明治末から大正初期にかけて戸山、大久保、四谷、そして落合などの風景画を残している小島善太郎Click!は、生粋の“新宿”生まれだ。小島は1891年(明治24)11月、豊多摩郡淀橋町柏木に生まれているが、一時期の浅草区七軒町へ丁稚奉公へ出ていた時期などを除き、父母が住んでいた下落合や書生時代の大久保など、今日の新宿区内を転々としている。
 やがて、絵の才能を認めてくれた大久保の陸軍大将・中村覚Click!の家から渡仏することになるのだが、それまでの生活は彼にとって思い出したくもない出来事の連続だったろう。裕福な家に育った画家が多い中で、小島善太郎Click!はリアルに餓死を心配しなければならない困窮をきわめる家庭環境だった。父母は病死し、兄は家から出奔したまま行方不明、妹は浅草で殺害されるなど、20歳すぎまでの彼は想像を絶する辛酸をなめている。
 小島善太郎が残した著作にも、この時代のことを刻銘に記した文章はほとんどない。生い立ちに触れた著作でも、どこか抽象的な表現でぼんやりとその概要や経緯に触れている程度に感じる。原稿を書くことが好きだったClick!と思われる小島だが、やはりこの時代のことを思い出して著すのが苦しかったのだろう。でも、親友だった竹岡勝也の手もとには、少なくとも小島がフランスから帰国するまで、彼の「膨大な自叙伝」が残されていた。小島が中村家の援助で渡仏する際、万が一のことを考えて克明な自叙伝を竹岡に託していったのだ。
 1933年(昭和8)11月に出版された、『独立美術』第10号小島善太郎特集において、竹岡勝也はその事実を「あの頃の小島君」で明らかにしている。小島と竹岡は、よくロシア文学の話をしていたようで、ときに絵画や音楽にも話題がおよんだ。もっとも親しかったその竹岡に、小島は渡仏するにあたり書きためた詳細な自叙伝を預けていった。竹岡は、小島善太郎が風景画家をめざしたいきさつを、次のように分析している。同誌に掲載された、「あの頃の小島君」から引用してみよう。
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 教会にも通つて見たが人生は依然として暗い渦巻を続けて居た。小島君は遂にその暗い深淵に飛び込まうとした。二度ばかり自殺を計(ママ)つて見(ママ)たのであつたが、その度に不思議な力が内から込み上げて来る事を覚えて、剃刀を握つた手を弛めなければならなかつた。そしてよくその冷厳な人生から逃れては草原の上に寝転んで居た。其処には木立を洩れて来る和かな春の日射しがあつた。自然は暖く平和であつた。全くその頃の小島君に取(ママ)つて、自然は母の愛にも代るものであつた。傷付いた胸を抱き取つて呉れるものは自然より他に求める事が出来なかつた。自然を描く事に依つて自然の胸に抱かれる。其処に小島君の新なる生活があり、また唯一つの慰安があつた。かくして小島君は風景画家としての第一歩を踏み始めたのであつた。
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 20歳ぐらいまでの人生を詳細に綴った、小島の「膨大な自叙伝」が現存しているかどうかは不明だが、この原稿を下書きとして1968年(昭和43)に出版された小島善太郎『若き日の自画像』Click!(雪華社)が書かれているのだろう。ただし、竹岡が預かった「自叙伝」のほうが、より赤裸々かつ詳細に記されていたようだ。竹岡が回顧している細かなディテールには、『若き日の自画像』には見られない生々しい情景も含まれている。
 小島善太郎はフランスやイタリアからもどると、馴染みがあり土地勘もある大久保地域や落合のエリアにはもどらなかった。多大な援助をしてくれた大久保の中村覚が、すでに病死してこの世にいなかったせいもあるのだろうが、彼は帰国直後の1924年(大正13)、結婚すると同時に荏原郡駒沢町下馬555番地(現・世田谷区下馬)へ新居をかまえている。翌1925年(大正14)に里見勝蔵Click!や前田寛治Click!、木下孝則たちと1930年協会Click!を結成することになるのだが、多くの画家たちが落合地域とその周辺域へ集合しはじめていたにもかかわらず、小島善太郎は駒沢町から動こうとはしなかった。画家への道を援助してくれた、中村家のある大久保地域はともかく、忌まわしい思い出がよみがえる下落合へは、二度と足を踏み入れたくなかったのではなかろうか。
 1930年(昭和5)に1930年協会が解散し、里見勝蔵らとともに独立美術協会Click!を創立すると、翌々年の1932年(昭和7)、小島はさらに東京の市街地から離れた南多摩郡加住村中丹木(現・八王子市丹木町)のアトリエに移住している。小島は、加住村にアトリエが完成した直後の想いを、同誌へ書き残している。『独立美術』第10号掲載の「自省回顧」から引用してみよう。
 
