松本竣介・禎子夫妻Click!が、下落合4丁目2096番地の綜合工房(松本竣介アトリエClick!)で編集・出版していたエッセイ誌『雑記帳』Click!は、その執筆陣をみると当時の美術・工芸・文学・建築…etc.、すべての芸術分野をカバーしていることがわかる。だから「綜合」と銘打っているのだが、執筆者の居住地をみると面白い傾向が見えてくる。やはり当時、落合地域あるいはその周辺域に居住していた人々、あるいは勤務地が近い人々が多いのに気づく。
 洋画家・松本竣介Click!(当時は佐藤俊介)は、子どものころに罹った流行性脳脊髄膜炎がもとで聴覚を失っているので、原稿は手紙で依頼するとしても、執筆者宅へ実際に原稿を受け取りにいったり、広告取りなど実務をこなすのは、もっぱら禎子夫人の役割りだったろう。自由学園を卒業すると、羽仁もと子が主宰する『婦人之友』の編集部で働いていた禎子夫人には、この仕事がそれほどむずかしいことではなかったかもしれない。
 でも、『雑記帳』は月刊誌なので、並たいていの忙しさではなかったにちがいない。1936年(昭和11)10月にスタートした『雑記帳』は、1冊の定価が30銭、6ヶ月の定期購読で1円80銭(送料込み)、1年間の定期購読だと3円50銭(同)という値段がつけられていたが、それでも「高い、もう少し安くならないか」というクレームが編集部へ寄せられていたらしい。でも、出版事業の財政は大赤字で、毎号発行を重ねるごとに赤字額が徐々にふくらんでいったようだ。『雑記帳』は、1937年(昭和12)12月号をもって、通巻14号で休刊してしまう。
  余談だけれど、わたしも大学を卒業してしばらくすると、月刊でミニコミ誌を発行していたことがある。『雑記帳』に比べたら、ページ数も少なく印刷もお粗末なものなのだが、芸術や社会分野を中心に、さまざまな執筆者に依頼して原稿をご好意で寄せてもらった。足かけ3年ほど通巻19号までつづいたけれど、原稿料が払えない代わりに毎号欠かさず執筆してもしなくても、読者(兼執筆者)へ配達する…という約束で成立していた。広告は掲載せず、定価はなしの無料配布だった。いまでは文芸評論家、作家、歌人、映像プロデューサー、デザイナー、政治家…と各分野で活躍する人たちが原稿を寄せてくれているが、勤めの仕事との両立だったので、とても執筆者宅をまわるわけにはいかず、原稿はFAXか郵便で送ってもらっていた。現在なら、テキストも画像もメール添付で、もっとスピーディかつ効率的にできただろう。
 メールはおろか、FAXさえ存在しない昭和初期の『雑記帳』時代は、企画にはじまり台割り(ページ構成)、原稿受け取りや広告取り、誌面レイアウト、挿画の手配や制作、印刷所との打ち合わせ、ゲラ刷りの校正、そして配送業務と、毎日が目のまわるような忙しさだったにちがいない。日々、本業の仕事を抱えていたとはいえ、『雑記帳』の半分以下のページボリュームでさえ、わたしは目のまわるような思いをしたものだ。松本竣介も、展覧会への作品出展など画業を抱えての出版事業だったので、おそらく禎子夫人の役割りがことさら大きかったと思われる。
 

