1915年(大正4)に、竹久夢二Click!がいまの落合中学校の北にあたる下落合370番地、相馬邸Click!は黒門Click!前を通る道つづきの西側の一画に引っ越してきたのは、前年の10月から日本橋呉服町に開店していた「港屋絵草子店」Click!で、たまき元夫人と当時の愛人だった笠井彦乃とのゴタゴタ騒ぎから逃げ出すためだった。夢二の日本橋からの引っ越しと、相馬順胤Click!一家の赤坂からの引っ越しは、相前後して同年に行われている。
 当時の「港屋」では、少女向けに竹久夢二がデザインしたカードや版画、封筒、絵本、詩集、千代紙、人形、半襟などを売っており、女学生たちが連日押しかけるほどの盛況だった。笠井彦乃も、そんな女学生のひとりだった。「港屋」は、協議離婚した元妻・たまきの名義になっており、店の2階に住んでいた夢二は、たまきとの間で暴力沙汰が絶えず、そんな生活に嫌気がさしての下落合への逃避だったのだろう。当時の夢二は、「港屋」にたむろする画学生の東郷青児に色目をつかったといっては、たまきへ殴る蹴るの暴力をふるっていた。
 夢二から吉屋信子にあてた、1915年(大正4)6月13日付けの手紙に、「とにかく私にとつてかなりたいへんな事だつたのです。それになにもかにもひとりのことをひとりでせねばならないので引越しをしてやうやう忙しいけれど今はやゝ静かになれました」と書いた中身は、たまきとの間で暴力をともなう痴話ゲンカと、笠井彦乃を愛人にするための下落合への転居だった。当時の様子を、1982年(昭和57)に文藝春秋から出版された、吉武輝子『女人吉屋信子』から引用してみよう。
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 ようやく店も軌道にのりはじめたところに登場したのが、画学生笠井彦乃である。当時、夢二三十一歳、彦乃十九歳。十一歳年下のこの娘は、日本橋本銀町の紙問屋の秘蔵娘だった。父親の宗重は、(中略) 夢二との仲を知ると半狂乱となり、彦乃を家に監禁したり、短刀をつきつけておどしつけたりした。こうした父親の妨害が、かえって彦乃の情熱に油をそそぐ結果になったのだろう。夢二の年譜を見ると、大正四年六月、下落合の仮ずまいの家で、彦乃は夢二と結ばれている。
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 だが、「港屋」はたまき名義であったものの、店のマネジメントをすべて元妻ひとりに任せておくのは不安であり、また、たまきが男をつくって2階に住まわせ、売り上げを貢いだり横領したりするのも心配だったのだろう、当時はいまだ栃木県Click!に住んでいた駆けだしの投稿作家・吉屋信子Click!を、「港屋」の売り子兼監視役として、店の2階へ下宿させようとしている。
 夢二がデザインした匂いたつような和紙の便箋に、流れるような毛筆で書かれた甘やかな、まるで女性が恋人にあてたような文面で吉屋信子にとどけられた手紙は、ちょうど下落合で笠井彦乃Click!と結ばれたあたりに書かれたものだ。吉屋信子は、人なみ外れてカンが鋭い女性だから、東京で夢二に会ってすぐにその本性を見ぬいたのだろう、ほどなく彼女は夢二との交流を絶っている。
 吉屋信子は、1921年(大正10)7月から12月にかけ、東京と大阪の朝日新聞に連載された『海の極みまで』が大ヒットしたことから、一躍、文壇の注目を集める存在となった。『海の極みまで』は翌年、瀬戸英一の脚本で新派Click!の舞台にかけられ、伊井蓉峯、喜多村緑郎Click!、河合武郎の配役で、全国興行を打つまでの大ヒットを記録している。また、『海の極みまで』の挿画を担当したのは蕗谷虹児Click!であり、のちに蕗谷も下落合622番地へアトリエをかまえることになる。

