以前、下落合2191~2194番地あたりの「熊本村」(熊本人村)に住んでいた、画家の竹中英太郎Click!についてご紹介Click!したことがあった。この記事は、九州で警察署の給仕や鉄工所、炭鉱などで働きながらサンディカリズム的な左翼運動をしていた英太郎が、1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!の際、憲兵隊による大杉栄・伊藤野枝夫妻の虐殺に憤激し、東京は下落合に住んでいた編集者でのちに作家となる小山勝清宅に転がりこむ劇的なシーンからはじまっていた。大杉たちを殺した権力へ報復するために、要人暗殺を決意し「白鞘の短刀を懐に呑んで」、1923年12月に東京へとやってきたことになっている。
 当時の五ノ坂上に形成されていた「熊本村」(熊本人村)には、上記の小山勝清のほかに橋本憲三や高群逸枝Click!夫妻、平凡社の下中家三郎、映画脚本家になる美濃部長行など、九州の出身者が多く暮らしていた。このあたりの様子は、ナカムラさんClick!のサイトが詳細に調べて記述されているので、ぜひそちらをご参照いただきたい。わたしが当時の記事に引用した、備仲臣道の『美は乱調にあり、生は無頼にあり~幻の画家・竹中英太郎の生涯』(批評社)から再び掲載しよう。
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 そこへ要人暗殺を企てた英太郎が、牛原のつてで小山を頼ってゆき、暗殺失敗後もそのまま居着くことになって、小山の世話で彼の家とは畑をへだてた隣りに一軒を借りた。(中略)/下落合の熊本出身者の世界では、誰かが家を借りると、たちまち一人か二人の文学青年やアナーキストが居候に入り込む。それが、ごく普通のことになっていたから、仲間内の者は、ひもじい思いはしながらも、なんとか命をつないでいくことができた。
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 その後、竹中英太郎が東京へと出てきたのは、おそらく政府要人に対するテロルを実行するためではないことが、さまざまな検証や遺族への調査を通じて明らかになりつつある。上記の記述は、まったくの創作だった可能性が高いのだ。それは、備仲臣道が空想して描いたのではなく、竹中英太郎の息子・労(つとむ)が父親の伝記を劇的に盛りあげるため、随所で思うぞんぶんに脚色してしまったことによるらしい。竹中労は、父・竹中英太郎の生涯について著作のあちこちに記述しているけれど、それらは事実の記録としての英太郎像ではなく、労が妄想し創作した「竹中英太郎伝説」だったようだ。備仲臣道は、竹中労が表現した「竹中英太郎伝説」を、近しい肉親である息子自身の証言であるがゆえ、そのまま忠実にトレースして書いているにすぎない。
 
 
 竹中英太郎は、熊本から経済学と絵画を学びに東京へ出てきたようだ。そのときの状況を、鈴木義明『夢を吐く絵師・竹中英太郎』(弦書房)からの孫引きで、1988年(昭和63)に発行された『太陽』(平凡社)の竹中英太郎本人へのインタビューから、少し長いが引用してみよう。ちなみに、英太郎は同年の4月8日に新宿駅東口で倒れ、虚血性心不全のため82歳で急死している。
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 (オルグのため)全九州から選ばれた人間が炭鉱へもぐったことがありまして。筑豊二五万の労働者が結束すれば、革命は一夜にしてなるという妄想ですよ。ところがね、世の中そんなものじゃない。だいいち炭鉱の労働ってとても言語に絶するものでして、真っ暗闇でしょ、太陽のありがたさがしみじみわかるんです。ほっと見上げる空にお日様があることがね、どのくらい救いだったことか。一日働いたら四日くらい動けませんでしたよ。それでも私は半年近く頑張りましたが、仲間は一人去り、二人去り、病気になりということで、一夜にして革命どころの騒ぎじゃない。惨憺たる敗北を喫したんです。/仲間の豹変ぶりを見るうちに、これは生半可な勉強じゃだめだ、東京に出て本式の勉強をしなきゃいかんと思って上京したんです。大正十三年、十七歳でした。 (中略)/私はね、経済学を勉強しようと思っていたんですよ。ロシア革命が起こったのが十一、二の頃、それから数年、世界的なすごい影響下にあったわけですね。もう三年たてば世の中は変わるんだ。誰をどうしなくても貧乏人が圧倒的多数になって世の中は変わるんだと、少しものの本を読んだりする連中は、皆、そう思いたくなるような時代でしたよ。 (カッコ内は引用者註)
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 竹中英太郎が東京へと出てきたのは、関東大震災と同年(1923年)の12月ではなく、翌1924年(大正13)の17歳になってからのことだった。それは、同年4月に熊本で「熊本無産者同盟」の結成に参画し、5月のメーデーを組織していることからも、英太郎がいまだ熊本にいたことが裏づけられている。また、英太郎は炭鉱の労働現場に入り、実際に過酷な坑内労働を半年ほど経験している。彼が東京へ出る決意をするのは、1924年(大正13)の秋になってからのことだ。


