以前、相馬邸Click!がなぜ下落合という立地を選び、赤坂氷川明神Click!前(元・中屋敷)から転居してきているのかを、おもに巫術あるいは望気術的な側面から連載形式で記事Click!にしたことがある。そこには、さまざまな“レイライン”や結界と思われる、出雲神をベースとした多彩な社(やしろ)の連なりや、幾何学的な図形が浮びあがってきた。
 その記事を書いてから4年が経過した現在、新たなことが次々と判明しているので、相馬邸の下落合移転についてもう一度まとめ、改めて整理してみたい。なぜ、相馬家Click!は広い江戸東京の中から新たな屋敷の移転先として、あえて下落合を選択しているのか? それが、「閑静な南斜面で、陽あたりもよく暮らしやすそうだから」……というような、今日的な不動産選びではないことは、すでに記したとおりだ。
 鎌倉期のはるか以前から、関東に根を張っていた同家(わたしは鎌倉幕府Click!の基盤を支えた、古墳期からの南武蔵勢力の末裔だと想定している)が、そのような卑近で近代合理主義的な志向から、一族が根をおろす土地を選定するとは思えない。そこには、同家の北斗七星信仰Click!(妙見信仰Click!)とともに、落合地域を選ぶ必然的な理由が存在していたと考える。その選定理由と思われる事蹟が、この4年間でいくつか判明している。
 まず第一に、下落合には神田明神の分社Click!が建立されていたということだ。神田明神社は、もともと江戸(エト゜Click!)岬の付け根にあった柴崎村(現・大手町)の、柴崎古墳Click!(将門首塚Click!)の上に設置されていたものが、のちに神田山山頂へと遷座し、さらに神田山(現・駿河台)の土砂採取による掘削によって山の北麓、現在の湯島聖堂の北側へと再遷座している。主柱は、当初は出雲神のオオクニヌシ1柱だったと思われるが、平安期以降は平将門も奉られ江戸期までは2柱の社となっていた。
 北関東(現・群馬県太田市世良田)出自の世良田氏(のちの松平氏・徳川氏)が、同社を氏神として信仰したのは、世良田氏と鎌倉幕府の執権・北条氏が対立した鎌倉末期のことであり、徳川家康の5代前である世良田親氏(ちかうじ)Click!の時代からだ。世良田親氏は北条一族との争いに敗れて出家し、徳阿弥と名のって同社へ参詣した折、還俗して武家にもどれという神託と、徳阿弥の1字をとって「徳川」の姓を授けられている。したがって、徳川家が関東へともどり幕府が神田明神を江戸総鎮守としたこと、さらに徳川将軍家が途中から世良田姓を復活させて名のることは、世良田親氏=徳阿弥が神田明神の氏子になった、鎌倉末期からの“お約束”であり必然でもあった。
 ちなみに、鎌倉幕府は古墳時代からの地元勢力である、南武蔵勢力(海岸線や河口に近いエリアに沿った南関東勢力=現在の東京・神奈川・千葉地方)の末裔たちが基盤を形成した政治体制のように思われるが、室町幕府と江戸幕府を担った足利氏と世良田氏は、ともに古墳期では南武蔵勢力との親和性が高かったらしい、北関東の上毛野(かみつけぬ)勢力(現在の栃木・群馬地方)からの流れであり、その末裔ではないかと想定している。〇〇時代という名称で教科書的に政治体制を区切ると、まるで既存の人々が突然どこかへ姿を消して一線が引かれ、まったく新しい人々が登場してきたように感じてしまうのだが、実は歴史には脈々とした人々の流れや連携、係累があることを忘れてはならないだろう。
 
 さて、『新編武蔵風土記稿』(昌平坂学問所地誌調所・編)によれば、薬王院の境内ないしはその周辺にあったとみられる神田明神の分社だが、この存在が強烈なシンボルとして相馬家の移転に作用したのはいうまでもないだろう。少なくとも『新編武蔵風土記稿』が編纂された江戸期の文化・文政年間まで存在が確認できる神田明神だが、下落合のどこに奉られていたかを確認するために、相馬家では人を派遣して調べさせたかもしれない。しかも、神田明神の本社と下落合の分社とは、御留川(神田上水)によって水脈が通っており、あるいは出雲神の社によって気脈も通じていることを考えあわせれば、転居先の絶好地として下落合が意識されただろう。
 以下、前回は途中で村内施設のリストを省略してしまったので、今回は『新編武蔵風土記稿』巻十二・豊嶋郡之四における下落合村の記述を全文そのまま引用してみよう。
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 神田上水 村ノ南ヲ流ル幅五間余 土橋ヲ架ス長サ六間田嶋橋ト号ス 〇井草川 南ノ方ヲ流レ中程ニテ上水堀合ス幅四間余 土橋ヲ架ス比丘尼橋ト号ス長五間余
 酒井采女下屋敷 広サ一万九千三百七十坪ノ内一村(ママ)万六千八百七十坪ハ抱地ナリ
 氷川社 村ノ鎮守也 〇諏訪社二 〇大神宮 以上四社薬王院持 〇稲荷社三 一ハ藤稲荷ト云 山上ニ社アリ喬木生茂レリ近キ頃鳥居ノ傍ニ瀧ガ設テ垢離場トス薬王院持 二ハ上落合村最勝寺持 〇御霊社 祭神ハ神功皇后ナリ例祭九月ナリ是ヲビシヤ祭ト號ス 又安産ノ腹帯ヲ出ス 最勝寺持 末社稲荷 〇第六天社二 一ハ薬王院持 一ハ最勝寺持
 薬王院 新義真言宗大塚護持院末瑠璃山閑<ママ>王寺ト號ス本尊薬師行基ノ作坐像長九寸許外ニ観音ノ立像アリ長一尺餘運慶ノ作 開山ハ願行上人ナリト云其後兵火ニ逢テ荒廃セシカ延宝年中實壽ト云僧中興シ元文年中再ヒ火災ニ罹リ記録ヲ失ヒテ詳ナルコトヲ伝ヘス 神田明神社 八幡社 稲荷社 三峯社 釈迦堂 本尊は毗首羯摩ノ作立像長三尺二寸 堂中ニ愛染ノ像ヲ置此堂モトハ境外ニアリシト云 今モ除地残レリ
 鐘楼 寛政二年鋳造ノ鐘チカク 〇金蔵院 〇妙楽寺 以上二ケ寺ハ薬王院門徒ニテ慶安以後廃寺トナリ除地ハ本山ニテ預レリ
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 おそらく相馬家では、江戸期に編まれた『新編武蔵風土記稿』は参照しているだろう。さらに江戸期ばかりでなく、平安期あるいは鎌倉期における落合地域の事蹟まで綿密に調べあげているかどうかは不明だが、下落合の西側に位置する葛ヶ谷(現・西落合)には、期せずして妙見山Click!が存在していることも、もし調べあげて認知していたとするなら、同家の転居に揺るぎない大きな動機づけを与えたにちがいない。江戸東京地方(朱引・墨引内)において、相馬家にゆかりの深い神田明神の分社と妙見山がセットになって存在する地域など、おそらく落合地域をおいてほかには存在しなかったと思われるからだ。


