下落合から旧・神田上水Click!をはさんですぐ南、戸塚町上戸塚(宮田)397番地(現・高田馬場3丁目)に三岸好太郎・節子夫妻Click!は、1924年(大正13)から1925年(大正14)にかけて住んでいる。現在の感覚でいうと、戸塚第三小学校のすぐ西側の敷地であり、下落合にある新宿区中央図書館Click!(2013年6月より移転)から徒歩1~2分ほどの近い距離だ。
 この住まいは、南にある早稲田通りをはさんだ戸塚町上戸塚(稲荷前)866番地に建っていた、藤川勇造・藤川栄子アトリエClick!へ直線距離で300mほど、また神田川をわたった北側、落合町下落合1146番地の外山卯三郎アトリエClick!(1928年に佐伯祐三が死去した際、第2次滞仏作品のほとんどが集められた画室)へは、同じく400mほどの位置にあたる。戦後、ともに女流画家協会を起ち上げる藤川栄子Click!と三岸節子は、このころから知り合って交流していたようだが、のちに三岸節子は1967年(昭和42)に出版された『日本美術』7月号の「好日好題」で、次のように語っている。1992年(平成4)に出版された匠秀夫『三岸好太郎』(求龍堂)から孫引きしてみよう。
  ▼
 当時は高田馬場に住んでいましてお近くには藤川勇造さんと栄子さんがお住いでした。当時は目白台に続いてあの辺り一帯はまだ武蔵野の面影を、そっくりのこしておりました。目白台の西隅、当時の落合村というのがありましてそこに佐伯祐三Click!さん、米子Click!さんご夫妻とか、三上知治Click!さん、満谷国四郎Click!さん、曾宮一念Click!さんなどがお住まいで、当時から有名な方々がかたまってアトリエを構えられました。この辺りの景色は三岸の好んで描く風景でして、藁葺屋根の絵とか、茶畑に囲まれた農家とか、桐畑のある風景とか実によく描いていたものです。三岸と一緒になりまして、私、貧乏というものが分らずこの頃からの十年間というものは、お金があるというのが珍しいほどの貧乏暮しでしたけれど、いま考えますと今日の画家の生活よりも、あの頃の貧乏時代の方が、はるかに画家の理想に近い生活だったと思います。
  ▲
 1924年(大正13)より、豊多摩郡落合村は落合町になっていたのだが、まだまだ田畑が拡がる風景があちこちに見られていた時代だ。三岸好太郎の作品には、藁葺き農家に田畑を描いた画面がいくつか残っている。大正末から昭和初期に描かれた作品は、1929年(昭和4)に上鷺宮407番地へ第一アトリエを建設する以前、東京郊外を転々としていた時期と重なっており、その中に落合地域を描いた作品が何点か混じっていてもなんら不思議ではない。
 三岸好太郎が、1928年(昭和3)に描いた北海道立三岸好太郎美術館Click!収蔵の『茶畑』という作品がある。パースのきいた構図で、手前の茶畑というよりは生垣のような低い植えこみから、奥ののどかな茅葺き農家をとらえた画面だ。マチエールは、すでに大正期の草土社風からやや変化を見せている。当時、落合地域のあちこちには栽培ブームがあったのか茶畑が見られた。『茶畑』の制作時期は、上戸塚397番地で暮らしていた時期とは重ならないが、好太郎は頻繁に落合地域を訪ねていたのではないか。★
★事実、『茶畑』は下落合の東部に残る茶畑農家の情景を描いたもので、1928年(昭和3)ではなく三岸夫妻の上戸塚時代にあたる1926年(大正15)の制作であったことが、1964年(昭和39)の桑原住雄による三岸節子へのインタビューから判明Click!している。
 なぜなら、1930年協会の主要な画家たちClick!が下落合へ集合していたからであり、フランスで急死する佐伯祐三と杉並町天沼でやはり急逝する前田寛治Click!を除き、1930年(昭和5)に好太郎自身も発起人に名を連ねる独立美術協会のメンバーの多くが、期せずして落合地域にいたからだ。1930年協会のスポークスマンだった外山卯三郎を含め、先輩画家の誰かを訪ねたついでに、茶畑風景(おそらく下落合西部だと思われる)をスケッチしているのかもしれない。
 
