佐伯祐三Click!は、よくケタケタ笑っていたという証言が、東京美術学校時代の知人や親しい友人たちの間に残っている。しかし、ひとたびカメラのレンズを向けられると、マジメな顔になって口もとを一文字に結び、深刻かつ憂鬱そうな芸術家らしい顔つきに変貌する。なぜ、佐伯は写真で笑顔を見せないのか? それは、いちばん目立つ上顎左1番の前歯が、丸ごと1本欠損していたからだ。
 前歯の欠損は、少なくとも1920年(大正9)9月の東京美術学校の学生時代から、1928年(昭和3)8月16日にフランスで精神を病み死去するまでつづいていると思われる。いちばん最初に、前歯の欠損に気づいて触れているのは、のちに佐伯祐三の兄・祐正Click!の妻となる小久保千代子だ。小久保千代子が、本郷区向ヶ丘弥生町3番地(町境改正前は本郷区元富士町1番地の可能性がある)の大谷家で、初めて美校生の佐伯祐三に出会ったときの証言だ。この大谷家というのは、佐伯の実家である大阪の光徳寺Click!の檀家で、同家が東京へ転居してからも光徳寺や佐伯家とはつながりがあった。
 大谷家で初めて佐伯に出会った千代子は、前歯のない笑顔を見せる彼に好印象を抱いている。1980年(昭和55)に平凡社から刊行された「太陽」3月号の、佐伯千代子「若き日の義弟、祐三」から引用してみよう。なお、佐伯との出会いはこの原稿ばかりでなく、1978年(昭和53)の京都国立近代美術館ニュース「視る」6月号にも記録がある。
  ▼
 その当時池の向う側の池端七軒町という名の電停で降り、なだらかな坂を上がると右に浅野家の大きなお屋敷が上品な灰色の塀に囲まれてあり、右に廻ると左側が本郷弥生町三番地で、親類の大谷の家がありました。閑静な住宅地で私は大正九年九月に、その六年後義弟になる人とは露知らず、そこで佐伯祐三と出会ったのです。彼は二十三歳(満22歳)で彫りの深い日本人離れのした、特に目がくぼんで鋭くこわそうな顔なのに歯が一本欠けていたせいか笑顔が無邪気でそのくせ無口な人でした。けれど「あのなー」に始まり、「そやねん」で終る大阪弁は間延びして大らかで私には初めての言葉でしたので面白く彼の顔を見ながら暖か味を感じました。(カッコ内引用者註)
  ▲
 東京弁の千代子には、「あのな~……そやねん」と間のびして話しながら笑う佐伯が、のんびりしていて面白く新鮮に映ったのだろう。なお、佐伯の前歯がないことについては、親友の山田新一もどこかに書いていたかと思う。あまり指摘するのもはばかられる歯欠けについて触れられるのは、ごく親しい関係の人たちだけだろう。

 佐伯の前歯は、なぜ欠けてしまったのだろうか? わたしは、フランスから輸入された鉛管か溶き油のフタがなかなか開かず、前歯を使って無理に開けようとしたらボキッと折れてしまった……などと、いい加減で適当な想像をしていた。佐伯がまだ大阪の赤松麟作Click!の画塾にいたころか、あるいは東京へやってきて川端画学校時代あるいは東京美術学校へ入りたてのころのエピソードを想定したのだ。わたしは子どものころ、しばらく使わずに放っておいて、すっかり乾いてしまった絵の具のフタを、前歯で開けようとしてひどく痛めた憶えがあるからなのだが、東京藝大の美術科を出た友人に訊いたらクールにひとこと、「あのー、ありえません」といわれてしまった。きっと、そんなオバカをして歯を痛めるのは、わたしぐらいのものなのだろう。w
 さて、では前歯の欠損で考えられる理由は、ほかになにがあるだろうか? 子どものころから、甘いものの食べすぎで虫歯になって抜いた……という経緯は、あまりにも考えにくい。虫歯になるのは奥歯からが普通であり、また佐伯が虫歯に悩まされていたという話もあまり聞かない。中学時代に、好きな野球Click!をしていてバットかボールが当たり、「あのな~、折れてもうた」になってしまったのか? あるいは、東京市電が不忍通りの八重垣町電停あたりにさしかかったとき、ヴァイオリンをもったまま市電から飛び降りて、工事中の側溝へ転落した際に前歯を折ったのだろうか? しかし、そうだとすれば転落した様子をじかに見知っていた友人が、「そのとき、佐伯の前歯が折れた」と証言を残しているはずだ。
 さらに、食い意地の張った佐伯のことだから、なにか固いものを無理に食べようとして前歯を折ったのだろうか? 美校時代の佐伯には、菓子を無理やり大量に食べさせられたエピソードが残っている。上野桜木町にあった山田新一Click!の広めの下宿で、おそらく谷中坂町95番地の宮崎モデル紹介所から派遣され、画学生たちのモデルを1週間つとめた“おみきちゃん”に、慰労会の菓子1円分を買いにいかせるくだりだ。1980年(昭和55)に中央公論美術出版から刊行された、山田新一『素顔の佐伯祐三』から引用してみよう。
 
