太陽の光が淡くなり、そろそろ残暑も終わりかけの時候だが、今年はもうひとつ怪談を……。大正時代の、おそらく前期ごろと思われるエピソードに、本郷の西片町から落合村へとやってきた生霊(いきりょう)の話が、当時の『主婦之友』に掲載されている。エピソードを語っているのは、葉山緑子という女性で、次兄が「修行」のために落合村の借家へ引っ越してきたので、彼の身のまわりの世話をするためなのだろう、いっしょにくっついて転居してきたらしい。
 西片町は、以前にもこちらでご紹介Click!したように、福山藩主の阿部家が明治期に開発した住宅街で、元家臣の方々が多く住む独特な街並みを形成している。葉山家も、おそらく江戸期から福山藩に関係した武家の家系ではないかと思われ、西片の本宅に加え郊外別荘地Click!だった落合へ別宅を借りられるほど、内証は豊かだったようだ。その落合の家へ、彼女は結核になってしまった長兄の妻、嫂(あによめ=義姉)のひとり娘をあずかり、次兄とともに3人で暮らしていた。
 当初は、義姉自身に転地療養を勧めたのだが、「家で皆の傍に居る方が宣いと申して聞き入れ」ないので、ひとり娘の5歳になる千枝子への感染を怖れた家族が、叔父叔母にあたる次兄と葉山緑子が住む落合へ、娘だけ転居させたという経緯だ。長い記事なので、1924年(大正13)に帝国教育研究会から出版された『精神科学/人間奇話全集』より、落合での様子から引用してみよう。
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 当時私は、修行中の次兄と二人で府下落合村に家を借りて住つてをりましたので、周囲は極閑静で、殊に相当の方ばかりのお住居でしたので悪るい遊や下品の言葉などを覚えることもなく、素直におつとりと育つて行きますので私も兄も自分の子のやうに愛して居りました。初は毎月三度宛父母に逢ひに連れて行きましたが、嫂の病気の進むにつれて、伝染されては申訳がないと存じまして、一月に一度しか連れて行かぬやうになりましたが、しまひには子供も私どもに馴れて『(ママ)西片町のお家は白い小母様が(看護婦の事)居るから嫌と迄申すやうになりました。亡くなります二週間程前から、嫂は脳を犯されまして二三日は家人の顔さへ見別けがなくなつた程でしたので、一週間ばかり子供を連れて行つて看護して帰りました。
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 ここで、「相当の方ばかりのお住居(すまい)」と書いているのは、落合村の東部に建ち並んだ華族屋敷群のことを指していると思われ、葉山緑子たちの家は目白駅か高田馬場駅からそれほど離れていない、旧・下落合(中落合・中井含む)の東部にあったらしいことがわかる。また、次兄が「修行中」と書かれているので、近くの寺社あるいは宗教施設に通って、なんらかの修学ないしは鍛錬をしていたと思われる。ちなみに、下落合の藤稲荷社Click!には修行用として垢離場の滝が設置されていたが、1916年(大正5)現在では水が流れていない。落合村鎮守である氷川明神社Click!、あるいは薬王院Click!でなんらかの修行をしていたものだろうか?
 
 
 このあと、数日して義姉の容体が回復し、意識も明瞭になったので落合の3人は再び看護に出かけている。義姉が死ぬ前日には、「もうだめと思つて居たけど何だか又癒りさうな気がして来てよ こんなに清々とした気持ちになつたことなぞ、今迄になかつたわ」と緑子たちに語っている。この日、夕方になって娘の千枝子とともに落合へもどった3人だが、娘を寝かしつけたあと、緑子と次兄とはなかなか寝つかれなかった。ふたりは、夜中の0時近くまで机に向かって読書をしていたが、寝床に入ってからも眠ることができず、緑子は蒲団の上に座って雑誌を読み、次兄も自室の床の中で読書をつづけていた。時計の針が午前2時を指そうとするとき、突然、娘の千枝子が叫びだしたのだ。つづけて引用してみよう。
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 恰度(ちょうど)午前二時に少し前の頃でした。私と同じ部屋にスヤスヤと眠つてをりました子供が突然『叔母様ママが来たでしよ、ママは何処叔母様!』とキヨロキヨロして居るのです。夜中でママも来る筈のないことをどんなに聞かせましても、『さつきママが来てよ。千枝子千枝子つて呼んだの。ママ、ママ』と大声で泣き叫んでやみませんので、隣室の兄も入つて来て色々となだめましたが『ママちやん。ママちやん。』と叫んでは、ひた泣きに泣くのです。
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 このあと、緑子と次兄とは不吉な予感にかられたのだが、なんとか千枝子を泣きやませると、今度は「西片町のお家へ帰る」といい張ってきかなくなった。なだめようとしたのだが、そのとき電報がとどき「キトク、チエコドウドウタノム」と実家から知らせてきた。3人は千枝子を毛布にくるみ、落合の「貸自動車」(いまだ円タクとは呼ばれなかった時代)を頼んで、未明の本郷へ駆けつけた。
 

