大江戸(おえど)に敷設された三大上水道のうち、神田上水Click!や玉川上水Click!に対して比較的地味なのが千川上水だ。巣鴨や小石川、白山、湯島、上野、浅草方面へ配水するには、神田上水や玉川上水の分水では地形的に無理なので、三大上水のうちでは時代的にやや新しいせいもあるのだろうが、千川上水が江戸の市街地ではなく山手北部や外周域への給水を目的としていたせいで、口の端にのぼる機会が少なかったのかもしれない。また、分水が灌漑用水として多用されていたのも、市街地にはなじみの薄い理由だろう。
 落合地域は、神田上水の本流および支流(妙正寺川)と、千川上水の分水(灌漑用支流)の双方が流れる、大江戸でもめずらしい上水にめぐまれた土地だ。でも、1940年代まで飲料水に水道Click!を用いている家庭は多くなく、武蔵野礫層Click!の清廉で美味しい井戸水を使用するのがふつうで、落合地域の上水は江戸期から飲み水として使われることはなく、その余水は田畑の灌漑用として利用されていた。江戸の市街地から眺めるなら、あちこちから湧き出る清廉な水にはこと欠かない、なんとも贅沢な土地柄ということになる。
 江戸市街地の料亭や料理屋の中には、料理や茶に用いる美味しい水を“売り”にしていた店も存在したが、おそらく市内に張りめぐらされた水道(すいど)管の水ではなく、神田上水の上流域である戸塚や落合の水を運ばせていた店もあったかもしれない。江戸も後期になると、目白下(現・椿山~目白台)や戸塚、落合界隈はホタル狩りClick!の遊山客でにぎわうのだが、美味しい水でいれる茶が目的の風流人もいただろう。戸塚から落合にかけては、そんな遊山客相手の茶店や料理屋があちこちに開業していた。
 1940年(昭和15)に、武蔵高等学校Click!(現・武蔵大学)の民族文化部門に属していた学生たちが、荒廃や下水化が進む千川上水の流域を、たんねんに歩いて記録している。本流の上流域から下流域まではもちろん、各分水の終端にいたるまで実際に歩いては記録していったのだろう。撮影した写真点数も豊富で、当時としてはかなり上質のカメラやフィルムを用いているのがわかる。戦前の武蔵高等学校は、おカネ持ちの子弟が通う学校なので、このような調査の資材や資金には不自由しなかったのだろう。この記録は、今日でいうゼミの担当教授が指導するフィールドワークのような研究成果で、翌1941年(昭和16)4月に小冊子『千川上水』(武蔵高等学校報国団民族文化部門・編)として出版されている。
 


 千川上水には、おもな分水が7本造成されているが、もっとも規模が大きく長大なのが椎名町や長崎地域を流れる谷端川Click!だ。粟島弁天社Click!の湧水も合流するが、千川上水側からの名称は「長崎村分水」と呼ばれ、南流して武蔵野鉄道Click!を越え「U」の字を描くように再び武蔵野鉄道を越えて北流し、板橋駅前から再び南下して小石川から後楽園をかすめて神田川に注ぐという、全長11kmにおよぶ最長の千川分水だった。1940年(昭和15)現在では、川の規模も縮小され生活用水を排出する、下水と変わらない使われ方をしていた。また、当時から住宅地や道路工事が進み、多くの地点において暗渠化(下水道化)が行われていたのが記録されている。
 さて、千川上水の落合分水だが、以前に牧場の宅地開発としてご紹介していた籾山牧場Click!(旧・椎名町8丁目)の北西部で、千川上水がほぼ直角にまがる箇所がある。千川地蔵が奉られた、その直角の部分から南東へのびているのが落合分水だ。流れは、現在の目白通りに沿って南下するが、角状に突きでた旧・西落合1丁目の途中から真南に向かい、旧・西落合2丁目を南下してやや南西に流れを変えると、やがて城北学園(現・目白学園)のキャンパス沿いに下落合(現・中井2丁目)へと抜け、妙正寺川に合流している。
 この流筋は1935年(昭和10)前後から、すなわち妙正寺川の整流化工事がスタートしてからのちのことで、それ以前は城北学園のバッケ下Click!で妙正寺川に合流せず、そのまま妙正寺川に沿って南下し、西武電鉄の線路をくぐり抜けて、下落合5丁目(現・中井1丁目)にあった稲葉水車Click!あたりで合流していた。
 落合分水について、武蔵高等学校の学生がまとめた『千川上水』から引用してみよう。

 
 
