1939年(昭和14)に出版された『同志会誌』Click!は、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』Click!ではうかがい知れない、大正時代から昭和初期にかけての下落合における細かな出来事や事件を記録した、かけがえのない生活誌のような趣きがある。
 同会は、1911年(明治44)12月に高田兼吉をはじめ有志16名が集まり、「時勢の進運に伴ひ、本村の発展を図り、相互の福利を増進せんとする目的」で会則案が詰められ、翌1912年(明治45)1月に発会式を開いて発足している。そのときの模様を、『同志会誌』から引用してみよう。
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 明治四十五年一月三日 記念すべき本会発会式が、創立委員高田兼吉宅に於て挙行せられた。会員の参集数十名、来賓として村長川村辰三郎氏村会議員高田鐵五郎氏同高田彌一郎氏同高田五郎右衛門、宇田川徳右衛門、福室米蔵の諸氏落合小学校長、駐在所警官等多数列席の下に正午開会、先づ劈頭会則第七条に依つて役員選挙を行なつたが、高田兼吉氏が会長に岩田與四郎氏が副会長に当選した。両氏は実に本会最初の会長、副会長である。
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 同志会の目的としては、東京市街から郊外へ住宅を建てる、いわば新入の住民同士の交流を深める「会員の親睦」をはじめ、善行者や長寿者、精勤者などの「表彰」、ひとり暮らしの病人や火事の罹災者など「不遇者の援助」、兵役へ赴く会員の「入隊除隊祝い」、会員や家族の「弔慰」、下落合地域の防犯や防火などの設備を充実させる「警備」、道路や側溝、街灯などの公共設備を管理する「交通」、伝染病や食中毒の発生を防止する「衛生」、よその地域に災害が起きた場合の「義捐」などが、同会のおもな事業の支柱だった。
 この中で、昭和初期に起きた全国各地の災害で、甚大な被害を受けた被災地へ向けての義捐活動も記録されている。町内に義捐金を募った、大がかりな活動には次のような災害があった。
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 昭和五年八月 九州南鮮地方風水害義捐金二十円を贈る。
 昭和五年十二月 豆相地方震災義捐金を募集して二十七円を得、会より三円を
            加へて三十円を贈る。
 昭和六年十二月 北海道、東北地方凶作地へ二十円を贈る。
 昭和八年三月 三陸地方災害見舞三十円を贈る。
 昭和九年四月 函館大火、義捐金百五十二円五十五銭を募集して贈る。
 昭和九年九月 関西風水害に対し、会より二十円を贈る。
 昭和九年十二月 東北六県へ義捐金二十円を贈る。
 昭和十年四月 台湾の震災へ会より二十円を贈る。
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 この中で、1930年(昭和5)の「豆相地方震災」とは、静岡県東部から伊豆半島の北側全体、そして神奈川県の西部を襲ったマグニチュード7.3の活断層による直下型地震で、三島では震度6の烈震を記録している。現在では「北伊豆地震」と呼ばれる震災で、死者・行方不明者は300人弱におよんだ。また、1933年(昭和8)の「三陸地方災害」とは、マグニチュード8.1~8.4の強震が東北地方を襲い、本震ののち30分ほどで最大約29mの津波が三陸海岸を襲った「昭和三陸地震」のことだ。このときの死者・行方不明者は、3,000人を超えている。この震災の翌年、東北地方は未曽有の凶作にみまわれ、同志会では再び義捐金を募って送金しているのがわかる。

 同志会は、設立の翌年から会員を減らしはじめ、1917年(大正6)まで漸減しつづけている。それが上向きに転じるのは、繰り越しによる「収入」増ではなく、会費収入が微増しはじめる1918年(大正7)からだ。同志会の収支決算は、1921年(大正10)までが『同志会誌』に記されているが、以降の記録が見られない。おそらく、人口の急増とともに膨大な収入になっていったことは、総会が豊島園で開かれたり、その準備のために豊島園へ役員たちがわざわざ「下見」に出かけたりしていることからもうかがい知れる。以下、1921年(大正10)までの収支決算を見てみよう。

