★ご報告
 以前、山中典子様Click!よりお預かりし、こちらの記事でご紹介していた笠原吉太郎の『下落合風景(笠原吉太郎邸)』Click!が、正式に新宿歴史博物館で収蔵されることに決定した。大正期から昭和初期にかけての、「下落合風景」作品が少しでも地元に保存されてとてもうれしい。
  ★
 1926年(大正15)秋にスタートする、佐伯祐三Click!の『下落合風景』シリーズClick!は、作品を仕上げていく過程で、どこを描いたのかを記録する「制作メモ」Click!が作成されている。佐伯は作品1点につき、描画ポイントやモチーフのタイトルを個別に記録したのではなく、おそらく複数枚のキャンバスを描画ポイントまで運び、そこで描いた複数の作品はナマ乾きの表面を合わせ専用金具でキャンバスをとめて持ち帰り、その覚え書きとして「制作メモ」を書いていた公算が高い。それは、フランスで描かれた風景作品ばかりでなく、『下落合風景』作品においても同一モチーフや同じ描画ポイントの作品が、やや視点を変えて複数枚存在していることからもうかがい知れる。
 佐伯祐三は、もともと「ズボ」というあだ名がしめすように、それほど几帳面な性格ではなく、日々に描いた作品をいちいち記録していくような、そんな面倒で手間のかかることをするような人物には思えない。画家には多く見られる、日記などもいっさいつけていない。にもかかわらず、1926年(大正15)の秋に限って、なぜか律儀に制作した作品の記録を、描画ポイント(モチーフ)や日付け、キャンバス号数などとともに残している。そこには、「制作メモ」を克明に記録するのが好きだった、前田寛治Click!の大きな影響があるのではないか?……というのが、きょうのテーマだ。
 1926年(大正15)の秋、前田寛治は湯島の沼沢忠雄が運営していた湯島自由画室の畳部屋から、下落合661番地へと転居している。つまり、同地番に建ってた佐伯アトリエへと居どころを移して、いわば“同居”しているのだ。実際に寝泊まりしたのか、それとも単なる連絡先かは不明だが、少なくとも前田寛治が佐伯アトリエClick!へ頻繁に姿を見せたことはまちがいないだろう。曾宮一念が、前田の姿を頻繁に目撃しているのも同時期のことだと思われる。おそらく、佐伯と前田は作品あるいは画論をめぐって、毎日いろいろな会話をしていたかもしれない。また、制作のあい間にヒマを見つけては、藤川勇造Click!や藤川栄子Click!、外山卯三郎Click!などと連れ立って、郊外ハイキングへ出かけてもいる。その過程で、佐伯祐三は前田寛治が常に持ち歩いているノートを見せられ、そこに記録された鳥取時代からの制作メモを見ているのではないか?
 前田寛治は、鳥取の実家で絵を描きはじめた最初期から、作品のタイトル、号数、寄贈先あるいは販売先を克明に記録している。その一部は、1949年(昭和24)に建設社から出版された外山卯三郎『前田寛治研究』にも、前田の性格を裏づけるひとつの素材として収録されている。これは、前田が日記がわりにつけていた創作ノートにまとめられ、前田の死後は遺族のもとで保存されていた。おそらく前田は、これら日々書きつづけていた創作ノートを、佐伯アトリエにいるときも離さず身辺に置いていただろう。前田寛治にとっては、日記というよりはもう少しラフな覚え書き、なにか気になったことを書きつけておくメモ、あるいは簡単なスケッチ帳のような役割りを果たしていた。
 おそらく、佐伯は前田がときどき取り出しては、なにか書きつけているノートに興味をもったにちがいない。前田はこのとき、すでに二科への入選と帝展特選、さらに平和記念東京博覧会への出品では褒状を受けており、佐伯にとってはもっとも見習いたい“先輩”であり、目標とすべき洋画家像を体現していたように思える。鳥取時代からのつけられていた前田の制作メモについて、外山卯三郎『前田寛治研究』から引用してみよう。
 

