下落合の第六天(大六天)には、月三講社Click!の富士講Click!とまったく同様に講中が存在している。おもに江戸期に発達した講だと思われるのだが、天災や病魔などの厄除け講として浸透していったのではないかと思われる。その前提には、自然神としてのカシコネやオモダルがことさら強く意識されていたのではなく、「第六天魔王波旬」すなわち仏教における「天魔」への恐怖が念頭にあったケースが多いのだろう。日本全国に第六天信仰が拡がったのは、自然神カシコネとオモダルを怖れ敬うというよりも、「天魔」を奉り鎮め、社へ封じこめるという意図のほうが強かったように思われる。
 事実、江戸期に勧請された第六天社は、病魔・疫病をもたらすといわれた湧水源や、飲料水・生活水として用いられた小流れの淵に設置されるケースが多い。また、さまざまな天変地異に起因する、災害への鎮めとして勧請されたケースもあるのだろう。明治政府が、ことさら第六天社の抹殺にこだわったのは、イザナミとイザナギ以前の神々を国民の記憶から消し去りたい、あるいは薄れさせたいという企図やねらいもあったのだろうが、神仏分離や廃仏毀釈の際に仏教と深く結びついた「天魔波旬」の面影を、すなわち仏教的な信仰心を国民から消去したかったと考えられる。
 さて、下落合あるいは長崎に残る第六天(大六天)は、いつごろこの地域へ勧請されたものだろうか? 関東地方では、もっとも有名な勧請元の第六天として、埼玉県の武蔵第六天社(さいたま市岩槻)がある。関東地方に展開する第六天社は、その多くが武蔵第六天神社(だいろくてんじんしゃ)から分社が行なわれ、各地へ社殿や祠が建立されている。疫病や天災がつづき、既存の地主神である鎮守や氏神が無力・無効だとすれば、そのつど第六天が勧請され、あるいはより大規模な社殿へとリニューアルされ、奉りなおされて信仰されたと思われる。また、疫病や天災などの種類によっては、ひょっとすると勧請元の第六天社が(その神威による効果ごとに)個々異なっていたのかもしれない。
 明治期には多くの神々が入れ替えられたが、消されてしまった元神についてまで率直に触れている、1962年(昭和37)に神社本庁調査部から出版された『神社名鑑』Click!(東邦図書出版)から、さいたま市の武蔵大六天神社の解説を引用してみよう。
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 祭神 面足命 惶根命 経津主命 例祭 七月一五日 本殿 寄棟造 一坪六 境内 二二〇坪余 (中略)氏子 六〇戸 崇敬者 七万人 由緒沿革 天明二年の創立と云う。武蔵国第六天の一つで、その昔より江戸界隈の人達や武蔵国の諸所から崇敬者が加わり毎年三月より五月の間に奉拝者で賑わう。明治初年村社に列す。
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 1782年(天明2)の、きわめて新しい創建だが、これは毎年つづいていた農作物の不作、すなわち飢饉と無縁ではないように思われる。翌1783年(天明3)には、浅間山の大噴火にともない田畑の農作物が壊滅し、ついに大飢饉の状況を迎えることになる。また、明治初年の早々に、第六天社を村社へ格上げしているのも、明治政府に対する当てつけのように思える。おそらく、明治政府の宗教政策を先読みしていた地域の人々が、先手を打って社格を村内の最高位へ上げてしまったものだろう。近畿地方の三丹地方と同じく、似たような例は明治初期の関東各地で見られる現象だ。


 下落合に残る第六天(大六天)の各社は、やはり天明年間の浅間山噴火による飢饉、あるいは同時代に流行した伝染病を鎮めるために勧請されたものだろうか? わたしには、実は文献的な根拠はまったくないのだが、もう少し古い時代に勧請された社のように思えてならない。なぜなら、落合地域は幕府直轄のいわゆる“天領”Click!であり、また代々の徳川将軍家による鷹狩り場Click!である「御留山」Click!や、「御留川」Click!として重要な神田上水Click!を抱える地域であるため、環境の異変や災害に対して名主や村民たちはかなり敏感に反応したと思われるからだ。いわば、将軍家や幕府から委任されている重要な地域であり、だからこそ神田明神Click!を勧請して奉るという、大江戸でもめずらしい総鎮守の分社化が行われる、稀有な土地柄であったとも考えられる。
 いまから300年以上も前、第六天社がもっとも“活躍”したと思われる時代に、元禄から宝永にかけてのカタストロフがある。1703年(元禄16)の11月23日、南関東一帯を元禄大地震が襲った。推定マグニチュードは8.2で、おもに関東沿岸の津波による死者は5,000人にものぼった。つづいて、4年後の1707年(宝永4)10月4日には、推定マグニチュード8.4の宝永大地震が発生し、関東地方を中心に2万人の死者が出ている。そして、とどめは同年11月23日に富士山が火を噴いた、宝永大噴火を迎えることになる。つまり、江戸期の元禄から宝永にかけては、天変地異つづきの時代だった。
 下落合あるいは長崎の第六天(大六天)は、はたして天明年間よりもはるかに早い、元禄から宝永年間に勧請されたものではないだろうか? なぜ、江戸時代のこの時期にこだわるのかといえば、富士山麓の御留山Click!である「御殿場」に展開する第六天の配置(気配)と、下落合・長崎地域における第六天の配置(気配)が、実によく似ているからだ。もちろん、御殿場に建立されている第六天は、富士山の宝永大噴火よりも古い時代からのものも存在するのだが、その古社自体も噴火という巨大な自然災害=天魔大王への結界として設けられたものではなかったか。
 文献が存在しないので、あくまでもわたしの“気配”にもとづく記述のみで恐縮なのだが、落合地域から常に西南西に見えている富士山の山麓が爆発して火を噴いたら、当時は驚天動地の事態だったにちがいない。ちなみに、富士の宝永噴火で江戸に降り積もった火山灰は、場所によってバラつきがあるようだが、数センチとも10cm近くともいわれており、田畑への被害も決して少なくはなかっただろう。
 