 さて、同志会の事業に「衛生」の領域が加わったのは、落合村の町制移行が行なわれた1924年(大正13)に、落合地域(というか東京地方)で伝染病チフスの大流行があったからだ。町役場と警察により、下落合の全戸で井戸水検査が実施され、不合格となった家には井戸浚(さら)いが勧告されている。そして、同志会でも「衛生係」が設置されるようになった。

 
 このくだりを読んでいて、思わず噴き出してしまう記述があった。同志会の「衛生係」に、当時は落合町議会議員だった下落合622番地の川村東陽Click!が就任しているからだ。東京美術学校の日本画科出身の川村は、なぜか隣り(下落合623番地)に住んだ洋画家の曾宮一念Click!が気に入らず、自宅の家庭菜園からおそらく美校の書生にやらせていたのだろう、意図的に“うんこ水”をたれ流す嫌がらせをして、曾宮アトリエClick!前の道路を汚物だらけにしていた張本人だからだ。(爆!) いったい、なんの「衛生係」を同志会でしていたものだろう?
 さて、川村“うんこ水”の被害者である曾宮一念Click!も同志会には加入している。曾宮アトリエの東隣りであり、佐伯祐三の制作メモClick!に登場する『下落合風景』の1作「浅川ヘイ」Click!(行方不明)の浅川秀次や、曾宮邸の北側に住んでいた森田亀之助Click!、ミツワ石鹸の三輪善太郎Click!も会員だ。ほかに、満谷国四郎Click!や二瓶等Click!、「笠原某」(笠原吉太郎Click!)などの洋画家たちの名前が確認できる。また、華族たちにも声をかけていたようで、「九條某」(九条武子Click!)や「谷某」(谷千城・儀一Click!)、そして1910年(明治43)に代々木練兵場で日本初の軍用機飛行に成功し、これまた日本初の空中写真の撮影を行い、1945年(昭和20)の敗戦時まで陸軍航空士官学校Click!の校長をつとめていた、徳川好敏などが名を連ねている。やはり、水戸徳川家(清水徳川家)の末裔も下落合を意識Click!してかここで暮らしている。
 「消防」事業では、下落合にピストル型消火器や防火用水の設置が興味深い。特に防火用水は、1925年(大正14)に諏訪谷の“洗い場”Click!が防火貯水池として整備されているのがわかる。曾宮一念が同年に描いた『冬日』Click!の洗い場は、まるで四角いプールのような形状をしているが、これは同志会による防火貯水池としての整備がなされたあとの姿である可能性が高い。また、もうひとつの防火貯水池は地下に建設され、本田宗一郎邸Click!(現・下落合公園)の向かいにあった下落合570番地の歯科医、幡野医院Click!(歯科落合医院)の敷地に設置されている。
 
 1923年(大正12)に起きた関東大震災の際、下落合では2棟の家屋が倒壊したと伝えられているが、そのうちの1棟が判明した。松尾恒八という人が所有していた納屋が、震災で全壊している。また、下落合482番地にあった佐藤化学研究所から、おそらく薬品類の化学反応によるのだろう、震災で出火しているが幸い小火で済んだ。佐藤化学研究所は、堤康次郎Click!が住んでいた邸の向かいにあり、「下落合事情明細図」(1926年)現在では、堤に関連した駿豆鉄道の取締役・長坂長Click!の名前が採取されている。そして、長坂長もまた同志会の会員に名を連ねていた。

◆写真上:聖母坂沿いに移動したあと、プールとしても使われた洗い場階段の跡。
◆写真中上:1937年(昭和12)の創立25周年に開かれた、同志会総会の記念写真。
◆写真中下:上・下左は、同志会に加入していた当ブログでもお馴染みの人たち。下右は、同志会のロゴマークが入った1939年(昭和14)出版の『同志会誌』の函。
◆写真下:左は、1925年(大正14)に制作された曾宮一念『冬日』(部分)。同志会が諏訪谷の洗い場を、防火貯水池として整備した直後の情景だと思われる。右は、もうひとつの防火貯水池が設置されていた下落合570番地の幡野医院(歯科落合医院)。