  ▼
 彼はそのノートの一ヶ所に、一九二二年一月三十日と日付を入れて、「絵の行先」といふリストを作つてゐる。その次に「画きたる絵の記憶」といふリストを加へてゐる。われわれは彼のフランス留学以前に、すでに彼がこれだけの絵を描いてゐたことを知るための参考に、このリストをここに記して見よう。(中略) この二つのリストはその日付から見て、彼の平和博出品以前の作品であることがわかる。従つて一九二一年の倉吉中学校での個展の前後における学校時代とその後の、作品数とその画題と大きさを知ることができる。だからこの当時すでに二〇〇点位の絵を描いてゐたし、また渡欧画会のための絵も五〇点位は描いてゐる。恐らく彼がフランスに行くまでの作品は、ざつと三〇〇点と見ていい。
  ▲
 好奇心の強い佐伯は、おそらく前田のノートに記載されたさまざまな日記風の所感や制作メモ、スケッチなどを見せてもらったにちがいない。そして、自分もひとつ制作記録をつけてみよう……と、1926年(大正15)9月10日の前日あたり、田端駅へ写生に出かける前の日に決心したのだ。でも、佐伯は前田とちがって几帳面でも持続力があるわけでもなく、興味をおぼえたことは集中・連続して実行するが、1~2ヶ月もすぎて飽きるとふいに止めてしまう、前田とはほぼ正反対の性格だった。制作メモも、線を引いたマス目はなんとか全部埋めるつもりだったものが、ついに10月23日に挫折して飽きてしまったのだ。43日間つづいた制作メモだが、すき焼きClick!や“はなよめ”Click!、大工仕事Click!への執着よりは少し短かすぎただろうか?
 前田寛治は、佐伯よりひと足早く1925年(大正14)8月に帰国している。鳥取へ帰り、帰国の挨拶まわりをしたあと、同年秋には東京へもどり湯島の自由画室を拠点にして活動している。このあと、前田は落合地域とその周辺域へやってくるのだが、その軌跡は前田の年譜などでかなり詳細に判明している。しかし、1949年(昭和24)に出版された外山卯三郎『前田寛治研究』(建設社)によれば、一時期「下落合二丁目」の「目白の画室」を借りていた様子が登場している。その部分を、全文引用してみよう。
  ▼
 前田はその内に目白に画室を借りて仕事をするやうになつた。彼は目白の画室といつてゐたが、場所は下落合二丁目の火の見の下のところであつた。当時佐伯祐三がすぐ近くのアトリエに帰朝してゐたし、田口省吾の画室も目白通りの反対側にあつた。そののち上京してきた里見勝蔵も、近くに家を借りて住むやうになつた。前田はここから湯島に通つて「自由画室」の指導をしてゐた。
  ▲
 これは、前田が1930年協会の資料に自ら記載した下落合(4丁目)1560番地とは、まったく別の住所だ。前田が、下落合2丁目の火の見櫓の下に画室を借りていたとすれば、それはいつごろのことだろう。前田の長崎地域あるいは下落合地域の住居は、郵便物などから時系列的にかなり綿密にたどられているので、下落合2丁目の火の見櫓の下にあったとされる画室の入りこむ余地はないように思える。
 だが、所在がやや曖昧な時期というのが湯島自由画室に2ヶ月間滞在していたころ(1926年夏)と、下落合661番地つまり佐伯アトリエに“同居”していた時期(同年秋~冬)だ。前田は、同住所を郵便物の連絡先に使用し、実際は下落合2丁目の画室で仕事をしていたのではないか?……という可能性が浮上してくる。ちなみに、長崎側にいた中央美術社の田口省吾は、東京美術学校では前田寛治のクラスメートであり、笠原吉太郎Click!を1930年協会設立直後の前田や里見に紹介したのも彼だった。また、里見勝蔵は同時期、京都から森田亀之助邸Click!の隣り=下落合630番地Click!へと転居してくる。


 大正末の下落合2丁目には、火の見櫓が2ヶ所設置されていた。ひとつは、目白通りもほど近い子安地蔵の斜向かいにあたる下落合569番地あたり、もうひとつが下落合氷川社の南側で旧・神田上水沿いの下落合895番地あたりだ。外山卯三郎の記述から、おそらく「目白の画室」があったとすれば前者の所在地だと思われる。この想定でいけば、前田はこの画室を引き払って結婚をするために、1926年(大正15)12月に一度鳥取へ帰郷し、愛子夫人をともなって同年12月に再び東京へとやってきたことになる。そして、新婚夫婦が落ち着いたのは、のちに造形美術研究所Click!が建設されるすぐ近くの、長崎町大和田1942番地だった。
 前田寛治の作品というと、どうしても人物画を連想してしまうが、東京の風景画も多く描いている。残念ながら、下落合の風景作品は見あたらないが、池袋風景や駒込風景、巣鴨風景などが何点か制作メモに残されている。また、杉並町天沼287番地に設立した「前田写実研究所」+アトリエでは、周辺の荻窪風景の作品をよく描いているようだ。その風景画の総決算とでもいうべきものが、晩年の「海」をテーマとする作品だった。引きつづき、外山の文章から引用してみよう。
  ▼
 彼は自分の住んでゐる荻窪風景を描いた。山も写生した。彼の理論によると、山が空に糊付けになつたり、山の向ふ側が感じられなかつたりしては駄目なのである。山の前腹に呼応した空間が、山の向ふに感じられなければいけなかつた。彼はこんなこともいつた。「川を描いても、岸や砕ける小波やその説明や面白味だけを捕へただけではだめだ。水そのものが感じられ、水底から満ち満ちてゐる水の深さが感じられなくてはならない」と。
  ▲
 残念ながら個人蔵が多いのか、わたしは前田寛治の池袋風景や荻窪風景の画面を、まだ一度も観たことがないが、独特の「空間」感のふくらみがある画面なのだろう。

 
 前田寛治の制作メモをみると、同じようなモチーフを選んでタイトルの差別化に苦心している様子がうかがえる。『天平女』『椅子裸女』『椅子女』『紫の女』『丸き女』『コウモリ傘女』……、これらは渡仏前の古い作品群なので、どのような画面かはわからない。同様に、佐伯祐三の『下落合風景』についてもいえることだが、風景の少しでも特徴的なポイントを探しては差別化し、制作メモに記録している。でも、佐伯は前田のように、そういう面倒なことをつづける忍耐力も持続力もなく、自分で作ったマス目を埋める前に、「もうエエわ、ようやらん。あかんがな~」になってしまったのだ。

◆写真上:火の見櫓が建っていた、下落合(2丁目)569番地あたりの現状。
◆写真中上:上左は、前田寛治の手帳メモで八王子市夢美術館の「前田寛治と小島善太郎」展へ展示されたもの。上右は、1926年(大正15)5月に撮影された前田寛治。下は、1924年(大正13)にクラマールで撮影された左手前から前田寛治、佐伯米子、佐伯祐三の3ショット。
◆写真中下:外山卯三郎『前田寛治研究』に収録された、前田寛治の制作メモ。
◆写真下:上は、下落合の前田寛治(おそらく1926年秋)、里見勝蔵、佐伯祐三のアトリエ位置。下は、1928年(昭和3)制作の前田寛治『白い服の少女』(左)と1930年(昭和5)の急死する前に制作された前田寛治『海』(右)で、ともに鳥取県立博物館蔵。