 1937年(昭和12)の暮れに発行された、『雑記帳』12月号(通巻14号=最終号)では、本号で永久に休刊してしまう雰囲気はまったく感じられない。初期の号に比べ、ページ数も格段に増加しているし執筆者も増えつづけ、海外の翻訳短編小説も2編掲載されるなど、変わらない充実ぶりをみせている。表紙にはモディリアニの素描が採用され、巻頭の扉やコンテンツには三岸節子やドガ、福澤一郎、鳥海青児、松本俊介(竣介)などの挿画が並んでいる。『雑記帳』編集部では、相変わらず維持会員を募集しつづけており、本号以降も発刊がつづくことを示唆している。維持会員募集の呼びかけを、同誌最終号の巻末の通巻総目次および奥付のページから引用してみよう。
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 新しい知性の生育のためには、友人の大きな協力が是非必要だ。われわれの新しい時代をつくるために。新年を控へて、志を同じくする人々に広く紙面を開放する準備も出来てゐる。われわれは、ひたすら新しい希望のもとに批判精神の向上に専念する。読者は一人でもいい新しい仲間を作ることによつてこの仕事に協力してくれないだらうか。協力を切望する次第です。
 (奥付呼びかけ文)
 新しき知性・生育のために「雑記帳」発展への御協力を乞ふ!/「雑記帳」維持会員募集
  略 規
 ☆雑記帳維持会員は、毎月会費1円を綜合工房宛御送付くださること。
 ☆維持会員には雑記帳の外、誌上掲載の素描を上質紙に別刷額面用として毎月一葉宛各会員に御送付申上げます。(但し頒布の画は全巻を通し御希望のものを差上げますが特に御指定無き場合は当方にお任せ下さい。)
 ☆維持会員になつて下さる方は月末迄に金一円振替又は小為替にて綜合工房宛御振込下さい。それによつて維持会加入と看做します。
                        東京市淀橋区下落合四ノ二〇九六  綜合工房
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 『雑記帳』が廃刊に追いこまれたのは、中国との全面戦争で戦時体制が強化されるなか、さまざまな物資の値上がりや欠乏、統制が出はじめており、赤字つづきの綜合工房に大きなダメージを与えたせいもあるのだろう。しかし、当然のことながら、当時の時代背景として時局や時流に抗するがごとく、「芸術の自由」や表現の自立を標榜するような雑誌が、当局からなんの注意も払われずに発刊されつづけていた…ということなどありえない。
 社会や政治、思想に対する問題意識や批判精神を根絶やしにしようともくろむ警察からは、「新しい希望のもとに批判精神の向上に専念」するような出版物は、かなり目ざわりな存在として見られていただろう。松本竣介のアトリエにも特高警察Click!の刑事が訪れ、また西武電鉄の中井駅前には常に特高が張り込むというような状況を迎えていたらしい。松本夫妻はもちろん、見えないところでは同誌への執筆者たちにも、なんらかの圧力が加えられているのかもしれない。
 1937年(昭和12)12月号=最終号の巻末には、禎子夫人の実父で慶應大学の英文学教授だった松本肇が翻訳した、オー・ヘンリーの『クリスマス宵祭』が掲載されている。現在の邦題では、『賢者の贈り物』と訳されている作品だが、若い夫婦がクリスマスプレゼントの皮肉な行きちがいから、いちばん大切にしていたものをお互いが失ったにもかかわらず、贈った相手を限りなく幸福にする…という、いかにもキリスト教的な“ヒューマニズム”をベースにした犠牲と愛情の物語だ。

 
 でも、このような“ヒューマニズム”(松本は、この曖昧な用語を「好んで」多用している)さえ許容されない時代が、すぐそこまで迫っていた。下落合地域の病院Click!を含むキリスト教会や信者たちが、特高や憲兵隊に弾圧Click!されはじめるのは、『雑記帳』の最終号からわずか4年後のことだ。1941年(昭和16)に発行された『みづゑ』4月号に、政治からの芸術家の(人間性にもとづく)自立、表現の自由を婉曲に主張した「生きてゐる画家」を書いたにもかかわらず、松本竣介が上落合の佐々木孝丸Click!のように「自由主義者」として特高に逮捕されなかったのは、聴覚を失っている彼を「みくびった」ものか、それとも圧力をかければ戦争画家として取りこめると考えたものだろうか?

◆写真上:松江に疎開中の息子に宛て、1945年(昭和20)5月28日に出された絵手紙。5月25日の第2次山手空襲Click!直後に東中野から見た目白崖線で、松本邸の右手に見えている赤い大屋根は島津源吉邸だろうか。先に開催された「生誕100年・松本竣介」展のパンフには、「アトリエのあった下落合周辺は、その後の空襲であたり一面、焼野原となりましたが、幸いにも竣介宅の一角だけは罹災をまぬがれた」と書かれているけれど、空襲で延焼したのは下落合中部の目白文化村Click!までで、下落合西部=アビラ村(芸術村)Click!一帯はほとんど空襲の被害を受けていない。
◆写真中上:上左は、婦人之友社で勤務する1932年(昭和7)ごろの松本禎子。上右と下は、自邸の玄関と庭先で撮影された1939年(昭和14)ごろの松本夫妻。画面右手が南側だと思われ、東隣りに写っている西洋館は1938年(昭和13)現在の島津一郎Click!邸だと思われる。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる松本邸。下は、1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真にみる松本邸と撮影位置の推定。
◆写真下:上は、1937年(昭和12)に発刊された『雑記帳』12月号=最終号の目次。下左は、同号の表紙。下右は、オー・ヘンリーの作品を翻訳した禎子夫人の実父・松本肇。