 もっとも、1929年(昭和4)という年は、外山卯三郎Click!はひふみ夫人Click!と結婚し、里見勝蔵一家とともに西武電鉄の奥、井荻の西武住宅地Click!へ新居を建設して引っ越している。この画家たちの動向に呼応するかのように、三岸好太郎・節子夫妻は同年、同じく西武線は井荻駅のふたつ手前、鷺ノ宮駅の近くへアトリエを建設して引っ越しているのだ。好太郎が1930年協会に参画していた画家たちの動向に注目していたのは、おそらくまちがいないだろう。
 さて、三岸好太郎は東京郊外に点在する藁葺き農家の風情が、ことのほかお気に入りだったようだ。三岸夫妻が上戸塚397番地で暮らしていたころは、落合地域はもちろん戸塚町にも、いまだあちこちに藁葺き屋根の農家Click!が残っていただろう。上鷺宮407番地の第一アトリエの南側に、1934年(昭和9)5月から建設がスタートする新アトリエClick!は、南側壁面のほぼ全体に天井までとどく大きな窓が設置される予定だった。好太郎は、アトリエの南側に建っている茅葺き農家2棟がよく見えるように・・・というのを、大窓設置の理由に挙げている。
 ちなみに、下落合の藁葺き屋根は1980年代末まで見られたが、最後に残ったのは農家ではなく中井御霊社Click!の拝殿屋根だった。佐伯祐三は、発見されている『下落合風景』シリーズClick!の画面に藁葺き農家を描いてはいないが、中村彝Click!はまだ病状がそれほど悪化せず付近を散策できていた時期に、スケッチブックへ近くの藁葺き農家Click!を描きとめている。佐伯祐三が、当時は下落合のあちこちに点在していたはずの藁葺き農家を描かなかったのは、どこか示唆的で、彼が郊外風景という単純なテーマで描いているのではなく、なにかもう少し絞りこんだモチーフを選択しているように、もう少し明確なテーマ性をもって描いているように感じられるゆえんだ。

 三岸夫妻が住んだ戸塚町上戸塚(宮田)397番地の敷地は、蛇行を繰り返す旧・神田上水(1960年代より神田川)の南側に形成された、河岸段丘の斜面にあたる地勢だ。戸塚町は、早稲田通りや山手線・高田馬場駅を中心に市街地化が進み、住宅街の形成も落合地域より早くから形成されている。三岸夫妻の借家から、道ひとつ隔てた西側には1915年(大正4)に開業した、乗馬クラブ「新高田馬場」があった。おそらく、落合地域の別荘へやってくる顧客をターゲットにしていた施設で、昭和初期のころまで営業をしていたようだ。三岸夫妻は、目の前の乗馬クラブで走りまわる蹄の音や、厩舎での馬のいななきを聞きながら生活していたのだろう。「新高田馬場」の様子を、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』(東京府豊多摩郡役所)から引用してみよう。
  ▼
 新高田馬場
 江戸名所の一なる高田馬場の名残を茲に留めんとて、大正四年春の頃より、大字戸塚地内高田馬場駅の西方七町許の地に、新高田馬場と称する馬術弓術練習所を開きたるものあり、馬場は東西十間南北百二十間あり、常に乗馬六七頭を飼ひ置き客の来りて練習するに便せり、春秋の頃練習者多しといふ。
  ▲
 三岸好太郎の作品に、「馬」ないしは「馬牧場」のような情景を描いた作品がないかどうか、札幌の北海道立三岸好太郎美術館の学芸員でおられる苫名直子様にお訊ねしたところ、さっそく素描『馬』の画像をお送りいただいた。描かれたのは、1932年(昭和7)ごろといわれる作品だが、もう少し早い時期なのかもしれない。また、1932年(昭和7)の第一アトリエ時代だとすれば、鷺ノ宮駅から下落合駅まで西武線でわずか6駅、当時の電車の速度を考慮しても20分前後で来られただろう。子どもたちと散歩に出たついでに、「新高田馬場」で馬をスケッチしている可能性も残る。
 
 次回は、上戸塚397番地の三岸好太郎・節子夫妻が住んでいた旧居跡を訪ねてみたい。わたしの家から歩いても10分とかからない場所なので、夫妻がいかに下落合の近くで暮らしていたかがわかる。三岸節子が書いているように、周辺の画家たちとの交流も行なわれたにちがいない。旧居跡では、当時をほうふつとさせる風景に出あうのだが、それはまた、次の物語・・・。

◆写真上:大正期の落合地域をほうふつとさせる、1928年(昭和3)制作の三岸好太郎『茶畑』。
◆写真中上:左は、1929年(昭和4)に作成された「戸塚町全図」にみる戸塚町上戸塚宮田397番地。右は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる同地番。すでに「新高田馬場」はなくなり宅地化されているが、上戸塚397番地には三岸夫妻が借りていた家は残っているかもしれない。
◆写真中下:制作年不詳の三岸好太郎『風景』で、左側の畑はダイコン畑Click!のように見える。
◆写真下:左は、1916年(大正5)に陸軍士官学校Click!の学生たちが作成した演習地図にみる戸塚町上戸塚に開業していた「新高田馬場」。右は、1932年(昭和7)ごろ描かれたといわれる三岸好太郎の素描『馬』(北海道立三岸好太郎美術館蔵)。