下落合753番地の九条武子邸Click!跡に建っていた住宅が解体され、空き地のまま売りに出されている。かなりまとまった敷地の広さなので、それなりの価格はするのだろう。ついこの春先まで、赤土がむき出しの更地だったのだが、この夏に雑草が一面に生えて、武蔵野の典型的な原っぱになっている。「あな、いとしや、おなつかしや武子さま」の濃い武子ファンには、願ってもないチャンスだ。あこがれの九条武子Click!邸の上に、自宅を建設できるのだから。
 もっとも、周囲には九条邸の時代Click!と変わりなく、野良ネコClick!やタヌキClick!、ハクビシン、ヘビClick!がウロウロしているので、そういう動物たちがキライな方には、下落合の住まいは向かない。さらに、九条邸跡の南側には、薬王院の森と野鳥の森公園や池があり、虫たちの天国と化しているので、虫ギライの方にも辛い住まいになるだろう。市街地・本郷出身の新しい娘は、おしなべて野生動物は大丈夫なのだが、夏になるとよく虫たちに悲鳴をあげている。窓からセミでも飛びこんでこようものなら、卒倒しかねない環境のようだ。九条武子の『無憂華』より……。
  つる草にましろき花もうらがなし 秋くとつぐるとんぼのゆきき
  かたことと戸のそとにきて裏山の すすきにはしる夜のあき風
 さて、武蔵野の原生林に囲まれた下落合の九条邸へ、雑誌や新聞、出版社の記者たちは頻繁に訪れて記事を書いていたが、同じくマスコミに追いかけまわされていた人物で、彼女と同業だった親友のひとりも、やはり九条邸を訪れているだろう。あるいは、九条武子は散歩がてら、または俥(じんりき)かクルマをやといながら、その友人のもとを訪問したことがあったかもしれない。九条邸から、北東へ直線距離で800mほどのところ、高田町上屋敷(あがりやしき)3621番地に住んでいたのは、同じ歌人仲間の宮崎燁子Click!(あきこ=宮崎白蓮)だ。
 当時の上屋敷もまた、住宅や田畑が散在するだけの武蔵野の面影が色濃い地域だった。ちょうどそのころ、1923年(大正12)の上屋敷界隈の風情を、三岸好太郎Click!と俣野第四郎がほぼ同時に画面Click!へ写しとっている。翌年、上屋敷の狐塚には、女子美術学校を卒業したばかりの吉田節子(三岸節子Click!)が転居してくることになる。
 先日、自由学園明日館Click!でコンサートがあった帰り道、久しぶりに狐塚から宮崎龍介Click!・燁子邸の前を歩いてみた。TVドラマの影響からか、宮崎邸の前はすごい混雑していると豊島区の方からうかがっていたのだが、夕方が近かったせいもあるのか、宮崎邸はいつもと変わらないひっそりとしたたたずまいを見せていた。宮崎邸から九条邸まで、わたしの足でふつうに歩いて10分ちょっとの距離だから、着物を着た女性の足でも、おそらく20分ほどでたどり着けるだろう。
 
