関東大震災Click!の余燼がくすぶる1924年(大正13)8月、松下春雄Click!は再び名古屋から東京へとやってきて、巣鴨町池袋大原1382番地の横井方へ下宿している。のちに夫人となる、近くの渡辺医院の長女・渡辺淑子Click!と知り合ったのも、この街での出来事だろう。そして、水彩画家の松下が同年に描いた、めずらしい油彩画に『婦人座像』が残されている。
 『婦人座像』は、壁に三角のペナントが貼られ、机に置かれた本の上にコーヒーカップが載っている、どこかの部屋の片隅で描かれている。女性はイスに座り、着物の上から大きな縞柄の独特なショールを羽織って、膝には和装用の小さなバッグか袱紗のようなものを手にしているようだ。この装いを素直に解釈すれば、どこからかこの部屋を訪問した外出着の女性を、松下春雄がイスに座らせて写生している・・・ということになる。ちなみにイスに座る女性は、近くの渡辺医院で見染め、のちに結婚することになる渡辺淑子ではない。
 実は、わたしはこの人物にそっくりな女性を何度も目撃している。このサイトでも、繰り返しご紹介してきた女性画家だ。その画家は、我孫子の志賀直哉の書斎で洋画家・中出三也Click!といっしょに暮したあと、雑司ヶ谷時代をへて、ふたりで下落合1385番地の借家へ転居してきている。この住所は、のちに松下春雄・淑子夫妻が住んだ家と、まったく同一の地番だ。女性画家が住んでいたころ、このアトリエには目白文化村Click!を散歩がてら、アビラ村(芸術村)Click!に住んでいた吉屋信子Click!が頻繁に訪れ、オレンジの色彩が気に入ったといっては作品を買っていった。その画家とは、二科で女性初の入選を果たした甲斐仁代Click!だ。
 さて、松下春雄と甲斐仁代には、いつ、どのような接点があるのだろうか? 松下は、1921年(大正10)に初めて東京へやってくると、本郷洋画研究所の岡田三郎助Click!に師事している。画家は男の仕事だという規範が、厳然と存在していた当時にしてはめずらしく、岡田三郎助は女子美術学校で教えるかたわら、趣味の手習いではなく本格的に画家をめざす女弟子をたくさん受け入れていた。その中のひとりに、甲斐仁代がいた。松下春雄と甲斐とは、この時期に本郷洋画研究所で知り合った可能性がある。そして、甲斐仁代の後輩には、松下と同じく愛知から東京へとやってきた吉田節子(三岸節子)Click!がおり、甲斐仁代と吉田節子は顔見知りだったと思われる。
 
 吉田節子は1924年(大正13)の春、女子美を卒業すると小石川区白山御殿町110番地にあった同校学生寮Click!から、高田町小石川狐塚(現・西池袋で自由学園明日館の西隣り区画)に建っていた住宅の離れClick!に引っ越してきている。この家には、吉田節子めあてに中出三也や三岸好太郎Click!、俣野第四郎など男たちもやってきたろうが、もちろん甲斐仁代も来訪していると思われる。特に俣野第四郎は、中出三也と同棲する甲斐仁代に惹かれていたので、おそらく逢える機会は逃さなかったにちがいない。吉田節子が借りた狐塚の家から、西へ150mほど歩いた池袋大原1382番地の横井方へ、松下春雄が部屋を借りて下宿するのは同年8月のことだ。のちに、吉田節子が名古屋のサンサシオン展Click!へ出品していることを考えあわせると、松下春雄は、この時期に吉田節子とも知り合っていたかもしれない。
 すなわち、甲斐仁代は狐塚の吉田節子をひとりで、あるいは中出三也を同伴して訪ねたあと、岡田三郎助の弟子仲間である松下春雄を訪ねていやしないだろうか? あるいは、吉田節子が三岸好太郎と結婚して、狐塚から染井墓地も近い駒込の新居へと転居したあとも、松下は翌1925年(大正14)まで池袋大原1385番地に住んでいたので、甲斐仁代(と中出三也)は彼の下宿を訪ねているのではないか。当時、甲斐仁代と中出三也は我孫子にあった志賀直哉の別荘から東京へもどり、松下春雄の下宿も近い雑司ヶ谷に住んでいた。そして、ふたりはこのあと下落合1385番地、つまり目白文化村は第一文化村の北側に建っていた借家へと転居している。

