三岸好太郎・節子夫妻が住んだ戸塚町上戸塚(宮田)397番地(現・高田馬場3丁目)の借家Click!は、下落合の氷川明神前にある踏み切りをわたってすぐのところなので、さっそく旧居跡を訪ねてみる。このあたりは、1930年(昭和5)ごろからスタートした旧・神田上水(1960年代に「神田川」の名称に統一)の整流化(直線化)工事により、周辺の風情が大きく変わったエリアだ。
 三岸夫妻が住んでいた場所は、河岸段丘の北を向いた斜面の中腹あたりになる。旧・神田上水の北側(下落合側)の、目白崖線に連なる急峻な斜面とは異なり、南側の丘陵はなだらかな斜面を形成して、まるでひな壇のように早稲田通りがかよう尾根筋までつづいている。早稲田通りの手前では、急激なバッケ(崖)状の盛り上がりClick!を見せる。これは、上戸塚地域の西側に位置する、上落合地域もほぼ同じような地形だ。上戸塚397番地の借家は、旧・神田上水が北へ大きく蛇行する、なだらかな斜面の中腹にあった。当時は、川をはさんで北側の斜面にある薬王院Click!の伽藍や、西坂の大きな徳川邸Click!などがよく見えただろう。
 現在は鷺宮のアトリエClick!敷地に住まわれる、三岸夫妻の長女・陽子様は1925年(大正14)3月にここで生まれている。三岸夫妻の上戸塚時代について、吉武輝子は『炎の画家・三岸節子』(文藝春秋)の中で、「この借家は風景にも知人にも恵まれ、心が晴れ晴れとする住まい勝手のよい家だったのだろう」とし、三岸節子が好太郎との結婚生活でもっとも幸福だった時代と位置づけている。ただし、上戸塚866番地の藤川栄子Click!(藤川勇造Click!)はともかく、この時期に下落合661番地の佐伯米子Click!(佐伯祐三Click!)と知り合ったとするのは早計だろう。三岸夫妻が上戸塚に住んだ時期、佐伯夫妻は第1次渡仏中で下落合のアトリエにはいなかった。
 三岸節子は同年、子育ての合い間をぬって春陽会へ初めて作品を応募しているが、なんと『風景』『山茶花』『自画像』『机上二果』の4作品がいきなり入選している。そして、同会の木村荘八Click!をはじめ、ほかに中川一政や川路柳虹たちから激賞されている。一方、三岸好太郎も『冬の崖』『少年』『裸体』『美しき少女』『少女の像』の5点が入選したが、節子に比べて不評だった。それが好太郎には意外だったのか、好評の節子に対して不機嫌な様子を隠さなかったという。
 三岸好太郎は、家族に対して当時の男にはめずらしく、家長的にはふるまわずきわめて優しい。どちらかといえば、戊辰戦争で薩長軍と戦うため江戸から北海道へとやってきた、異父兄・子母澤寛Click!の祖父のような江戸東京の(城)下町風の男Click!だった。むしろ、三岸家では節子が「家長」であって、好太郎がそれに巻きついて生活しているような雰囲気を感じる。節子が才能を伸ばせたのも、好太郎の存在が非常に大きいのだろう。だから、そんな好太郎が不評のせいで家族の前でも不機嫌さを隠さなかったのが、彼女に強い印象を残したのではないだろうか。
 春陽会への応募作品の中で、好太郎の『冬の崖』と節子の『風景』が、上戸塚ないしは落合地域の風景を描いた画面である可能性がきわめて高い。等高線が半島のように突き出た、段丘の中腹にあたる上戸塚397番地の家は、北側に連なる目白崖線の風景を描くにはもってこいのロケーションだったからだ。また、ふり返れば早稲田通りが通う尾根筋の崖が見え、尾根上に建ち並んでいた家々Click!(商家が多い)を描くのも、また面白かっただろう。
 