 
 『女人藝術』Click!を通じて、長谷川時雨Click!とも親しかった宮崎白蓮だが、彼女が身重で隠れ家生活をしているとき、九条武子がなにかと世話していたのを、のちに長谷川時雨は1935年(昭和10)のエッセイ(翌年にクレス出版から刊行された『近代美人伝』収録)で証言している。近所に住むようになってから、ふたりの間でどれほどの往来があったのかはあまり知られていないが、ひょっとすると九条武子は震災後、意識的に宮崎邸からほど近い下落合を選んで転居しているのかもしれない。長谷川時雨のもとに寄稿した、宮崎白蓮の歌から……。
  子らはまだ起きて待つやと生垣の 間よりのぞく我家のあかり
  ああけふも嬉しやかくて生の身の わがふみたつ大地はめぐる
 さて、下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)で『雑記帳』Click!を編集していた、松本竣介Click!・禎子Click!夫妻は1937年(昭和12)の秋、上屋敷の宮崎燁子へ原稿を依頼している。それに対して彼女は、「何も御奉公といふことば」と題するエッセイを寄せた。「何も御奉公」という言葉は、おそらく宮崎燁子が子どものころ、柳原家あるいは北小路家の女中が屋敷内でつかっていた口グセの言葉で、「私もそろそろ年をとつて来たせいか、この言葉がもつ味がやつとわかつて来た様な気がしてうれしいのです」と結んでいる。では、1937年(昭和12)に綜合工房から発行された『雑記帳』11月号所収の、宮崎燁子「何も御奉公といふことば」から引用してみよう。
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 それはもう、ずつと古いことでした。私がまだ小さい時、徳川の代のほとぼりが、全くさめ切つてゐないと云つた風な人達が、多分に私の周囲に生きてゐた頃のことでした。若い日を昔のお芝居そのまゝの御殿奉公をつとめ上げて、引きつゞきその時もなほ老女として、一生を邸方向で終るといふ人が、私の側にゐて、「何も御奉公」といふことを、よく口ぐせにするのでした。それは自分自身に云つてゐることもあるし、多くは若い後輩の女中達に云ひきかしてゐる言葉でした。それがこの頃になつて、ともすれば何かにつけて不思議に私の胸に生々しくよみがへつてくるのです。
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 「何も御奉公」という言葉は、別に華族邸や武家屋敷に特有の言葉ではなく、町人の間でも特に商家や職家ではよくつかわれた言葉だ。小僧や見習、丁稚(でっち)の奉公にはじまり、丁稚頭から手代へ、手代頭から番頭へ……と長年辛抱してつづけていくうちに、「何も御奉公」することによって商売がまわり、ひいては家が栄え、必然的に奉公人の暮らしも楽になり、少しずつ生活にゆとりが生まれて、やがては独立(暖簾分け)していくような仕組みになっていた。
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 今更のやうに思ひ出し考へ出して見ると、この「何も御奉公」といふ言葉位、含蓄のあることばはありません。その頃それがどういふ場合に用ゐられたかといふと、たとへば若い女中などが、人目にたゝぬつまらぬ仕事、しかもそれはおろそかにすべきものではないといふ様な、或はさうした用事をいやいやしてゐる場合、この老女は、「何も御奉公でありますぞ!」と、おごそかにたしなめるのでした。その昔は、大名の奥や千代田の大奥などで、盛んに用ゐならされた言葉ではなかつたかと思ひます。
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 いかにも、たくさんの本を読んで勉強していそうな、女性らしいリズミカルでやさしい文体なのが宮崎燁子らしい。おそらく宮崎家に入ったことで、「おろそかにすべきものではないといふ様な」生活上の地味で「つまらぬ仕事」を、日々、さんざんこなしてきている彼女ならではの感慨であり、改めて年齢を重ねたうえでの想いなのにちがいない。このあと、「何も御奉公」を国家や社会へと短絡的に結びつけ敷衍化するところは、帝大新人会Click!の出身である社会運動家Click!の妻らしくないのだけれど、当然、1937年(昭和12)現在の夫の微妙な立場や、特高Click!による検閲の眼に対し、妻として少なからず配慮したものだろう。
 この文章の中で、宮崎燁子もまた江戸の中心に築かれた城のことを「千代田(城)」Click!と呼称していることに留意したい。以前にも記事に書いたけれど、繰り返しになるが(城)下町Click!(市街地)に住む江戸東京人にとって、街のまん中にある城は昔から「千代田城」であって「江戸城」ではない。「江戸城」は、江戸の外周域(郊外)、あるいは江戸東京地方を離れたよその地方(藩)からの呼び名だ。少なくとも代々、江戸東京に住んでいる方、あるいは千代田城の旧・城下町に住んでいる方は、そろそろ日本最大の天守再建も視野に入ってきたことだし、「江戸城」などというよそよそしい呼称ではなく、親しみをこめて「千代田城」と呼んでほしいものだ。
 
 ちなみに、わたしはこのブログで、太田道灌が三方を海に囲まれた岬へ築城した館を「江戸城」Click!、徳川家康が築城したものを「千代田城」と使い分けている。また、江戸(エト゜=岬・鼻)も千代田(チェオタ=海辺の食事処)も、明治政府が命名した東京(トンキン)Click!などという、ベトナムでは独立闘争の過程でとうに揚棄された中国の植民地風な街名などとは異なり、柴崎古墳Click!が造営される以前からつづいていると思われる、古代からの「日本語」地名へのちに漢字の“音”が当てはめられたものだと考えている。

◆写真上:売地になって夏草が生い繁る、下落合753番地の九条武子邸跡。
◆写真中上:上左は、整地直後の九条武子邸跡。上右は、旧・高田町にあった武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の上屋敷駅跡。下左は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる九条武子邸。下右は、1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」にみる宮崎邸。
◆写真中下:上は、戦災を受けていない宮崎龍介・燁子邸。下左は、東京大学法学部「明治新聞雑誌文庫」Click!に保存された宮武外骨Click!の写真集『美人』に収録の九条武子ブロマイド。「武子」とサインが見えるが、おそらく外骨自身の書きこみだろう。ちなみに、宮崎白蓮はアルバムに見あたらなかった。下右は、宮崎燁子(白蓮)。
◆写真下:左は、1937年(昭和12)に発行された宮崎燁子「何も御奉公といふことば」掲載の『雑記帳』11月号。右は、九条武子(左)と宮崎燁子(右)。