片岡鉄兵Click!の大正末から昭和初期に書かれた作品には、ときどき東京郊外の風景が描写されている。昭和期に入ってからの郊外風景は、落合地域をモデルにしている可能性が高い。たとえば、1928年(昭和3)の夏に朝日新聞へ連載され、翌年に入江たか子Click!主演で映画化されて大ヒットした『生ける人形』にも、何ヶ所かの郊外風景が登場する。1929年(昭和4)に平凡社から出版された、『新進傑作小説全集5巻/片岡鉄兵集』から引用してみよう。
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 然し、いくら怒つて見ても、腹の底からさびしくなつて、どうにもならなかつた。彼はひとりおでん屋に入つて酒を飲んだりしたが、酔がまはらない。では――矢張り梨枝子の所へ帰るより他に仕方がない。計画は、一まづ家に落ちついてから、だ。/さぞ怒つてるだらうと思ひながら、夜おそく、郊外の家の戸をかるく遠慮ぶかくたゝいた。/「もし、もし……」/「どなた?」と、家の中から、梨枝子の鋭い声がした。/「僕」/「僕では分りません」/「瀬木だ!」/弱味を見せてはならないから、思ひ切つて怒鳴つた。
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 片岡が落合地域へとやってくる以前、たとえば1923年(大正12)の『口笛吹いて』にも、東京近郊の風景が登場している。同全集から『口笛吹いて』を引用しよう。
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 郊外の家である。一坪半ばかりの庭――庭と名ばかりの空地がある。/手水鉢のわきの、縁側に腰掛けながら、三木は日向ぼつこして居た。お時さんはと言ふと、彼女は、板塀のきはの大きな庭石の上に腰を据ゑて、編物をして居る。/さうした狭い庭の、さうした位置で、おそい春の日光をたのしんで居る二人である。二人の間は六尺と離れて居なかつた。だが、手水鉢をおほふ南天と椿の木の繁みにさへぎられて、お互ひの姿は、お互ひから隠れて見えなかつた。(以下略)
 肉付の好い、白い顔に、真紅なへらへらとした唇のついた女、一口に言へば、まんじゆしやげの花のやうな感じの女で、お時さんの美しさが、此の郊外の家の学生ばかりの朝夕を、どんなに美しく賑かにしたか。それに春の、新学期のはじめでもあつたので、彼らはめつたに学校にも出なかつた。(中略) お時さんが来て間もない或る日のこと、見田と三木とは、岡田とお時さんとを家に残して、銭湯に行つた。二人は湯に浸つても落ち着かなかつた。そして、言ひ合せたやうに、あわてゝ風呂から上つて、走るやうな足どりで家に帰つて来た。
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 この「学生下宿」の情景は、牛込区神楽町(現・新宿区神楽坂)あたりの風情のように思える。当時の感覚でいえば、牛込区神楽町あたりも繁華な東京市街地からは「郊外」のように見えていただろう。神楽坂が花街として賑わいだすのは、関東大震災Click!以降のことだ。片岡鉄兵が神楽町2丁目のアパート「神楽館」を引き払い、落合町葛ヶ谷15番地へ引っ越してくるのは、1926~1927年(大正15~昭和2)ごろだ。この地番は、道路を1本隔てた南側には目白文化村Click!の第二文化村が拡がっている敷地で、彼の家から北へは目白通りへと抜ける、傾斜のゆるいなだらかな右曲がり、すなわち東曲がりの上り坂が通っていた。
 もし、片岡鉄兵が1926年(大正15)の秋ごろに引っ越しているとすれば、彼は家の前にイーゼルを据え、目白通りへと向かうダラダラ坂を熱心に描く、汚らしい身なりの画家を目にしていただろう。『下落合風景』シリーズの「道」Click!と、「富永醫院」Click!の立体看板のある三間道路を描いていた佐伯祐三Click!だ。特に佐伯の「道」は、片岡鉄兵が住んでいた葛ヶ谷15番地の家の真ん前が描画ポイントになる。また、「富永醫院」と書かれた立体看板のある画面には、このとき片岡宅だった、あるいはあと少しで片岡宅となる生垣と敷地が描きこまれている。片岡は、この家に1930年(昭和5)ごろまで住んでいた。
 次に、落合地域で確認できる片岡鉄兵の住居は、第二文化村の中にあたる下落合4丁目1712番地(現・中落合4丁目)だ。1923年(大正12)に第二文化村が販売された当初から、1938年(昭和13)の「火保図」まで、同地番には片岡邸を確認することができる。ただし、第二文化村の宮本恒平アトリエClick!の西隣りに住んでいたのは、日本毛織株式会社(現・ニッケ)の元・日毛印南工場長(兵庫県加古川市)だった片岡元彌だ。片岡元彌は、関東大震災をきっかけに業績がふるわなくなった東京の工場を建て直すため、ちょうど第二文化村が売り出された直後に兵庫県から東京へと赴任していた。片岡元彌の出身地を勘案すれば、片岡鉄兵と彼とはなんらかの姻戚関係ではないかと思われる。
 