 以前にも少し書いたけれど、わたしはキャンプや化石採集をするために、子どものころ箱根・金時山の北側に拡がる山北町へはよく遊びに出かけた。その際、静岡側まで足をのばして、御殿場にも何度か立ち寄っている。山北町にも、もちろん第六天社は存在するのだが、富士山麓に拡がる御殿場地域は、古くは鎌倉幕府の将軍の狩り場であり、江戸時代には徳川家康がおそらく巻狩りを想定して、地元の芹澤氏に御殿の建設を命じたのだろう、いわゆる御留山(場)としての“御殿場”だった。そこには、徳川御殿や御殿場の本村を災害から守るように、第六天が底辺の長い西を向いた二等辺三角形のかたちで展開している。下落合・長崎に配置された第六天(大六天)もまた、同じように底辺の長い二等辺三角形のかたちをして、西を向いているのだ。
 御殿場のいちばん北側、富士山麓の須走下にある芝怒田(しばんた)の第六天は、江戸期以前から建立されているようでかなり歴史も古そうだが、いずれも富士山噴火の鎮めとして設置されたように見える。ただし、御殿場の巨大な第六天三角形は正確に富士山へは向いておらず、西を向いているもののやや南寄りへ口を開けた結界として、機能しているように見える。下落合・長崎地域にある相似形の第六天三角形もまた、西の方角を向いてはいるものの、特に富士山の方角を指してはいない。真西に対して、やや北寄りの方角へ口を開けたほぼ二等辺三角形を形成している。いずれにしても、なぜ“西”の方角へ向けて次々と結界を張る必要があったのか、いまひとつ明確に説明することができない。ひとつ落合地域で気づくことといえば、その方角の中心には葛ヶ谷(現・西落合)の妙見山Click!が設定されている……ということだろうか。
 もし、下落合や長崎の第六天(大六天)が、江戸期以前のより古い時代に勧請され奉られていたとするならば、江戸時代の天変地異や疫病の流行、すなわち仏教によって広められた「第六天魔王波旬」のふるまいを鎮め、封じこめるために建立されたものではなく、もっとなにか別の理由から、ことさら古代神話で語られてきた天神7柱のうち、第六天神であるカシコネとオモダルの夫婦神が選ばれて奉られた理由を探さなければならない。

 
 もうひとつ、下落合の大六天講の講中(メンバー)と、落合・長崎地域の富士講である月三講社Click!の講中とは、少なからず重複していたのではないだろうか。彼らは富士講による富士登山のあと、山麓にある御殿場の第六天社のいずれかへ、あえて参詣しているのではないか。換言すると、もし落合・長崎地域の第六天(大六天)社が、天明期以降の新しい時代に建立されているとすれば、御殿場に展開する第六天社の配置を、すでに彼らは知悉しており、落合・長崎地域へ災いが御留山(場)まで及ばぬよう、その結界配置(気配)を写して(移して)いるのではないだろうか?……、そんな気もどこかでしている。

◆写真上:旧・下落合3丁目の、六天坂下に現存する第六天社の祠。
◆写真中上:上は、個人邸の一画に奉られる六天坂の第六天社だが、本来はもう少し坂上の位置に境内があったようだ。下は、同社の拝殿=本殿で鳥居は省略されている。シャッターを切ったら、なぜか殿前の部分に青白い光が写ってしまった。
◆写真中下:左は、1925年(大正14)に作成された「出前地図」Click!にみる諏訪谷の大六天社。右は、1854年(嘉永7)作成の「御府内場末往還其外遠隔図書」に描かれた長崎の第六天社。(同図書をベースとしたエーピーピーカンパニー「江戸東京重ね地図」より)
◆写真下:上は、手水舎上にひるがえる大六天講の手ぬぐい。下左は、富士山麓の御殿場に展開する第六天社。下右は、落合・長崎地域に展開する第六天(大六天)社。