 
 「偶然」にしては、あまりに符合しすぎる松下春雄と甲斐仁代(と中出三也)とのつながりは、その後もつづいていく。松下春雄は、1925年(大正14)に池袋大原の下宿を引き払い、下落合1445番地の鎌田方Click!に部屋を借り、さらに渡辺淑子との結婚がようやく決まると、ふたりの生活のために1928年(昭和3)3月、第一文化村北側の下落合1385番地に新居Click!を借りている。ほどなく長女・彩子様Click!が産まれるのだが、このとき甲斐仁代と中出三也は同地番の家を出て、林芙美子Click!が『落合町山川記』(1933年)の中で記録したように、妙正寺川のバッケ堰のさらに上流、近くに大きな豚小屋のある野方町上高田422番地へと転居している。
 下落合1385番地にあった松下春雄・淑子夫妻の新居は、少し前に甲斐仁代・中出三也が住んでいた家そのものではないだろうか。松下は、下落合で淑子夫人と住む家を探しているとき、たまたま甲斐と中出が転居したがっているのを、おそらく本人たちから聞いた。そして大家に交渉し、そのまま間をおかずに松下夫妻が同家を引きつづき借りている・・・、そんな気配が濃厚なのだ。さらに、松下春雄は下落合1385番地へ新居をかまえた2か月後の1928年(昭和3)5月、なぜか友人と我孫子旅行Click!に出かけている。これは、甲斐と中出から画家たちのアトリエが集まる我孫子の様子を聞き、急に思い立って行ってみたくなったか、あるいは甲斐と中出に紹介状を書いてもらうかし、当時、我孫子にアトリエをかまえていた画家の誰かを訪ねていやしないだろうか。
 
 
 これだけ「偶然」が重なれば、そこには1本の経糸が見えてくる。すなわち、松下春雄と甲斐仁代とは、かなり以前から知り合っていた。本郷洋画研究所で顔を合せて間もないころ、松下の巣鴨町池袋大原1382番地横井方の下宿を訪ねてきた甲斐仁代は、松下からモデルになってくれるよう依頼された。画家同士が、お互いをモデルに描くのは別にめずらしいことではなかったし、いつも中出三也のモデルをつとめていた甲斐仁代は気軽に引き受けたのだが、独身の男性画家がひとりで住む部屋でのモデルは、やはり落ち着かない。少し不安げな表情を浮かべる彼女に、松下は「珈琲をもう一杯いかがですか?」と声をかけた、そんな物語が思い浮かぶのだが・・・。

◆写真上:1924年(大正13)に制作された、松下春雄『婦人座像』(油彩)。
◆写真中上:左は、大震災の年の1923年(大正12)に描かれた甲斐仁代『自画像』(東京国立近代美術館蔵)。右は、1928年(昭和33)制作の『浅間の秋』(女子美術大学蔵)。
◆写真中下:上は、大柄縞の着物姿で立つ女性(右側)が甲斐仁代。『婦人座像』の女性も、縞模様の着物を着ている。甲斐仁代の手前、右端に座るのは藤川栄子Click!。下左は、1927年(昭和2)に風景画を制作中の甲斐仁代。下落合1385番地に住んでいたころの撮影と思われ、周辺の雑木林は下落合の西部だろうか。下右は、1929年(昭和4)に撮影された松下春雄と彩子様。
◆写真下:上左は、1927年(昭和2)の上高田地図にみる422番地。上右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上高田422番地。下左は、同番地区画の現状。下右は、晩年の甲斐仁代。