少し前の記事で、佐伯祐三Click!の左1番の前歯が欠損していることについて記事Click!にした。この前歯の欠損は、北野中学の野球部時代Click!に起きている可能性がきわめて高いことがわかる。おそらく、佐伯の前歯左1番は中学時代に練習で痛め、金歯が入れられていた箇所と同一だと思われるのだ。
 そう証言しているのは、中学時代の1年後輩である永見七郎という方で、同じ野球部に所属しており、佐伯が練習する様子を間近で観察していた人物だ。永見によれば、佐伯は走塁のとき、しばしば足からではなく頭からベースにスライディングするため、歯にダメージを受けていた様子が伝えられている。1946年(昭和21)の『座右寶』9月号に掲載された、永見七郎「中学時代の佐伯祐三」から引用してみよう。
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 守備もよく、眼が鋭く、判断が正確なのでスタートが早く、大抵の難球は凡球にして楽につかんだ。無口で、黙々とプレーしたが、時々、思ひ出したやうに金歯を見せてニヤリと笑つた。人のいゝ微笑だつた。/しかし、彼はその頃から内に火をもつてゐた。塁に出ると、痛快な盗塁を敢行した。彼は手からすべり込む癖があつて、一二度歯をいためたが、それでも止めなかつた。先輩が心配して/『危いから足からすべれ。』/と言つても/『手の方がやり易い。』/と言つてきかなかつた。
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 笑うと金歯が見えた位置と、のちに東京美術学校時代に欠損していた前歯の位置とは、おそらく同一の箇所だろう。前歯を傷めたのは、ベースへ頭から突っこむことで、守備の選手のスパイクかなにかが当たったのではないか。
 東京美術学校へ入学後、笑うとのぞく佐伯の金歯についての記述は見かけない。おそらく、中学を卒業したあと、東京の川端学校時代か美校に入学したてのころ、金で補強した前歯左1番が抜けてしまったと思われるのだ。佐伯はその後、前歯を治療することなく欠損したまま、1928年(昭和3)8月16日に死去していると思われる。
 1957年(昭和32)2月に発行された『みづゑ』619号Click!は、全編にわたり「特集・佐伯祐三」の図版および記事で構成されている。数多くの作品画面とともに、岡本謙次郎や佐伯米子Click!、小島善太郎Click!、山尾薫明Click!などが佐伯の想い出や作品について寄稿している。また、アトリエに残る佐伯自筆のおもに『下落合風景』シリーズClick!に関する「制作メモ」Click!が初めて公開されたも、同誌上においてだった。

 
 さて、『みづゑ』619号が発行されたとき、美術評論家の富山秀男は佐伯の文献や年譜の整理を、改めて詳しく行なっているとみられる。おそらく、佐伯の直接の肉親や友人たち、関連する施設や資料などを新たに取材し、できるだけ裏づけをとりながら、佐伯の生涯を改めてたどりなおしているのだろう。富山が作成した年譜は、のちに1980年代以降に朝日晃がまとめた年譜とは、いまだ結婚前後の年代に丸1年前後のズレが生じているのだが、当時としては正確にまとめられた年譜として通用したのではないか。佐伯祐三よりも自身が年下であるといい張るせいでw、年代を1~2年ずらして証言している佐伯米子が存命中であり、また間違いだらけの佐伯祐正Click!の証言が、いまだ流布されていた時代にもかかわらず、富山はかなり絞りこんだ書き方をしているからだ。
 富山秀男がまとめた年譜によれば、下落合661番地の佐伯アトリエ竣工は、1922年(大正11)7月と規定されている。これは、同号にも原稿を寄せている米子夫人に改めて取材し、竣工の「月」を規定したものか、あるいは周囲の友人たちに確認してまわったものかは不明だが、「7月」というタイムスタンプは非常にリアルな時期だ。実は、アトリエが完成したのは前年の1921年(大正10)7月だったのではないだろうか。
 1920年(大正9)秋に父親・佐伯祐哲を喪った佐伯が、その少なからぬ遺産を手に同年暮れになって山田新一へあてたハガキClick!の内容とも、また、翌1921年(大正10)4月にアトリエのカラーリングについて、曾宮一念Click!のアトリエを訪ねてきた佐伯夫妻のエピソードとも、さらに同年の暮れに大工が竣工祝いとして、中元ではなく歳暮にカンナClick!をとどけにきたという山田新一の証言とも、矛盾することなくピタリと一致する。富山秀男は年譜を作成するうえで、いまだ1年のズレ(米子夫人による恣意的なサバ読み)は否定していないものの、なんらかの確証を得て「7月」と規定している公算がきわめて高い。
 ちなみに、同号の佐伯米子の原稿「佐伯祐三のこと」でも、彼女は“1922年(大正11)”を強調しつつ、築地本願寺で結婚式を挙げたあと、つづいて下落合に「小さいアトリエ」を建てたと書いている。つまり、建設年や結婚時期の問題はともかく、同年(実は前年の1921年)のうちに、アトリエが完成したことを示唆している。もし、7月にアトリエが完成しているとすれば、1920年(大正9)の暮れに山田新一へハガキを出した直後、1921年(大正10)の早い時期から着工していたはずであり、ふたりはすでに下落合の借家Click!でいっしょに暮らし、ときどき工事の進捗を確認しながら、4月にそろって曾宮アトリエClick!のカラーリングを、建築中であるアトリエの参考にと室内まで見学している経緯とも矛盾しない。
 