 
 そして、第二文化村の片岡邸を南に走る三間道路の、少し北寄りにイーゼルをすえて西洋館が立ち並ぶ文化村とは反対側の、ふつうの日本家屋を描いていたのが、またしても「文化村前通り」Click!を制作した佐伯祐三だ。さらに、片岡邸から南西に30mほど歩き、益満邸のテニスコートの見える位置が、隣家の青柳辰代Click!にプレゼントした50号「テニス」Click!の描画ポイントでもある。第二文化村の同地番に、片岡鉄兵は1934年(昭和9)ごろまで住んでいた。おそらく、片岡元彌邸の1室に寄宿していたのではないかと思われる。特高Click!に検挙され、何度か拷問のすえに「転向」したあと、おそらく片岡元彌が身元引き受け人になって釈放されたのではなかろうか。
 つづいて、片岡鉄兵の住まいを確認できるのは、下落合を離れた西落合(旧・葛ヶ谷)エリアだ。1935年(昭和10)ごろには、西落合1丁目115番地に住んでいる。この住所は新青梅街道をはさんだ北側、少し前にご紹介した妙見山Click!の南東側山麓にあたる界隈だ。片岡宅は、北へと切れ込んだ谷戸の渓谷沿いにあり、谷底を流れていた落合分水Click!のすぐ近くだ。片岡は、いわゆる大衆小説に分類される作品の数々を、第二文化村の片岡邸と西落合のこの家で執筆していたものだろう。
 片岡鉄兵は、以前にも書いたけれど、いかにも「プロレタリア文学」というような、思想性むき出しの作品をあまり書いてはいない。ときに、特高に追われながら「コント」と題する小編の数々も執筆している。警官たちに追われ、菓子工場の天井裏にようやく隠れた活動家が、急にオシッコに行きたくなり、子ども向けの菓子の生産ライン上でもらすわけにもいかずオロオロする話とか、家賃不払いで下宿の親父から追いかけられている労働者が、バーの色鮮やかな美味いカクテルを飲みすぎてオエ~ッとなり、店内の床を七色に染めるオバカ話とか、思わずニヤニヤしてしまうシュールでおかしな短編も数多い。

 
 当時の「プロレタリア文学」界から見れば、いつまでも「新感覚派」的な表現を引きずり、その作品には「プチブル意識」が抜けない、表現や思想性の限界を抱えたままの片岡鉄兵……というような論評が多かったのではないかと想像するのだが(事実、「風の中を漂う羽だ」などと揶揄されている)、今日の眼から見れば、直接的で思想臭くてつまらないプロレタリア文学があふれる中で、小説として少しは「まとも」に面白い作品を生みだしている片岡鉄兵は、むしろ新鮮な存在に思えてしまうのだ。

◆写真上:旧・下落合4丁目1712番地に建っていた、片岡元彌邸跡の現状。
◆写真中上:上左は、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる葛ヶ谷15番地。上右は、同住所の現状。下は、1926年(大正15)ごろ制作の佐伯祐三『下落合風景』で「道」(左)と「富永醫院」(右)。いずれも、葛ヶ谷15番地の片岡宅前にイーゼルを据えている。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)撮影の葛ヶ谷15番地(左)と下落合4丁目1712番地(右)界隈の空中写真。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同地番。下左は、1941年(昭和16)作成の「淀橋区詳細図」にみる西落合1丁目115番地あたり。下右は、同地番の現状。
◆写真下:上は、第二文化村の宮本邸と片岡邸の敷地境界に残る当時の大谷石塀。下左は、1938年(昭和13)出版の片岡鉄兵『風の女王』(新潮社)。下右は、1943年(昭和18)の死去前年に「週刊毎日」に連載していた片岡鉄兵『清流』で、同誌4月25日号の最終回。