洋画家・松下春雄Click!の夫人である松下淑子Click!(旧姓・渡辺淑子)は、1933年(昭和8)12月31日の大晦日、急性白血病により30歳の夫を喪った。当時の女性が、一家の「大黒柱」であり働き手の連れ合いを亡くした場合、子どもを抱えて生きていくのは並たいていのことではなかっただろう。現在のように、女性の働き口がすぐに見つかる時代ではなかった。夫は定期収入のあった勤め人ではなく、生活がいまだ不安定な新進画家であり、自邸とアトリエClick!をようやく西落合306番地(のち303番地)へ建設したばかりで、家財の蓄えもほとんどない状況だったにちがいない。しかも、松下淑子はいまだ幼い子どもを3人も抱えていた。
 ふつうなら、洋画家・渡辺與平(宮崎與平)を病気で亡くした亀高文子Click!(渡辺ふみClick!)や、小林多喜二Click!を特高Click!に殺された伊藤ふじ子Click!のように、新たな夫を見つけて再婚するのがあたりまえの世の中だった。また、そうしなければ生活が困難だった。でも、松下淑子は二度と再婚せず、3人の子どもを無事に育てあげることに専念して、生涯独身を張りとおした。夫・松下春雄を亡くしたことが、彼女の心にとっては取り返しのつかない巨大な衝撃であり、生涯消えることのない大きな傷となって、その後の生き方を頑なに規定してしまったものだろう。
 渡辺淑子の実家は、武蔵野鉄道・上屋敷駅Click!近くの西巣鴨町池袋大原1464番地で開業医をしており、比較的裕福な家庭環境に育っている。淑子の妹は、ごく近くの自由学園Click!に通学しており、娘を自由学園へ通わせることになんら抵抗感をおぼえない、大正期のリベラルな家庭の雰囲気だったのだろう。当時の松下春雄は、渡辺医院の南にあたる西巣鴨町池袋大原1382番地の横井方に下宿していて、ふたりはここで出逢いClick!お互いが恋愛感情を抱いた。
 そして、ふたりは3年後に結婚するのだが、出逢いから結婚までかなりの時間が経過しているのは、渡辺医院の院長、つまり淑子の父親である渡辺濟(すくう)医師が娘との結婚について、画家として独立し生活できるめどが立ったら結婚してもいい…というような条件を、松下春雄に提示したというのが、わたしの想像だ。淑子夫人は、池袋での出逢いから恋愛、結婚までの事情を、娘の彩子様に詳しく話してはいない。松下春雄が画業に精進を重ね、文展の水彩画部門へ連続入選をはたしていくのは、渡辺淑子との恋愛時期とシンクロしているように思われる。
 

 
 結婚生活は3人の子どもにめぐまれたが、松下春雄の急逝のためわずか5年9ヵ月しかつづかなかった。松下の死後、葬儀を済ませた淑子夫人は、自邸とアトリエを画家仲間を通じて紹介された柳瀬正夢Click!に貸して、自身は3人の子どもたちを連れ池袋の実家へともどった。実家が医院で比較的豊かだったとはいえ、3人の子どもを抱えて自邸+アトリエの賃料だけでは食べてはいけず、子どもたちが大きくなるまでさまざまな仕事を重ねているようだ。また、柳瀬正夢一家も西落合に長くは住まず、やがて入居者を探さなければならなかっただろう。
 世の中は、閉塞的な戦時体制や「非常時」へと急速に傾斜していき、1941年(昭和16)に太平洋戦争がはじまると、ほとんどすべての物資に配給制が適用され、食べ物さえ十分に入手できなくなった。同年から、長女の彩子様(13歳)、二女の苓子様(11歳)、そして長男の泰様(8歳)の食べ盛りの子どもたちを抱え、1945年(昭和20)に戦争が終わったあとあとまで、食べ物を手に入れる苦労がつづくことになる。1944年(昭和19)の秋、池袋の実家が建物疎開のルートにひっかかり立ち退きを迫られると、淑子夫人は3人の子どもたちを連れて、松下春雄との思い出の家である西落合1丁目303番地の自邸+アトリエへともどっている。
 松下淑子は、生涯を松下春雄の妻としてこの自邸で終えることになるのだが、そのあとに家を建て替えて住まわれているのが、長女の山本和男様・彩子様Click!ご夫妻だ。山本和男様が、1970年(昭和45)の松下春雄33回忌に出版した『加伎路悲(かぎろひ)』には、淑子夫人が遺した俳句集「春の星」が収録されている。同書から、夫人の句をいくつか引用してみよう。
 


