上:左は、馬込に残る昭和初期の西洋館。右は、妙な趣味をしていた萩原朔太郎。
◆写真中下:上左は、馬込時代と思われる萩原稲子。上右は、1929年(昭和4)に喫茶店「ワゴン」で撮影された上田稲子(萩原稲子)。下は、「ワゴン珈琲店」の看板が見える寺斉橋北詰め。橋のたもとに座るお父つぁんは、稲子ママのいる「ワゴン」が開店するのを待っているお客だろうか。
◆写真下:左は、『落合町誌』編纂時に偶然撮影された下落合3丁目1909番地の中井駅前に開店した喫茶店「ワゴン」。右は、寺斉橋の北詰めにあった喫茶店「ワゴン」跡の現状。