1923年(大正12)9月1日(土)の昼どき、自宅にいた目白中学校Click!の生徒が関東大震災Click!が起きた瞬間の様子を克明に記録している。翌9月2日は日曜日で、目白中学は3日の月曜日から新学期がはじまる予定だった。
 この加藤一男という、当時は中学2年生だった生徒がどこに住んでいたのか、ハッキリとは規定できない。ただし、「染工場」や田畑のある情景の記述から、旧・神田上水(現・神田川)ないしは妙正寺川の沿岸部である可能性が高い。旧・下落合(現・中落合/中井含む)か上落合、上戸塚(現・高田馬場界隈)、下戸塚(現・早稲田界隈)、高田(現・目白/目白台界隈)の川沿いのどこかだろう。いずれにしても、自宅から下落合にある目白中学校まで徒歩で通える距離に住んでいた感触がある。中学生が体験した大震災の記録は、妙な粉飾や誇張、のちに判明したあと追いの情報や知識などを混じえず、震災直後の状況やありのままの事実を表現している点でとても貴重だ。
 加藤家では、地震が起きた午前11時58分現在、昼食の準備をしていたのだろう。幸いにも、山手なので(城)下町Click!に比べて揺れが相対的に小さかったものか、自宅の倒壊はまぬがれている。家々の様子から加藤家は農家ではなく、明治末から大正初期にかけて造成された住宅地の風情をしており、ところどころに農家が残り田畑を耕しているような東京郊外の住環境だった。では、1924年(大正13)4月に発行された目白中学校の校友誌『桂蔭』第10巻Click!に掲載の、加藤一男「大震動」から引用してみよう。
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 何だか膝がぐらつく様な気がする。見ると電燈の笠が微(かすか)に動く様だ。オヤツと思ふ間もなく、ギシギシと家が鳴り出した。「地震だツ。」 ドキンと何かで胸をドヤされた様な気がした。ハツと腰を浮した拍子に、グラグラと更に猛烈な上下動が襲来した。ガラガラ何か壊れる音が鋭く耳朶を打つた。と同時に無我夢中で窓から、生垣を突き退けて、前の畠へ飛び下りた。飛び下りて横倒しに倒れた事は覚えてゐるが、後は何も知らない。家がどうならうが……母がどうならうが……兄や弟がどうならうが……頭の中から過去の記憶や、現在の種々の妄想など、全部何処かへフツ飛んで了つた。唯無意識に波の様な地面を畠の中へ走つたばかり……。/ホツと我に返つた時は、自分は泥だらけになつて人参畠に匍ひつくばつて居た。母と弟は芋畑を転々としてゐる。見ると、屋根瓦が流される様に落ちて来る。壁が落ちる。大揺れの家の窓から、玄関から、濛々と埃が吹き出す……。と、轟然と前の一棟が押し潰される様に崩れた。ヒラヒラと木ツ端が、バツと立つ黄褐色の埃と一緒に舞ひ上つた。僕は茫然として眺めた。
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 関東大震災の初期震動が、強い上下動からはじまり、つづいて大きな横揺れに移行している様子がわかる。この最初期の大きな上下動によって、家の中の家具調度がいっせいに倒れ(というより室内へ四方から瞬時に飛び出し)、その下敷きになった多くの人々は戸外へ避難することができずに、つづいて倒壊した家屋の下で圧死した。その数は、5,000人とも6,000人ともいわれている。
 首都圏では、その後に起きた火災により判明しているだけでも92,000人が死亡しているのだが、地震の最初期に戸外へ逃げ出せずに圧死した犠牲者も決して少なくはなかった。現・新宿区のエリアでは、四谷地域(旧・四谷区)の被害がもっとも大きく、当時の四谷警察署の管内記録によれば168人が死亡し、642戸の住宅が全焼している。下町に比べれば被害は少ないように見えるが、現在の建物稠密度や高層化、さらに当時はまったく存在しなかったさまざまなリスクを考慮すれば、比較的地盤が強固な山手だからといっても、決して楽観視できない数値だろう。
 
