1937年(昭和12)ごろ、下落合の聖母坂Click!を上りきったところに、「梅屋」という屋号のパン屋が開店した。経営していたのは、20年におよぶ欧米での海外生活を終えて帰国した、星野新吉とろく(緑)夫人だった。米国から帰国の直後、夫妻は下落合2丁目679番地の笠原吉太郎Click!と美寿夫人Click!が暮らす、いわゆる笠原アトリエClick!に身を寄せている。
 星野新吉は、笠原(星野)美寿の弟にあたり、星野銀治・はま夫妻の子どもたちの中では異色な存在だった。また、新吉の妹である星野喜久(改名後に百合子)は、のちに南原繁Click!と結婚して笠原アトリエの南70mほどのところ、下落合(2丁目)702番地に暮らしている。星野新吉夫妻は帰国後、星野家の人々が集合して暮らしていた「群馬村」とでもいうべき、八島さんの前通りClick!(星野通り)沿いに落ち着き先を探したものだろう。
 1935年(昭和10)の5月、星野夫妻は米国の長い旅から帰国するのだが、同年7月9日に発行された東京朝日新聞にその様子が掲載されている。少し長いが、記事全文を引用してみよう。
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 親子六人三千マイル ボロ自動車の旅/不況の風に米大陸横断
 アメリカの不景気風に吹き捲られてニユーヨークからロサンゼルスまで三千三百マイルをボロ自動車で飛ばして逃げ帰つた日本人夫婦----主人公は慶大出の星野新吉氏(五〇)と緑さん(四二)といふインテリ夫婦、伯父にあたる英国ロンドンで古くから名の知れた錦絵商故星野健氏を頼つて渡英したのが明治四十三年、今から二十六年の昔だ ◇星野氏は支配人として郊外の美しい住宅から下町の店に通ひ夢の様な新婚の日を過ごしてゐたが欧州大戦後に世界を襲つた不況の風は遂に夫妻の生活を揺り始め伯父の健氏の病歿でホシノ商会が英国人の手に渡る頃には夫婦は窮迫の底に落ち、昭和三年、遂に住みなれたロンドンを落ちのび愛児を連れて敗残の身をアメリカに渡りニユーヨークのブルツクリン橋のほとりね海軍工廠裏で廠工相手の一膳めし屋を開業した。/此の裏町で日本のオコメと魚のフライの「天どん」が評判になつたが何分一日十五ドル位の売上では高い家賃と生活費に追はれて八年の歳月も空しく志に背き本年五月、故国に錦ならぬ二十五年間の放浪の慈ひを求める事となつた ◇五月十六日朝ね店を売つた四百ドルを懐中に夫婦と四児の一行六人は八十五ドルで買入れたナツシユの古自動車で想ひ出のブルツクリン橋にサヨナラした/汽車で横断すれば家族全部で千ドル近く掛かるアメリカ大陸を食費及びガソリン費共一日十ドル以内で切り上げようといふ寂しい自動車の旅だ。テキサスの沙漠を横ぎり寒村のキヤムプに一宿一飯を重ねて十三日目の廿八日夕刻、無事にロサンゼルスに到着/自動車を百ドルで売飛ばして船賃を工面し漸く故国の土を踏み本月初旬、義兄の東京市淀橋区下落合二ノ六七九洋画家笠原吉太郎氏方に一まづ二十五年の旅塵を洗つた 夫婦は目下渡米中の岐阜の社会事業家、日本育児院長五十嵐喜廣氏の斡旋で山形県庄内に新設される孤児ホームにアメリカで辛酸を積んだ生きた社会学を生かすため奉仕の生活を意識してゐる
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 記事は面白半分で、ずいぶん失礼な書き方をしているのだが、ブルックリンに開店していたおそらく小さな食堂のことを、江戸期のような「一膳めし屋」と表現して揶揄するなど、どこか記事にはハナから星野夫妻を蔑んだ視線がみえる。むしろ当時、クルマでニューヨークからロサンゼルスまで、北米大陸を家族づれで横断した日本人がいたとしたら、そちらのテーマのほうがよほど取材しがいのあるニュース性の高い出来事だったろう。ちなみに、星野健のことを記事では「伯父」と書いているが、星野銀治・はま夫妻の弟にあたるので「叔父」が正しい。