 このふたつのシンボルを相馬家が知っていたとすれば、千葉の七天王塚Click!と神田明神を通じたライン形成や、出雲神の社と将門社(しょうもんしゃ)を拠点として結んだ、落合地域への多彩な「気」脈のラインや結界は、むしろ好適地への転居にまつわる巫術師あるいは望気術者の、“念押し”的な作業になったのではないだろうか。
 いや、あえて表現を変えるなら、なぜ徳川幕府が下落合を「御留山」Click!として立入禁止にし、神田明神の分社化を許可したのか、そして明治以降に多くの徳川家がこの地域に転居してきているのかを、あらかじめ相馬家が巫術的な側面から知っていたとするなら、そこに神田明神に加えて妙見山を見いだしたことは、改めて転居先として「ここしかない!」という意志を固めることへ、強烈に作用したのだ……ともいえるかもしれない。
 さらに、この地域の諏訪谷と六天坂でたいせつに奉られている、ふたつの第六天社(大六天社)Click!の存在も、相馬家にとっては好もしく思えたかもしれない。北斗七星を象徴する、日本古来からの七天神神話の6番目、イザナギとイザナミの前代であるオモダルとカシコネの第六天は、日本古代の七星信仰をいまに伝えるひとつのシンボルとして、相馬家には重要な「地霊」が宿る地域だと映っただろうか。
 明治の終わり近く、相馬順胤は近衛家から御留山の広大な土地を譲り受け、新邸の建設に着手した。赤坂の屋敷を解体し、運ばれた建築や部材も少なからず使われたかもしれない。多くの支柱下には、北斗七星を意識した7つの礎石を組み合わせて埋設し、屋根もまた上空から見ると北斗七星を模した配置に建設して、万全な結界を構築している。
 


 相馬家一族が、なぜ下落合の土地を望み、ことさら強く執着しているのか、その理由を近衛家(藤原家)が御留山の土地を手放す際に、もし改めて同家から聞かされていたとすれば、近衛家では少なからずこの地域がもつ意味や「地霊」に慄然としたかもしれない。
 だが、すでに近衛篤麿Click!は死去し、後継の近衛文麿Click!は京都帝大で河上肇について学び、「マルクス主義」を標榜する近代的合理主義者となっていたので、相馬家の迷信を一笑にふしただろうか。ただし、人間はメンタルな「気」のもちようによって、生き方さえ大きく左右されるのもまた確かなのだが……。こうして、相馬邸は大正の初めに竣工し、1915年(大正4)に相馬家は下落合への転居を終えている。

◆写真上:6年の拡張工事を終え再オープンClick!した「おとめ山公園」で、相馬邸の事蹟にちなみ日本庭園を模した一画の飛び石には、無事に保存された七星礎石が並ぶ。
◆写真中上:左は、江戸期の文化文政年間に編纂された『新編武蔵風土記稿』巻十二・豊嶋郡之四。右は、下落合の御留山を選んで新邸を建設した相馬順胤・碩子夫妻。
◆写真中下:上は、南東側の芝庭から眺めた相馬邸の居間。相馬彰様Click!からいただいた、1913年(大正2)作成の『相馬家邸宅写真帖』より。下は、福岡市教育委員会に保存された相馬邸黒門Click!の木鼻(きばな)と破風軒下の懸魚(げぎょ)で、同じく相馬彰様より。
◆写真下:上は、財務省官舎の解体前に相馬邸の七星礎石が保存されていた配列の一部。中・下は、残されたすべての七星礎石が保存されたようで、わたしも率直にうれしい。また、旧・相馬邸の内庭に配置されていた庭石などもそのまま保存されている。