 
 これら一連のエピソードが、米子夫人の語る“1922年(大正11)”ではなく、前年の1921年(大正10)の出来事だったことが判明するのは、さまざまな研究者のフィールドワークや、資料類による“ウラ取り”が厳密化してからのことだ。ただし、曾宮一念は自身のアトリエが佐伯アトリエと同じ年に完成しているため、当初から「大正10年」の誤りだと規定しているし、また、山田新一も手もとに残された佐伯の書簡類から、佐伯アトリエの竣工は1921年(大正10)のうちだと早くから気づいていたにちがいない。年譜の「年」の誤記が修正されはじめるのは、1972年(昭和47)に米子夫人が死去したのち、だいぶたってからのことだ。
 さて、1980年(昭和55)にNHK特集で放送された、中島丈博Click!・脚本『襤褸と宝石』Click!は、実際の佐伯邸母屋やアトリエ内でロケーションが行なわれているため、映像資料としてもたいへん貴重なものだが、同ドラマで米子夫人を演じた三田佳子が着ているのは、すべて米子夫人が実際に着用していた着物らしい。柄は縞柄のものが目立ち、色のコントラストが比較的はっきりした模様が多かったように記憶しているので、落合地域でつくられた江戸小紋や江戸友禅染めClick!のような、しぶい作品ではなさそうだ。米子夫人は、はたしてどこの着物を好んだものだろうか? このテーマはちょっと面白いので、また機会があれば書いてみたい。
 そんな着物のひとつを着ていたのだろう、佐伯の死後、そろそろ画家として生きようと考えはじめていたと思われる佐伯米子Click!は、1929年(昭和4)1月15日から30日まで、1930年協会の里見勝蔵Click!や川口軌外Click!とともに、病床の前田寛治Click!を見舞っている。ちなみに、同年の1930年協会第4回展では、米子夫人による「もうこれでおしまひでございます」の案内状Click!で知られる、佐伯の遺作展が開催されていた。
 前田寛治は、死去する前年1929年(昭和4)8月10日までノートに日記をつけているが、同年7月14日の日記を外山卯三郎『前田寛治研究』(建設社)Click!から引用してみよう。
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 七月十四日 晴、暑
 大きな部屋に移つて絵を眺める。午後とうとう中央の直線的の波を遠方にやり、白浪を少くす。効果大いによし。/病気は入院中で最もよし。然しトラバイユは大いにつゝしんで過さぬやうにやらう。/真白き夜の薔薇、散らんとする極みまで/愛と智慧とをわが心に結ぶ、あはれこの花/夜、里見、米子さん、川口君、……話、やゝ疲労。
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 前田寛治と佐伯祐三をめぐる物語は、滞仏時代を除いてあまり記録されていないが、ふたりがともに相次いで夭折したからだろう。ふたりの間で交わされた会話は、今日的な視点からすれば美術論的にも美術史的にも、きわめて重要な意味をもってくると思われるのだが……。一時期、1926年(大正15)の秋から冬にかけ、つまり連作『下落合風景』の「制作メモ」と重なる時期に、前田は佐伯アトリエに寄宿していた時期があったようなので、傍らにいた米子夫人はふたりの議論ややり取りを聞いていたはずだ。しかし、彼女はその様子について、ほとんど証言を残してはいない。近くに住む曾宮一念が、かろうじて中村彝Click!が描いた『エロシェンコ氏の像』Click!の写真を見せながら、佐伯祐三へ語りかける前田寛治の姿をとらえている。

◆写真上:佐伯祐三アトリエ(解体前)を南側から。
◆写真中上:上・下左は、歯を傷めない安全な走塁。w 1916年(大正5)の第2回中等学校野球大会全国大会の写真で、慶應義塾普通部vs豊橋中学校の決勝戦。この年の大阪地区予選に、佐伯は北野中学野球部の主将Click!として2回戦まで進み、宿命のライバルだった市岡中学に1対6で敗れている。下左は、めずらしい笑顔の佐伯祐三。
◆写真中下:上は、母屋の解体直前に撮影された佐伯邸のアトリエ+洋間。下左は、木下勝治郎アルバムよりフランスを旅行中の佐伯米子と彌智子Click!だが、疲れてグッタリしている右の男は佐伯だろうか。下右は、同アルバムから池で遊ぶ佐伯一家。
◆写真下:左は、外山卯三郎『前田寛治研究』(建設社)掲載の前田寛治。右は、佐伯米子が病室を訪ねた1929年(昭和4)の夏に描いていた前田寛治『海』(鳥取県立博物館蔵)。同作は第10回帝展へ出品され、帝国美術院賞を受賞している。