 大正期の宮田橋をわたれば、徒歩1~2分で下落合側へ抜けることができる。当時の下落合には、すでに大勢の画家たちが住んでいたので、三岸好太郎は散歩がてら画家たちのアトリエを訪ね歩いているだろう。ときに、外出するときは高田馬場駅へは出ず、下落合を通って目白駅から山手線に乗ったこともあったのかもしれない。なぜなら、彼は民本主義者の吉野作造が指導していた、本郷に本部のある家庭購買組合の仕事をしており、東京府内の支部5ヶ所のうちのひとつが下落合にあったからだ。家庭購買組合のポスターやパッケージなどの、グラフィックデザインを手がけていた好太郎については、また改めて記事に書いてみたいテーマだ。
 上戸塚と下落合を結ぶ宮田橋は、旧・神田上水の直線化工事で宮前橋として架け替えられたが、いまでも下落合から上戸塚397番地へ行くには、この橋をわたるのがいちばん近い。戸塚第三小学校の敷地北側に通じる、昔の川跡沿いに敷設されたまがりくねった道を西へ向かうと、やがて南に向けてなだらかな上り坂となる。そこが、戸塚町(大字)上戸塚(字)宮田397番地の旧居跡だ。わたしは、まったく当時の面影などないだろうと思って出かけたのだが、結果はまったく逆だった。大正期に造成されたとみられる、大谷石の縁石や築垣があちこちに残り、また「新高田馬場」と呼ばれた乗馬クラブの跡地は公園と草原が拡がる風情で、三岸夫妻が住んでいた当時をなんとか想像できる風景が残っていたのだ。一戸建ての住宅やアパートが多く、ビル状のマンションがこの区画にほとんど見られないのも、当時の雰囲気を感じられる要因だろう。
 
 
 三岸夫妻の家の西側、目の前に乗馬クラブ「新高田馬場」があったので、どこかに「馬」ないしは「馬牧場」についての作品や記述がないかどうか、北海道立三岸好太郎美術館Click!の苫名直子様にうかがったところ、さっそく前回ご紹介した『馬』の素描作品とともに、好太郎の著作『感情と表現』の中にも「馬」が登場していることをご教示いただいた。1992年(平成4)に中央公論美術出版から刊行された、三岸好太郎『感情と表現』(新装版)の「冬日仰臥」から引用してみよう。
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 今年四つの子供を抱いて野原を散歩した。遠くの柵の中で馬が勇敢にかけづり廻つてゐた。子供はその馬をとつてよこせとせがむ、あんな大きな馬をおまへとつてどうするんだと云つたら、あんな小さな可愛い馬だから玩具にするのだと云ふ。子供は錯覚を信用してゐる。
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 この文章が書かれたのは1934年(昭和9)であり、すでに三岸夫妻は鷺宮の第一アトリエに住んでいた時代だ。でも、西武電車に乗れば下落合駅へすぐに来られる。もし、「新高田馬場」に昭和初期まで馬がいたとすれば、記述の情景からも好太郎は子どもたちにせがまれて、「新高田馬場」で飼われていた馬を見せに、下落合駅で下車しているのではないだろうか。

 三岸好太郎・節子夫妻が、このまま上戸塚397番地に住みつづけていたら、節子は上戸塚866番地の藤川栄子Click!(旧姓:坪井栄)を通じて、鷺宮の第一アトリエ時代よりももっと早くから、壺井栄Click!や窪川稲子(佐多稲子)Click!と親しく交流していただろう。なぜなら、大正末から太平洋戦争がはじまる前にかけ、上落合(503番地→549番地)には壺井栄が、同じ上戸塚593番地には窪川稲子が住んでいたからだ。ひょっとすると、藤川栄子に壺井栄、窪川稲子(佐多稲子)、上落合186番地の村山籌子Click!に加え、三岸節子もいっしょに特高Click!の尾行刑事たちを背後にしたがえて、ノッシノッシと「歩きませう」運動を下落合で繰り広げていたかもしれない。

◆写真上:戸塚町上戸塚(宮田)397番地にあった、三岸夫妻が暮らした旧居跡の現状。
◆写真中上:左は、1930年(昭和5)に作成された1万分の1地形図にみる、上戸塚397番地の界隈。旧・神田上水が北へと大きく蛇行し、まるで半島のような地形が形成されている。右は、1992年(平成4)に中央公論美術出版から刊行された三岸好太郎『感情と表現』(新装版)。
◆写真中下:上は、上戸塚397番地の現状で大正期に造られたとみられる縁石や築垣が残っている。下は、「新高田馬場」跡の現状で北側が当時をしのばせる公園と草原になっている。
◆写真下:1936年(昭和11)の空中写真にみる三岸夫妻の旧居跡と、のちに形成された三岸節子が生涯親しく交流した“女縁”(ピンク色)を予感させる、それぞれの旧居跡の展開。ただし、村山籌子と三岸節子の接点はほとんどないが、湯浅芳子や林芙美子Click!とは親しかったようだ。