  ▼
 一円をおみきちゃんに持たせて、好きな菓子でも買ってきてくれ、と頼んだ。しかし、この娘さんは大変無邪気な人だったので、その“一円”で、饅頭一つ混えない、煎餅とか今でいうクッキーのような駄菓子ばかりを買って帰ってきた。テーブルの上に山のようにもりあげて、それを見ただけで、どうしたら食べきれるか、皆が顔を見合せてしまった。それを知ってか、知らずか、おみきちゃんはこれから食べ始めるご馳走をあどけない顔でながめている。/ただ、佐伯一人は、もうその頃から一生を通じて変わらないフェミニスト振りを発揮し、女性に迷惑をかけ、いやな思いをさせるのができない性分なので、大いに義侠心を出して、/「みんなでジャンケンして、負けた者がその都度、食べることにして、これを残さないことにしようや」/うむを言わせぬ提案を出して、そのついでに、傍らのヤカンを取上げ、/「もう、茶も飲まんのやで」/と言うなり、物干台にヤカンを隠してしまった。ジャンケンが始まり、さあどういうわけか幾遍やっても絶対佐伯が負けるのである。/最初は自分から言いだしたことなので、ガリガリとお菓子を食べていたが、そのうちさすがに困りはて、/「茶だけ飲ませーや」/と言って、隠したヤカンを引きよせる。しかし、勝負のつきはあくまでも佐伯のみに悪く襲いかかる。困りながらも、自ら言いだした提案なので、律気にも食べ続け、ほとんど彼一人で“一円”を平らげてしまった。
  ▲
 このあと、佐伯は街中の菓子屋を見ると吐き気が止まらなくなり、体調を崩して美校を数日間休んでしまうのだが、固い煎餅や駄菓子を立てつづけにガリガリと食べて、なにかの拍子に前歯を傷めやしなかっただろうか?
 後年、娘の彌智子Click!が3歳前後のころの、佐伯がめずらしく満面の笑みを浮かべた写真が残されている。愛娘を抱っこした佐伯は、いつもレンズの前で見せるすまし顔ではいられなかったのだろう。この写真は、おそらく第1次渡仏から帰国する前後、1925~26年(大正14~15)ごろに撮影されたものと思われる。もし、佐伯が下落合の歯科医で治療(挿し歯ないしは入れ歯)をしていないとすれば、彼の前歯はヴィル・エヴラール精神病院で死去するまで欠損したままだったのだろう。
 
 佐伯祐三は、「いつも深刻で憂鬱そうな表情を浮かべて笑わない」……、それは残された写真から後世に類推され、どこか“悲劇の画家・佐伯祐三”をことさら強調しすぎたイメージなのではないだろうか? 佐伯はカメラを向けられると、とたんに口を一文字に結んで前歯を隠す。だが、実際の佐伯祐三はよく冗談をいい、よく笑っていた。そして、口を開けて笑うと、とたんに前歯が欠けているのが見えるので、周囲の人々へ急に親しみの感情を抱かせている。「あのな~、わし、ほんまは歯欠けでんね。……そやねん。なんででっしゃろな? ほな、みんなで推理してみてや~。おもろい回答、期待してまっせ」。

◆写真上:彌智子を抱いて笑う、前歯の上左1番が欠けた佐伯祐三の口もと。
◆写真中上:先年、佐伯祐三アトリエ記念館で展示された彌智子を抱き、めずらしく破顔する佐伯祐三。(新宿歴史博物館蔵)
◆写真中下:1925年(大正14)7月に南仏アルルを旅行中、ゴッホの吊り橋上で撮影された佐伯一家(左)。口が半開きの佐伯を拡大(右)すると、前歯の欠けているのが見えそうだ。
◆写真下:左は、1985年(昭和60)の解体寸前に撮影された佐伯邸。佐伯米子Click!が増築した茶の間裏から、母屋を眺めたところ。右は、めずらしい佐伯の名刺。