山本和男・彩子ご夫妻Click!が保存されていた、松下春雄アルバムClick!には、大正末期から昭和初期にかけて落合地域の下宿(下落合1445番地)、あるいは借家(下落合1385番地)、そして自邸+アトリエ(落合町葛ヶ谷306番地→西落合1丁目303番地)周辺の風景を撮影した、きわめて貴重な写真類Click!が残されているのをご紹介してきた。1945年(昭和20)の空襲で、アルバムを焼失してしまったお宅が大半の中で、幸運にも戦災をくぐり抜けた稀有な例だろう。きょうは、松下アルバムに貼付されている、1928年(昭和3)5月ごろに撮影された下落合1445番地の鎌田邸と思われる、下宿の2階から見える風景について考えてみたい。
 松下春雄Click!が、下落合1445番地の鎌田家に下宿したのは、1925年(大正14)のことだった。このときから、1928年(昭和3)に下宿を引き払うまでの3年間、下落合の風景は激変Click!をつづけていただろう。あちこちで宅地造成の工事の音が響き、1922年(大正11)から販売がはじまった目白文化村Click!や近衛町Click!を中心に、明治期には見られなかった現代の住宅街の姿へと直接つながる、ハイカラな大正の街並みが出現しようとしていた。目白駅や目白通りを中心に開発が進んでいた大正期から、1927年(昭和2)に西武電鉄Click!が開通すると、下落合西部や上落合西部までが郊外住宅地として、東京市街地から大きな注目を集めるようになる。
 この時期に「下落合風景」を連作していた松下春雄Click!をはじめ、佐伯祐三Click!、笠原吉太郎Click!、二瓶等Click!、そして宮本恒平Click!らは、そんな落ち着かない新興住宅地の中で仕事をしていたことになる。松下春雄は、下落合に残る緑ゆたかな森や草花、大きな屋敷の庭園などを画面に取り入れて描き、笠原吉太郎は、面白い画面が構成できる風景ポイントを、ややデフォルマシオンをきかしながら好んでタブローにしている。二瓶等は、その画題からいかにも下落合らしいオシャレでハイカラな街並みを写し、宮本恒平は第二文化村の界隈やその周辺域をモチーフに制作していたと思われる。ただ、佐伯祐三だけが昔から残る古い家屋や、まさにリアルタイムで開発がつづいている工事中の場所、また開発を終えたばかりでむき出しの赤土跡も生々しい新興の郊外風景が展開するポイントばかりを選んで、『下落合風景』シリーズClick!を制作していたように思える。
 
 
 さて、松下アルバムに残る下落合の風景写真は、そんな環境の中で撮影されたものだ。下宿していた鎌田家の2階にある西側、ないしは南側の窓辺から身を乗りだし、南を向いて撮影していると思われる。1928年(昭和3)の当時、西武電鉄の下落合駅Click!は現在の聖母坂の下ではなく氷川明神の前Click!にあり、西坂Click!から落合第一小学校Click!にかけての尾根上は、いまだ明治末の名残りをとどめた華族の別荘や別邸が多く建ち並んでいただろう。それでも写真には、建てられて間もないと思われる一般の住宅らしい西洋館の姿があちこちに見えている。
 鎌田家の背後(北隣り)は、およそ400坪前後はありそうな滑川邸の敷地なのだが、その北側には箱根土地Click!が1924年(大正13)に販売をはじめた第三文化村の敷地が拡がっていた。古くから住む住民たちは、目白文化村などのハイカラな住宅街の姿に刺激を受けたのだろう、次々と洋風な住宅に建て替えはじめた時期でもある。松下春雄が写した風景は、そんな街並みの急激な変化をとらえたものだ。鎌田邸の路地を撮影した写真にも、突きあたりに滑川邸の西側母家らしい、おそらく建設されて間もない当時は新しい意匠だったと思われる洋館がとらえられている。


 急激な変化をつづける風景の中で撮られた松下の写真だが、住みなれた旧・鎌田家の下宿2階の窓辺で独身生活を送った想い出の記念にと、画面左手は西坂のあるあたりから落合第一小学校の手前(東側)、画面右手の霞坂の通うあたりまでを画角に入れて撮影しているように思われる。鎌田邸のある敷地から、美術誌の出版社・木星社Click!が営業していた道路をはさんだ南側には、ずいぶんあとあとまで木々のまばらな林ないしは草原が拡がっていた。おそらく、地主が新たに建設された住宅群の庭へ樹木や草花を供給する、植木屋でも開業していたのではないかと想像するのだが、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」でも、また1936年(昭和11)に撮影された空中写真でも、南側の“空き地”はたいして変化がないように見える。
 ところが、周囲に建つ住宅の様子や住民名は一変していることに気づく。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を比べてみると、採取されている多くの家々や敷地で住民名が一致していない。松下春雄が撮影した下落合の風景は、東京市街地から新しい住民たちが次々と家を建てて移り住むか、地主がハイカラな借家を建てては新しい住民を誘致していた時期であり、下落合が田園風景の拡がるのどかな郊外の別荘地あるいは「文化住宅」街から、淀橋区の成立とともに東京市街地へと組みこまれる、ちょうど狭間の街並みを切りとった写真ということができるだろう。
 松下春雄は、自身の主要モチーフだったのどかな下落合の風景が、宅地開発の波で次々に損なわれていくのに失望したものか、鎌田家の次に借りた下落合1385番地の借家から、さらに西の阿佐ヶ谷の借家へ、そして落合地域へともどってはきても、当時は大正期に指定された「風致地区」の名残りが濃かった、田園風景が拡がる西落合Click!へと転居をつづけることになる。

 松下春雄がレンズを向けた方角には、モチーフに選んだ西坂の徳川邸Click!や落合第一小学校前の谷間Click!が、直接はとらえられてはいないものの崖線の斜面あるいは崖下に隠れていると思われる。この写真の時点では、霞坂の秋艸堂Click!には会津八一Click!が、おそらく小学校の騒音に悩まされながらも、いまだ暮らしていた時代だ。松下の作品には、場所がピンポイントで特定できない風景画が多いが、鎌田家の下宿2階から眺めた風景作品も含まれているのかもしれない。

◆写真上:大正期から昭和初期にかけ、右手に鎌田邸が建っていた下落合1445番地の路地。
◆写真中上:上左は、1928年(昭和2)5月に撮影された鎌田邸路地。上右は、落合第一小学校へと抜ける道路の下落合1443番地にあった木星社跡(右手)の現状。下左は、鎌田邸敷地内の松下春雄が下宿していたと思われる建物。下右は、下落合1445番地の鎌田邸跡の現状。
◆写真中下:上は、1928年(昭和3)5月に下宿2階から南を向いて撮影されたと思われる風景。下は、8年後の1936年(昭和11)の空中写真にみる撮影ポイントと写真画角。
◆写真下:さらに19年後の、1947年(昭和22)に撮られた空中写真にみる撮影ポイントと画角。