 竹中英太郎が通った画学校は、下落合に住んだ多くの洋画家たちも通った学校としてお馴染みの、小石川区下富坂町にあった川端画学校だ。当時の川端画学校は、すでに東京美術学校を受験するための“予備校”のような存在になっており、佐伯祐三Click!や山田新一Click!も同校へ通学している。英太郎も、あるいはどこかで美校を意識していたのかもしれない。
 また、竹中英太郎は絵の勉強と並行して、第一外国語学校英文科へも入学している。仏文科ではなく英文科なのを見ると、こちらは絵画の勉強とは切り離した別の目的のために通学しているような感じを受ける。和訳本ではなく、経済学の書籍を原書で勉強したかったのではないだろうか? 特に1924年(大正13)当時、マルクスの『経済学批判』Click!(通称『資本論』)は一部の翻訳しかなされておらず、第1巻の抄訳が1919年(大正8)に出版されたばかりだった。しかも、ドイツ語版の原本からではなく英語版からの翻訳だったように思う。
 でも、英太郎には経済学をじっくり勉強している余裕が、少しずつなくなっていく。彼が描く小説の挿画が徐々に注目されはじめ、編集長・横溝正史の抜擢で『新青年』(博文館)に掲載された江戸川乱歩の『陰獣』の挿画を担当すると、その人気へ一気に火が点いた。もはや、学費を稼ぐためにはじめた挿画のアルバイトが、家族を養うための本業になっていった。
 こうして、竹中英太郎は挿画家への道を歩みはじめ、江戸川乱歩をはじめ甲賀三郎、木下宇侘児、夢野久作Click!、横溝正史、内田百閒Click!、三角寛Click!、三上於菟吉Click!、海野十三などの作品に引っぱりだことなった。1936年(昭和11)に二二六事件Click!が起きると、陸軍青年将校たちのグループ「桜会」に関係していたことから逮捕・拘留されている。ほどなく釈放されると、英太郎は国内の制作活動をいっさいやめて、朝鮮半島から満州へと旅立っていった。竹中労は、英太郎が満州で大陸浪人をして「大活躍」したように描いているが、これも事実からかなり乖離しているようだ。

 
 戦後、竹中英太郎は山梨県を中心に少年時代と同様、一貫して労働運動にたずさわり、日本新聞労連の中央執行委員会副委員長までつとめている。英太郎がもう一度、本格的に絵筆をとるようになるのは1967年(昭和42)、61歳になってからのことだ。竹中労がプロデュースしていた、京都府制100周年の記念映画『祇園祭』のための作品だが、労がプロデュースを下りたために未発表となった。その後、英太郎は再び絵筆をとりはじめ、新たな作品を生みだしていく。来日したマレーネ・ディートリッヒのために、帝国ホテルのスイートルームへ彼女をモチーフにした作品を3点提供したり、五木寛之のベストセラー小説『戒厳令の夜』の映画化で作品を描いたりと、挿画ではなく本格的なタブロー画家として活躍しはじめるのだが、それはまた、別の物語…。

◆写真上:1974年(昭和49)にマレーネ・ディ―トリッヒの来日時、帝国ホテルの宿舎に架けられていた竹中英太郎『赤のディートリッヒ』。『黒のディートリッヒ』は、彼女が気に入って持ち帰ったらしい。のちに英太郎は、「3枚ともプレゼントしたのに、欲のない婆さんだ」と述懐している。
◆写真中上:上左は、1930年(昭和5)に撮影された竹中英太郎(右から2人目)。左端には、下落合2111番地に住んだ林唯一Click!が見える。上右は、1928年(昭和3)の江戸川乱歩『陰獣』の挿画。下は、夢野久作『支那米の袋』(1929年/左)と横溝正史『鬼火』(1935年/右)の挿画。
◆写真中下:上は、1975年(昭和50)にレコードジャケットとして描かれた竹中英太郎『桜散る女』。下は、同年にレコードジャケット用に制作された竹中英太郎『失われた海への挽歌』。
◆写真下:上は、映画「戒厳令の夜」の“絵画作品”として1979年(昭和54)に描かれた竹中英太郎『熟れた果実』。下左は、同映画のため同年に制作された竹中英太郎『少女a』。下右は、1960年(昭和35)に甲府で撮影されたと思われる竹中英太郎。