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 この田舎の家に漸く画室が出来、ホツとした。そしてボツボツ仕事を初(ママ)め出した。仕事を初めると気になる。次から次へと感心が走しる。休んでゐられなくなる。こんな時用事ができるのは本当に辛い。セザンヌが親が死んでも理由つけて葬式にも出なかつた程作慾の方を重んじた気持が懐かしめる。考へると帰朝以来雑用で多くの時を無駄に過したことが惜まれてならない。/これからは充分仕事に親めるだらう。訪問してくれる人の少いのも淋しいものだが、仕事をする人には孤独の方がよい。孤独はより精神的になれ得る。/或る意味には隠遁の様な気もする。しかし自分の仕事の為めに適地に入るのだから、必ずしもそうとは思はない。只時代と離れる様な気がする。しかしそれも都会的なものだけからかも知らぬ。現実味の上では却つて質朴な、生活と闘つてゐる農夫の間にゐた方がいいかも知れない。偽瞞(ママ)の都会生活よりは単純で真当(ママ)なものがある様にも見える。/そうは思ふもののうつかりするとノンキになる。都会の激しさから較べると刺激は少いし勝手な時が過ぎる。それではここに来た理由もなくなる。
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 小島善太郎は、生粋の新宿生まれの画家にもかかわらず、地元ではあまり目立たない存在となっている。特に落合地域では、先祖代々の墓Click!が下落合(のち近くの寺へ改葬)にあったにもかかわらず、ほとんど話題にのぼることがない。小島の青春時代は、19歳のときに大久保の中村家へ書生として入り、またフランス(つづいてイタリア)への絵画留学からスタートしているのであり、それ以前の生活は、できれば記憶から消去してしまいたいほどの苦痛に満ちたものだったろう。
 
 小島が帰国後、故郷から離れて世田谷へ、そして仕事がまわりはじめたころ八王子へと、徐々に新宿から遠ざかっていくところに、そして「田舎に入つたことを喜んでゐる。画家は作画にふけつてゐる時程強味はないから。そして幸福だ」と書くその裏側に、多感な時代を考えられる限りの不幸のどん底ですごさなければならなかった経緯を、ことさら読む側に強く想起させるのだ。

◆写真上:駒沢町で制作されたと思われる、1928年(昭和3)の小島善太郎『武蔵野の丘』。
◆写真中上:左は、1933年(昭和8)11月に発行された『独立美術』第10号小島善太郎特集の表紙。右は、1930年(昭和5)の東京府美術館で開かれた1930年協会展での小島善太郎。記念写真に川口軌外が写っているので、おそらく1930年(昭和5)の第5回展だと思われる。
◆写真中下:左は、1922年(大正11)制作の小島善太郎『静物(くだもの)』。右は、文房堂による国産の油絵具発売を記念して小島善太郎が画家カタログに寄せたコピー。
◆写真下:いずれも『独立美術』第10号様に制作された素描で、『女の子』(左)と『風景』(右)。