 
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 落合分水。
 椎名町八丁目の屈曲点から出てゐた分水で、西落合一丁目、二丁目を経て西武線を横切り、同五丁目に於て妙正寺川に入つてゐた。全長二粁三分(2.3km)に及ぶもので、二三年前まで流れてゐたが、落合方面から武蔵高等学校裏に抜け練馬の方に行く新十三間道路(現・目白通り)の工事の結果閉鎖され、屈曲点から約五十米(メートル)道路に沿ふ部分は埋められ、街路樹が植ゑられて美化された(略)。これから約五十米新道路との間は今だ(ママ)に明かにその跡が残つてゐる。その先の新道路に沿ふ五十米の部分は跡形もなく、その先百米程の部分は埋められてゐるが橋が残つてをり、並木も笹も残つて明かにその跡を留めてゐる(略)。その先は東長崎方面からの下水に連結され、下水として使用されてをり、目下盛んに改修工事が営まれ、旧時の俤(おもかげ)は殆ど没し去つて昔からの下水かと思はせる。現在は西落合一丁目の昔の妙正寺川への排水口から四百米上流で妙正寺川に入つてゐる。周囲は人家稠密な住宅地である。途中に猫地蔵(自性院)などもある。(カッコ内引用者註)
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 この中で、西武線を横切って「(西落合)五丁目」において妙正寺川へ入っている…という記述は、西落合2丁目を南下したあと下落合4丁目(現・中井2丁目)を抜けて西武線をくぐり、下落合5丁目(現・中井1丁目)へと抜け妙正寺川へ合流していた…の誤りだ。西落合にいまも昔も、「5丁目」は存在していない。また、城北学園(現・目白学園)西側に沿った落合分水は、1930年(昭和5)ごろより旧・下落合4丁目の境界内に含まれている。
 『千川上水』(武蔵高等学校報国団民族文化部門・編)がとても貴重なのは、資料や文献に依存せず、きちんと現場へ出かけ実際に目で見て検証するフィールドワークが徹底している点にあるが、もうひとつ掲載されている写真が鮮明で質がよく、また掲載点数も多数にのぼることだろう。1940年(昭和15)現在の街中に展開する、千川上水沿いの風景や街の風情をふんだんに観察することができる。現在の練馬地域はもちろん、分水が流れる長崎(椎名町)地域、落合地域の戦前の様子がとらえられており貴重だ。

 
 
 落合分水が城北学園(現・目白学園)の西側にさしかかったとき、目白崖線のバッケ(崖地・急斜面)を流れくだる様子は壮観だったろう。かなりの落差があるので、分水路がバッケを斜めに横切っているとはいえ、相当な急流だったにちがいない。現在の落合分水は、すべてが暗渠化されて実際に目にすることはできないけれど、暗渠の上へ新たに敷設されたコンクリートの道筋に、どこか昔日の清廉な流れの面影を残している。

◆写真上:目白学園の西側を妙正寺川へと流れくだる、暗渠化された落合分水道路。
◆写真中上:上左は、旧・椎名町8丁目の籾山牧場跡を流れていた落合分水跡の道路。上右は、旧・西落合1丁目を流れ下っていた落合分水跡の道路。中は、1940年(昭和15)に撮影された十三間道路(現・目白通り)の工事が進む西落合あたりの落合分水跡。下は、同年に撮影された旧・西落合1丁目の落合分水跡の様子。
◆写真中下:上は、1935年(昭和10)ごろ城北学園下に設置された落合分水の妙正寺川出口。(戦後の撮影) 画面上に見えている森が、目白学園(旧・城北学園)の丘。中左は、現在の武蔵高等学校。中右は、1940年(昭和15)の同校正門前で千川上水が右手に流れている。写っているバスはダット乗合自動車Click!の後継である東京環状乗合自動車Click!で、目白駅前から桜台の練馬車庫あるいは豊島園まで運行していた。下左は、江古田町の武蔵高等橋あたりを流れる千川上水。下右は、旧・椎名町8丁目にある落合分水への分岐だった千川停留所付近。いずれも、1940年(昭和15)撮影。
◆地図:10,000分の1地形図(左)と、淀橋区詳細図(右)にみる落合分水。
◆写真下:上は、旧・要町3丁目を流れる長崎村分水の分岐路。中左は、旧・長崎6丁目を流れる千川上水。中右は、旧・長崎5丁目を流れる千川上水。このあたりの情景は、戦前の「上原としアルバム」Click!でも戦後の春日部たすく『千川落日』のモチーフでもとらえられている。下左は、旧・千早町4丁目を流れる千川上水で手前の橋は庚申橋。下右は、旧・要町3丁目の釣り堀があった千川上水。いずれも、1940年(昭和15)の撮影。