 ところが、義姉はすがすがしい顔をして3人を迎え、娘が「ママちやん」といって母親にすがりつくと、「また来て呉れたの? 先刻会つた許(ばか)りで。」と妙なことを口にした。緑子と次兄とは、不可解な顔をしてお互いに顔を見合わせたようだ。その日、1日じゅう近親者に見守られながら、夜の11時20分に義姉はついに力つきた。
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 後で看護の人々の話によりますと、逝きました前夜は午前一時頃から容態が少し変になつて来て、夢中で譫言(うわごと)など申す様になりましたので、在京の親戚たちへ通知を出さうと相談してゐますとき、フト夢からでも覚めたやうに眼を開いた嫂は、枕辺にゐた兄を見て『千枝子が大きくなつて』と独言のやうに申すので『千枝子に逢ひたいの』と兄が訊ねましたら『今落合のお家へ行つて会つて来たばかのなの』とはつきり申すので、又脳症を起したのだらうと思つて居たのださうです。それで其夜千枝子が『ママ』と叫んで起きた話をしたら、気の強い人だつたから口にこそ出しては云はなかつたが心の中では如何に子供を恋しく思つてゐたらうと、皆々涙を流したのでございます。思ひ出すと今でも涙ぐまれてなりません。
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 ……と、記事は終わっている。体験者が5歳の幼い子どもなので、妙なトリックやウソが入りこむ余地はなさそうだ。また、周囲が口裏を合わせ、そろってウソをついているとも思えない。ただ、次兄が「修行中」というのが多少ひっかかるのだが、特に宗教じみた記述もなければ、体験談にそのような教条主義的な雰囲気も感じられない。ただ、淡々と事実を語っているように思えるのだ。

 
 おそらく、井上円了Click!あたりにいわせれば、ふたりは同じ夢を偶然にも同時に見たのだということになりそうだ。でも、同じ夢をお互いが同時に見ることは、確率論的にみても非常に低いと思われるので、その部分は不可解で説明のつかない「真怪」に分類される現象なのかもしれない。井上円了の分類でいくと、やたら「真怪」の部分がふくらんでいきそうな気がするのだが……。

◆写真上:垢離場の滝があったかもしれない、藤稲荷社の裏手にあるバッケClick!(崖地)。
◆写真中上:上は、藤稲荷の裏手に拡がる御留山Click!の森。下左は、富士稲荷とも呼ばれることがある藤稲荷社。下右は、鎌倉期に創建の瑠璃山薬王院。
◆写真中下:上は、おっかながり屋はニャンでも怖い1847年(弘化4)制作の芳藤『五拾三次之内 猫之怪』(左)と、1855年(安政2)制作の国芳『道外膝栗毛 木下川の返り』(右)。下は、1854年(嘉永7)に制作された三代豊国『道中膝栗毛の内二川宿旅店』。
◆写真下:生霊といえば、五郎の枕辺に現れる十郎の生霊が有名で、曾我兄弟の仇討芝居『矢の根』あるいは『夜討曾我狩場曙(ようちそが・かりばのあけぼの)』だ。上は、『夜討曾我狩場曙』で3代目・市川左団次の十郎(左)と2代目・尾上松緑の五郎(右)。下は、やはりニャンでもタヌキでもおっかながる、1886年(明治19)制作の三代国輝『本所七不思議之内 無燈蕎麦』(左)と同『本所七不思議之内 狸囃子』(右)。