 東京の(城)下町Click!に生まれた深川娘の川島ろく(緑)と、慶應大学理財科を出て間もない星野新吉が結婚したのは、1913年(大正2)10月だった。英国のロンドン大学スクール・オブ・エコノミーに留学していた新吉が一時帰国した際、ふたりは結婚している。なかなか子どもができなかった夫妻は、その気楽さから外遊に出るのだが、それが波乱に富んだ長い長い欧米生活のスタートだとは、当時のふたりは予想だにしなかっただろう。
 当初、ロンドンのハイホルボン街にあった星野商会は、日本のオモチャを輸入・販売して順調な経営をつづけていた。この間、キリスト教徒だった星野新吉は、英国が発祥地だったボーイスカウト運動に力を入れ、屋敷へスカウトたちを招いて宿泊させたりしている。でも、1923年(大正12)9月に関東大震災Click!が起きると日本の工場が壊滅し、オモチャの輸入がストップしてしまう。経営が立ちいかなくなった星野商会は人手にわたり、一家は米国へわたることになる。ろく夫人と結婚後、15年たってロンドンで長男が生まれ、米国では双子の姉妹と次男が誕生している。米国では、雑貨商や日米時報社へ勤務したり、先の「一膳めし屋」と書かれた小さなレストランを経営していたようだ。でも、米国人相手に天丼では、思ったほどに売り上げが伸びなかったらしい。
 
 星野新吉の豪胆ぶりを伝える、ブルックリンでのエピソードが残っている。「一膳めし屋」を開いていたとき、無銭飲食をして逃げた男を追いかけ殴り合いになった事件があった。新吉は相手を打ち伏せたのだが、あとで男は近隣では有名なボクシングの選手だったことが判明している。大陸横断中では、居眠り運転でクルマが土手に落ちこんでしまい、通りがかりのトラックに引き上げてもらうのだが、ドライバーへの謝礼金がないため、以降、トラック会社の看板をクルマのうしろにつけて大陸横断をつづけることでカンベンしてもらったらしい。また、銀紙でキラキラ光る折り紙の「鶴」をこしらえて、米国人に高く売りつけるなど、新吉の行状にろく夫人は端で見ていてハラハラさせられどおしだったようだ。
 星野夫妻は帰国して2年後、できたばかりの国際聖母病院Click!のある聖母坂上へ、「梅屋」というパン屋を開店した。でも、思ったほど売り上げが伸びず、ほどなく閉店している。余談だけれど、1990年代の初めぐらいまで、聖母坂の上には小さなパン・ケーキ屋が開店していた。神田精養軒Click!の美味しい食パンを扱っており、わが家ではときどき買いに出かけたのだが、聖母坂沿いのビル化が進むと同時に閉店してしまったのが残念だ。
 最後に、1994年(平成6)に出版された星野達雄『からし種一粒から』(ドメス出版)から、星野新吉・ろく夫妻の想い出を語る記述(夫妻の娘に取材したものか?)を引用してみよう。
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 新吉の生き方は決して世の中に順応したものではなく、それに対する評価と批判はかなり落差の激しいものだったろうと思います。受け入れるものと、はじき出す人とは極端に分かれたでしょう。/ろくはそのような新吉の意志と意見に終生逆らうことはなかったと思われます。新吉のその日その日、一歩一歩を助ける一生だったのかも知れません。/普通の日本人なら到底考えられないようなニューヨークの場末でも店に出ていたし、山形の孤児院でも自分の子どもよりも施設の子たちの面倒をみていたほどだったと、娘はその幼い頃の記憶をのべています。/米国時代の知人はとても仲の良い夫婦だったと言っているそうですが、新吉は、妻と家族に対する愛情と責任は決して放棄することはなかった。遅い子持ちと時代の波(もっといえば敬愛する父親銀治の死)が一家を順境に置かなかったのです。
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 星野新吉は、戦争が終わった3年後に勤務先で倒れ62歳の生涯を閉じた。また、ろく夫人は夫が死去してから14年後の1962年(昭和37)に68歳で病没している。笠原美寿Click!は、ろく夫人をときどき訪問していたようで、夫人の晩年は落ち着いた幸福な暮らしだったようだ。

◆写真上:聖母坂の上、星野新吉・ろく夫妻のパン屋「梅屋」があったあたりの現状。
◆写真中上:1935年(昭和10)7月9日の東京朝日新聞に掲載された、星野夫妻の帰国記事。
◆写真中下:左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる聖母病院北側の様子。右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同所で採取された建物のいずれかが「梅屋」だろう。
◆写真下:左は、ロンドン時代に撮影されたと思われる星野新吉・ろく夫妻。右は、1994年(平成6)に出版された星野達雄『からし種一粒から―星野るいとその一族―』(ドメス出版)。