公文書館や国会図書館を調べていると、ときどき興信所のレポートに出あうことがある。別に誰かの素行調査の報告書ではなく、多くの場合、企業や株に対する信用調査や、農産物の相場に関する予測情報、土地などへの投資情報だったりする。特に東京近郊の住宅地に関する、投機を目的とした値上がり予測の調査報告書は、大正期を境に激増していくことになる。
 これらの報告書は、依頼主があって地価推移の予測調査を開始するのではなく、興信所が独自に調査して報告書をまとめ、それを企業や不在地主へ販売するという形式をとっていたようだ。だから、調査は定期的に行われたとみられ、興信所の重要な収入源のひとつになっていたのだろう。公文書館には、1921年(大正10)3月に落合村全域を調査した、東京興信所による「豊多摩郡落合村土地概評価」報告書(1922年発行)が残されている。東京興信所は、日本橋区阪本町43番地に開業し、中所真という人物が経営していた。かなり詳細に調べた報告書となっているので、おそらく所員の数も多い、当時としては規模が大きな興信所ではないだろうか。
 同報告書の面白いところは、住民への直接取材によるものか、あるいは1916年(大正5)版の1万分の1地形図を参照しているものか、不動谷Click!をどうやら諏訪谷Click!の反対側にある本来と思われる位置の谷間(通称・西ノ谷Click!)、すなわちいまの国際聖母病院Click!の西側の谷戸だと認識している点だ。この報告書が作成されたのとほぼ同時に、箱根土地Click!による目白文化村Click!の第一文化村が造成され、堤康次郎Click!が政界へ進出するころから、官製地図では不動谷の位置が西の前谷戸Click!寄りへとずれていくことになる。報告書の前文から引用してみよう。
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 神田上水以北、不動谷以東の高台。此の区域は当村の東部三分の一を占め西郊より目白台を経て東京市と通ずる要路筋に当り 目白(東端より約一丁)高田馬場(大島邸付近即ち俗称七曲りより約四丁)の両駅の便あり 最も古くより而して最も発展せる地域にして 高台の南部は幾多の窪地を挟みて突出し 何れも南面して見晴しを有し(場所によりては西及び東の眺望を兼有す)優れたる邸宅地となり 此処に相馬邸、近衛邸(字丸山) 大島邸、徳川邸(字本村) 谷邸、川村邸(字不動谷)等あり。北部にも字新田の舟橋邸、中原の浅川邸等あり
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 この記述で留意したいのは、近衛邸Click!の敷地が東京土地住宅による近衛町Click!の成立以前から宅地整備され、どうやら三間道路も造成されて、部分的に販売が行なわれていることだろう。記述では、下落合435番地の舟橋邸Click!がすでに存在すること(もちろん下落合404番地の岡田虎二郎邸Click!もすでに存在していただろう)、また佐伯祐三Click!が『下落合風景』シリーズClick!のひとつとして描いた「浅川ヘイ」、すなわち曾宮一念アトリエClick!の東隣りにあたる下落合604番地の浅川邸Click!が、1921年(大正10)には字中原の目立つ邸として採取されていることだ。
※岡田虎二郎は生前、下落合356番地に住んでいたことがわかり、近衛町の下落合404番地は彼の死後、大正末に家族が転居した住所であることが判明Click!した。
 
 同報告書では、おしなべて落合村は土地投機のエリアとして将来有望であり、また神田上水や妙正寺川の沿岸は工場立地にはもってこいの地勢だと分析している。ただし、西武電鉄Click!の敷設についてはまったく触れられておらず、同報告書が発行された翌年あたりから目白停車場を起点とする西武鉄道の計画案が急浮上したものだろう。目白駅を始発駅とする西武鉄道の「敷設免許申請書」Click!が、起点を高田馬場駅に変更するのは1924年(大正13)9月25日の「修正追申」になってからのことだ。おそらく、同線の計画が興信所の耳に入っていれば、上落合や下落合西部(現・中落合や中井)は、まったくちがた評価になっていたと思われる。
 報告書は、あくまで開発を前提とする宅地や工場敷地への投機を主眼においているので、田畑の拡がるのどかで緑が多い田園風景は、「未だ見る可きものなし」としてつれない表現をしている。つまり、手もとの資金で東京郊外に土地を購入し、値上がりを待ってディベロッパーや不動産業者へと転売し、のちに「健康的で文化的な田園都市生活」が送れる最適地などと宣伝して売り出される場合とは、まったく正反対の価値基準で記述されているのが、どこかおかしいのだ。調査時に採集された落合村各地の実勢地価も、実際の土地取り引きにおける例外的な価格の調査まで含め、字別に詳しく調査されているので一覧表にして引用してみよう。

 この中で、飛び抜けて高い地価が記録されたのは、現在の目白通りと山手通りがクロスする交差点あたりで、江戸期より「椎名町」と呼ばれていた下落合と長崎村にまたがる区画だ。1921年(大正10)の当時、目白通り沿いには次々と落合府営住宅Click!が建設され、新住民たちを顧客に賑やかな商店街が形成されようとしていた。また、下落合の西部や上落合の地価が安いのは、いまだ西武電鉄の敷設が表面化していなかったからだ。この時期に土地を安く購入し、西武線が開通した昭和初期に土地を売りぬけた不在地主がいるとすれば、おそらくボロ儲けをしただろう。

 東京興信所が作成した「豊多摩郡落合村土地概評価」のようなレポートは、関東大震災Click!を境に市街地から郊外へ転居する人々の激増とともに、投機目的の不在地主の間ではニーズが急速に高まったのだろう。だが、昭和初期に起きた金融恐慌や大恐慌の影響で地価が急落し、売るに売れず土地を空き地のまま“塩漬け”にする不在地主が、落合地域でも続出することになる。

◆写真上:東京興信所に「未だ見る可きものなし」と評価されそうな、下落合の御留山に復活した弁天池からの渓流。1960年代末以来の復活で、林泉園からつづいた流れでもある。
◆写真中:1921年(大正10)3月に調査が行われ、翌1922年(大正11)に発行された東京興信所による「豊多摩郡落合村土地概評価」の表紙(左)と、大字下落合ページの中面(右)。
◆図版:1921年(大正11)3月現在の、落合村における字別実勢地価一覧。
◆写真下:東京興信所の調査で、もっとも高い地価を記録した目白通り沿いの字中原界隈の商店街で、『落合町誌』への収録のため1932年(昭和7)に撮影されたもの。