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  春 の 星
 子の進学喜憂を頒つ夫のなし
 かたつむり家負わされし寡婦われは
 幾とせか孤愁の蚊帳をひとり釣る
 時雨るれど墓前に黙す刻たのし
 秋深し子等一人づつ去りて行く
 相聞の歌にかなしき初時雨
 台風や子を支へとし三十年
 柿落葉遺作の前にはじらひぬ
 安らかな眠は別離大つごもり
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 「春」とは、もちろん松下春雄のメタファーだ。歿後30年以上もの年月が経過しているにもかかわらず、夫と死別したばかりのような感覚でいる、淑子夫人の心情が俳句に切々とこめられている。まるで、1933年(昭和8)12月31日の大つごもりの日から、時計の針がピタリと停止してしまったかのようだ。山本和男様は、『加伎路悲(かぎろひ)』の序文へ次のように書いている。
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 昭和画壇の新星として脚光をあびた松下春雄が逝って、いつしか三十三年が過ぎた。/当時、紙上でその哀話が伝えられた若い未亡人と三人の遺児たちの存在も、そのひとの名と共にすっかり世の記憶から消え去ってしまった。/けれど、戦争という波濤をものりこえ、戦後のインフレの嵐にもめげず、未亡人は静謐にしかも勁(つよ)く生き続け、遺児たちもつつがなく成人した。/「加伎路悲」(かぎろひ)は新しくめぐり来る春をも象徴し、過ぎ去った日日のはるかな追憶へもいざなうだろう。この小冊子を深いねぎらいをこめて松下未亡人の還暦の栞に贈りたい。
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 戦後の混乱期が徐々に終息してくると、松下春雄と建てた西落合の邸にもどっていた淑子夫人は、家じゅうのあちこちに、そして付近に拡がる西落合ののどかな風景のあちこちに、夫の姿が見えていたのだろう。それは水彩から油彩へと表現を変え、アトリエで100号を超える大きなキャンバスを前に格闘する夫の姿であり、ときに落合用水の流れる緑の濃い谷間へ子どもたちを連れて散歩に出かけた、楽しげな面影だったのかもしれない。松下淑子の日めくりカレンダーは、1933年(昭和8)の大晦日から二度とめくられることがなかった…、そんな気さえしてくるのだ。

◆写真上:1931~1933年(昭和6~8)にかけて西落合のアトリエで描かれた、面影から明らかに淑子夫人がモデルと思われる松下春雄『和装の女(椅子による女)』。
◆写真中上:上左は、小学生のころの渡辺淑子(右)。上右は、独身時代の同女。中は、1928年(昭和3)4月1日の結婚式における渡辺淑子と松下春雄(中央)。下左は、下落合1385番地の家で1929年(昭和4)3月23日に撮影された淑子夫人と生後100日目を迎えた彩子様。下右は、1929年(昭和4)10月17日に阿佐ヶ谷520番地近くの写真館で撮影されたと思われるふたり。
◆写真中下:上は、1930年(昭和5)5月17日に撮影された淑子夫人と彩子様を膝に抱く同女。中は、1932年(昭和7)6月19日に西落合306(303)番地のアトリエの淑子夫人。下は、1934年(昭和9)10月に池袋の実家で撮影された遺影を手にする淑子夫人と子どもたち。松下春雄の急逝から10ヶ月経過しているが、子どもたちを抱え呆然自失の淑子夫人の姿が痛ましい。
◆写真下:上は、1934年(昭和9)2月11日から東京府美術館で開かれた「松下春雄遺作展」にて。男性の中央が、松下の親友だった鬼頭鍋三郎Click!。中左は、1936年(昭和11)の松下春雄3回忌における墓前の淑子夫人と子どもたち。中右は、1940年(昭和15)に池袋で家族とともに撮影された淑子夫人。下は、1937年(昭和12)10月23日に撮影された淑子夫人と子どもたちの連続写真。カメラの前を横切ろうとした瞬間に写ってしまった淑子夫人で、久しぶりに笑顔を見せる彼女だが、夫の死後、アルバムで微笑む淑子夫人はこの連続写真の2枚しか存在しない。