 引きつづき、加藤一男「大震動」から引用してみよう。
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 其の内に震動もどうやら止んだ様だ。と「三上さんが下敷になつたぞう」と誰か怒鳴る声がする。アツ死んだかな!? 瓦が少しも落ちなかつたから其の重みで……と思つた。近所の男達がパラパラと馳せ寄つた。兄もすぐ飛んで行つた。僕も走つて行つた。崩れた瓦の下の方から「早く坊やを助けて!」と幽かな震へ声が聞えて来る。/「今直ぐだぞッ」「しつかりしつかり」と口々に呼びながら声のするあたりの瓦をめくり始めた。僕も、何時の間にか瓦の端に手が掛つて居た……瓦を何枚めくつたらう……お祖母さんも、小母さんも、三つになる子供も微傷一つだに負はず、頭から埃だらけになつて助け出された。嗚呼天佑!! 皆さんのお蔭で命拾ひしました、とお祖母さんは、嬉し泣きに泣いてゐた。/「水をお呑みなさい、水を呑むとおちつきますよ。」と、平井のお爺さんが、手桶に水を持つて来て呉れた。僕も筵に腰を下したまゝ、一口呑んだ。気のせいか、幾分かおちついた。だが未だ足がフラフラして力が入らない。グルリと見廻すと、女子供達は皆真蒼になつて居る。常々病身の母はぐつたりとなつて、荒い息使ひ(ママ)をして居る。
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 ここで留意したいのは、屋根上へ強固に組まれとめられた頑丈な瓦が、震災の震動ですべり落ちなかった住宅が潰れている点だろう。瓦がすべり落ち、屋根が軽くなって重心が低くなった家々が倒壊をまぬがれている。震災後、屋根からすべり落ちた瓦にあたって負傷する危険性が指摘され、行政によりトタンやスレートの軽量屋根が推奨されるのだが、もうひとつの重要な課題として、大きな震動で瓦がすべり落ちないよう、いくら釘どめ瓦で頑丈に屋根を葺いたとしても、屋根自体の重量を軽減しなければ大震災における家屋倒壊の危険性は低減できない……ということだ。


 文中に登場する落ち着いた「平井のお爺さん」は、ひょっとすると幕末の1855年(安政2)に起きた安政江戸大地震の、さらには1894年(明治27)の明治東京大地震Click!の経験者かもしれない。以前にも、江戸東京地方へ大きな被害をもたらした安政江戸大地震と関東大震災の双方を経験し、そのちがいを比較して語っていた老人の言葉をご紹介Click!しているが、このような地付きの方の証言はきわめて貴重で、次の大震災への備えを考慮するうえでも、かけがえのない重要な情報を提供してくれている。
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 「あゝ、恐かつた」「随分大きかつたね」「もう大丈夫かしら?」と胸をなで下すと間もなく、又、大地がムクムクと動き出した。「ホラ又!!」 子供達は、わあわあ泣き出す。「泣くんぢやない、大丈夫々々々」「大丈夫々々々おちついておちついて」と平井のお爺さんが励ます。/筧の溜り水が溢れ出る、家が大きく揺れる、突!!(ママ)物凄い音響と共に無惨にも、一番後ろの茂木さんの家が倒潰した。屋根の半(なかば)は畠の中へ投げ出された。/振り返ると、染工場も田の向ふの家も何時の間にか潰れて、砂埃が一面に漲つてゐる。/泣いたり、叫んだり、破壊と墜落、其等の騒然たるる中に、かすかにゴーゴーと引込まれる様な地鳴りの音が聞える。
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 ここに登場している加藤家や「染工場」をはじめ、近隣の住宅である「三上さん」や「平井さん」、「茂木さん」などの名前を手がかりに、1925年(大正14)の落合地域の「出前地図」Click!をはじめ、大正末に発行された各種「事情明細図」や「住宅明細図」、昭和初期に編纂された川沿いに展開する各町誌や町会資料などを調べてみても、これらの姓が並んだ街角をどうしても見つけることができなかった。
 同年の『桂蔭』4月号には、「大震火災」と題する1年生の山上正芳が書いた原稿も掲載されている。山上家の住所も不明だが、避難先に「酒井伯」が登場するので牛込矢来町の酒井忠良伯爵邸の近く、赤城下町から中里町あたりではないかと想定できる。


 現代の東京は、「耐震設計」の建物がかなり増加している。しかし、この「耐震設計」の「耐震」は、あくまでも科学的な解析や規定がある程度まで可能な、おもに関東大震災の“揺れ”をモデルに、さまざまな基準が決められているにすぎない。つまり、プレート型地震の大規模な“ヨコ揺れ”による「耐震」は想定されているが、直下型の活断層地震と推定される安政江戸大地震のような大きな“タテ揺れ”に関しては、データが存在しないためほとんど想定されていない……ということだ。東海地震の可能性が高まっている現在、次に想定されるのは、少なくとも大正期にエネルギーが解放されている相模湾沖が震源のプレート型地震ではなく、東海から九州まで連続して起きたプレート型巨大地震に刺激された、江戸東京直下型の活断層地震Click!のように思えるのだが……。
 

◆写真上:大火災による火事竜巻や大火流が発生して壊滅した隅田川両岸で、教訓から造られた防災インフラは東京オリンピック(1964年)前後にほぼ消滅している。
◆写真中上:左は、旧・牛込区の市谷あたりから見た市街地の大火災雲。右は、新宿駅西側あたりの淀橋町から見た市街地の大火災雲。
◆写真中下:いずれも東京市街地の大火災で発生した積雲状の煙の様子で、山手の雑司ヶ谷界隈(上)と小石川界隈(下)から眺めた市街地方面の光景。
◆写真下:上は、震災直後の東京駅の丸の内口。下は、同様に震災直後の日本橋付近で背後に見えるドームが日本橋白木屋(現・COREDO日本橋)。「中ニ数十人居マス助ケテ下サイ」と書かれた木札が見えるが、おそらく火の手は近くまで迫っている。このあと、日本橋から京橋、八重洲、銀座、有楽町界隈は大火流により全滅した。