下落合とその周辺域には明治以降、なぜ徳川家が多いのか、あるいは下落合界隈をなぜ徳川幕府が御留川Click!(神田上水=神田川)とともに、「御留山Click!」(御留場Click!)として立入禁止にしたのかは、江戸期以前から用いられていた方位や地勢、結界張り、望気、八卦、占術、卜、風水、気配・・・と名称はどうでもいいのだが、いろいろな巫術の側面から観察してみた記事Click!を書いたことがある。また、江戸東京の総鎮守である神田明神の分社Click!が、下落合に存在していたこと自体が、同社の社史からいえば異例だ。
 さて、下落合の徳川家といえば、西坂にある大垣徳川家Click!の大屋敷が想い浮かぶ。明治期に建てられた徳川邸Click!は、当初は別邸として機能していたが、大正末あたりから本邸となっていたようだ。邸内には、東京のボタン名所として多くの観光客を集めた静観園Click!があり、吉田博Click!による「東京拾二題」のひとつ『落合徳川ぼたん園』Click!(1928年)が描かれている。徳川様Click!によれば、新邸建て替えの際に東の斜面へ移動した静観園の丘上にはバラ園も設けられており、松下春雄Click!が同邸をモチーフにいくつかの作品を残している。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』から、西坂の徳川義恕の項目を引用してみよう。
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 徳川義恕  下落合不動谷
 当家は侯爵尾州家の分家にて男は故従一位徳川慶勝氏の十一男にして明治十一年十一月を以て出生 同二十一年分家を創立し、特旨を以て華族に列せられ男爵を授けらる、先是同三十五年学習院中等科を卒業し軍務に服し陸軍歩兵少尉に任官、日露役に従軍す、曩(さき)に侍従宮内省内匠寮御用掛を仰付らる。本邸は牛込区市ヶ谷河田町に在り別邸は明治四十一年に設けられ今日に至る。夫人寛子は津軽伯爵家の出である。
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 目白通りをわたり、旧・下落合1丁目(現・下落合3丁目)の北側に接した雑司ヶ谷旭出(現・目白3丁目)には、尾張徳川家Click!(徳川さんちClick!)が1934年(昭和9)に引っ越してきている。それまで、明治期からここに屋敷をかまえていたのは、徳川家の姻戚である戸田家Click!(松平家)だった。1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」には、現在の「徳川ドーミトリー」エリアも含めた巨大な戸田邸Click!が描かれている。戸田家が目白町から移転した少しあと、尾張徳川家が目白町へ転入するちょうど境目にあたる、1933年(昭和8)4月に出版された『高田町史』(高田町教育会)から、戸田康保と徳川義親Click!について引用してみよう。ちなみに、下落合の相馬家Click!とも姻戚関係で親しかったと思われる戸田家は、雑司ヶ谷旭出(目白町)から隣りの下落合へ転居しているはずなのだが、下落合では戸田邸の解体された一部の建築部材を使って建設された邸は発見Click!しているものの、戸田康保の転居先はいまだ不明のままだ。

 
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 ◇戸田康保
 旧信州松本藩主子爵戸田康保は、明治三十六年頃から、雑司ヶ谷旭出に住み、昭和五年下落合に移転した、子爵は多年、高田町教育会の会長の任に在つた。
 ◇徳川義親
 旧名古屋藩主侯爵徳川義親は、戸田子爵邸を譲り受けて移り住み、邸内に理化学研究所を置き、専心学理研究に没頭して居る。
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 また、徳川家の末裔は旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)に通う、蘭塔坂Click!(二ノ坂Click!)上にも住んでいる。西坂の大垣徳川家、徳川義恕の子息である徳川義忠だ。ちょうど、一ノ坂と二ノ坂とをつなぐ尾根筋の道沿いに邸を建てている。この丘上は、旧・下落合3丁目(現・中落合1丁目)の丘上にあったギル邸Click!に隣接し、姻戚関係にあたる津軽藩津軽家とは谷間(現在は谷に沿って切り拓かれた山手通り)をはさんで、ちょうど向かい合うような位置にあたる。
 
 さて、水戸徳川家あるいは清水徳川家の末裔も下落合に住んでいた。こちらでも、知人の家に保管されていた陸士の頒布写真Click!でご紹介しているが、陸軍航空士官学校Click!の校長をつとめていた徳川好敏だ。徳川好敏は、同学校長としての存在よりも、1910年(明治43)12月19日に代々木練兵場で日野熊蔵大尉とともに、日本で初めて航空機による飛行を行なった人物としてのほうがはるかに有名だろう。このサイトでも落合地域の南側に位置する戸山ヶ原Click!で、自作の航空機で飛行実験を繰り返していた日野熊蔵Click!のことは、すでにご紹介ずみだ。
 徳川好敏は、七曲坂筋にあたる目白通りの手前、現在は大イチョウClick!が残る路地の角敷地に家を建てて住んでいた。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』から、引用してみよう。
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 徳川好敏  下落合四九〇
 当家は清水家と称し徳川三卿の一である、男(爵)は先代篤守氏の長男にして徳川圀順公の従兄に当られ、昭和三年十一月特に華族に列せられ男爵を授けらる、夙に陸軍に志し東京地方幼年学校、中央幼年学校、陸軍士官学校を卒業し、明治三十七年陸軍工兵少尉に任じ日露戦役に従軍す、凱旋後気球隊に転じ同四十三年仏国に派遣され飛行術を習得帰朝し、昭和六年陸軍少将に累進す其間大正三四年戦役出征航空隊付同中隊長、航空部検査官、陸軍航空学校教官兼大学校兵学教官飛行第二大隊長、所沢飛行研究部主事兼教官、飛行第一連隊長所沢飛行学校教育部長兼同校研究部々員等に歴補し、現時明野陸軍飛行学校長たり。家庭夫人千枝子は子爵松平忠諒氏の令姉である。(カッコ内は引用者註)
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 徳川好敏は、1911年(明治44)4月28日に空中写真の撮影にも成功している。ここでも多用している空中写真だが、大正前期に上空から撮影されたとみられる下戸塚の早稲田大学キャンパスClick!を例外として、ほとんどの空中写真が1923年(大正12)以降Click!のものだ。1911年(明治43)における空中写真の試みは代々木練兵場で行われており、付近を周回飛行しながら撮影実験が繰り返されている。ひょっとすると、陸軍の施設があった戸山ヶ原方面にも飛来しているのかもしれないが、そのとき落合地域をとらえた写真がどこかに残されていないものだろうか。

◆写真上:路地をはさみ、大イチョウの反対側が徳川好敏が住んでいた邸跡。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合2丁目700~714番地の徳川義恕邸。「火保図」は、またしても「義実」と誤採取している。下左は、下落合4丁目1981番地の蘭塔坂(二ノ坂)上にあった徳川義忠邸。下右は、下落合2丁目490番地の徳川好敏邸。
◆写真中下:左は、1910年(明治43)8月にフランスのアンリー・ファルマン飛行学校で撮影された操縦席の徳川好敏大尉。右は、同年12月19日に代々木練兵場で航空機による日本初の飛行が成功した徳川・日野機。機体は、徳川好敏操縦のアンリー・ファルマン機。
◆写真下:上は、代々木練兵場の滑走路における徳川好敏(右)と日野熊蔵(左)。下は、1911年(明治44)4月29日の万朝報で初の空中写真の撮影成功を報じた記事。