 
 吉屋信子門馬千代Click!と生活をするために、新しい家を建てようと思いはじめたのは、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!直後のことだった。当時は、信子が本郷で千代が実家のある大森と離れて暮らしていたが、大震災でお互いが消息不明のまま大きな不安を抱えてすごしたことが、信子にふたりが住む家の建設を思い立たせたのだろう。震災から3日めに、門馬千代は大森から本郷へ駆けつけている。同年9月4日に書かれた、吉屋信子の日記から引用してみよう。
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 ◎日記より
 千代子さんと焼跡を見に行く。途中、兵隊に荒々しくも足止めらる。後々までもかうした状態がつづくやうなことがなければと、千代子さんと話し合ふ。前途に一抹の不安。千代子さんと別れし後、近い将来、二人のために小さき家たてんと決意する。
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 戒厳令下の街で、予感や先読みに鋭敏な吉屋信子が感じた「かうした状態」に対する危機意識は、その後、次々と現実のものになっていく。門馬千代は、大震災直後に敏感な信子が口にした言葉を、のちのちまでハッキリと記憶している。
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 千代子さん、もしもこれを機に軍隊が国を動かすようになったら、もう今までどおりの小説が書けなくなる。東京の潰滅は、ひょっとしたら小説のせかいの壊滅になるのではないかと思うと、背すじに冷めたいものが走る。(吉武輝子『女人吉屋信子』より)
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 20年余ののち、吉屋信子の予感は的中し、「小説が書けなくなる」どころではなく、無謀な戦争による膨大な犠牲者を生みつつ国家(大日本帝国)が破滅し、日本は文字どおり「亡国」の危機を迎えることになる。
 つづいて、新居建設についての記述が登場するのは、下関で教師をしていたため離れて暮らす門馬千代にあてた、1924年(大正13)10月10日付けの信子の手紙だ。
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 ◎書簡より
 今 家へいくら送つてゐるの 教へて頂戴ね 着物でもなんでも私買つてあげるからね 早く帰つて来て頂だいね/仏蘭西へも一寸の旅なら行つて来られるの 来年の秋でも さ来年の三月から夏までの間ならね 家も今 すてきにやすいから建てませう
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 このころの吉屋信子は、もはや押しも押されもしない流行作家の仲間入りをはたしていた。翌1925年(大正14)2月に投函された下関にいる門馬千代あての手紙には、家の新築計画がかなり具体化してきている様子がうかがえる。
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 ◎書簡より
 わたしは決心した 二人のために小つちやい家を建てようと 大森なら水道も瓦斯もひけるから ここの地に百坪ほどさがすことにした 今の家の近くにする 今の家の間どりはすこぶるいい こんな風に建てる 十五坪の建坪ぐらゐでね 家が出来たら私は分家し 戸籍を作つて全く独立して戸主となり千代ちやんを形式上養女の形(中略)で入籍し 二人の戸籍と家を持つことにする さうきめた
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 だが、大森には気に入った敷地がなかったものか、吉屋信子は1926年(大正15)に、画家や作家たちがそろそろ集まりはじめていた下落合のアビラ村(芸術村)Click!のまん中あたり、現在でいうなら四ノ坂Click!と五ノ坂Click!の中間にあたる下落合2108番地の敷地に、19坪で居間兼サンポーチ、応接間、書斎×2室、寝室、女中部屋の6間に加え、台所、湯殿、テラス付きのかわいい下見板張りの西洋館を建て、門馬千代とともに新居へ引っ越してくる。前掲の、吉武輝子『女人吉屋信子』から引用してみよう。
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 信子と千代が本格的に共同生活をスタートさせたのは大正十五年、信子はその年、下落合に、念願かなって小さな家を建てている。千代の表現を借りれば、開いた大きな本を背表紙を上にして立てたような可愛らしい家だった。信子は、この家を建てるために、『婦人之友』の主宰者であり、かつ自由学園の創立者でもある羽仁吉一、もと子夫妻に、最初で最後の稿料の前借りを依頼している。
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 引っ越しのあと、家へ最初に招待したのは自由学園の羽仁夫妻だった。当時の周辺環境は、目白文化村Click!のさらに西側でいまだ田畑が多く、家の東側には大きな島津源吉邸Click!や金山平三アトリエClick!、西側には古屋芳雄邸Click!などの西洋館が建てられてはいたが、西武電鉄Click!の開通前なのでそれほど家々は密集してはおらず、典型的な東京郊外の風情Click!だったろう。おそらく、1926年(大正15)5月11日に吉屋信子の家を訪問したとみられる菊池寛は、信子あての手紙の中でその様子を次のように書きとめている。
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 今度「文藝春秋」に新進作家の連作長編小説をのせるについて、色どりに貴女を一枚加へたいと思ひます。内内、御承知下さい。実は昨日、犬養氏を訪問したついでに、畠の中のあなたの家を訪ねたのですが、御不在でした。僕が行つたしるしに左の門柱の上へ胃の薬を二つ粒のせて来ました。昨夜の雨で形が無くなつたとしても重曹の味位は残つてゐるでせう。古屋芳雄の近所になんかゐるのは賛成しませんね。
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 菊池寛は、岸田劉生Click!のモデルにもなった医学者・古屋芳雄Click!のことについて触れているけれど、詩人エミール・ベルハーレン著の『レムブラント』(岩波書店/1921年)の翻訳などで知られる古屋と菊池とは、欧米小説や洋書類の翻訳・出版を通じて以前から深いつながりがあったのだろう。
 吉屋信子と門馬千代は、下落合での生活を1935年(昭和10)までつづけている。10年間も住み馴れた下落合だが、途中で同居人が増えて手ぜまとなり、同年12月25日に市谷砂土原町の鍋島家跡分譲地に、吉田五十八設計の大きな西洋館を建てて転居している。


 
 下落合の家は、1933年(昭和8)から医学生の浦田トメが、家事手伝いの書生として女中部屋で同居するようになってから手ぜまとなり、吉屋信子は近くのアパートか借家を借りて仕事場に使っていた。このアパートとは、矢田津世子Click!が一時期暮しており、多くの作家たちが集散した第三文化村の下落合1470番地に建っていた目白会館文化アパートのことか、あるいは「吉屋信子が住んでいた」という伝承が残る、オバケ坂Click!の上あたり、九条武子邸Click!の近くにあった借家ないしはアパートのことなのかは、さだかでない。

◆写真上:下落合2108番地(現・中井2丁目)にあった、吉屋信子邸跡あたりの現状。
◆写真中上:上は、下落合370番地(現・下落合2丁目)にあった竹久夢二の下落合宅で左手奥の角地あたりが370番地。下は、竹久夢二(左)と元妻・岸たまき(右)。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)に下落合2108番地へ竣工した吉屋信子邸で、菊池寛が胃薬を乗せて帰ったのは左側の門柱。中は、同邸の居間のイラストで、奥に見えているカーテンで仕切られた部屋は門馬千代の書斎。下左は、1922年(大正11)に撮影された最先端の洋装をしている吉屋信子。下右は、下落合で撮影されたとみられる吉屋信子。
◆写真下:上は、主婦之友社が門の内側から撮影した吉屋信子邸。中は、吉屋信子の書斎イラストでこの椅子に座る彼女を撮影した写真Click!も残る。下左は、五ノ坂上に残る古屋芳雄邸。下右は、第三文化村にあった目白会館文化アパートの跡。

★おまけ:下落合の晩秋サウンド
 森から聞こえてくるリコーダーの音は、女の子たちが吹くジブリアニメの曲かな。
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