1933年(昭和8)2月に発行された、学習院昭和寮の寮誌「昭和」Click!には、下落合の情景をとらえた文章がいくつか掲載されている。第四寮で生活していた通利生(おそらく本名)という学生は、夕暮れが迫る目白通りを散歩した体験をエッセイに書いている。
 おそらく、前年の1932年(昭和7)9月から10月にかけての文章なのだろう。すでに目白通りは舗装され、歩道沿いにはイチョウ並木が植えられていた様子がうかがえる。同誌に掲載された通利生『憶出した事』の中から、「(一)夕方」を引用してみよう。
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 置時計が五時を指して居る。ふと眼を窓外にうつせば、外はもう紫色の夕靄につゝまれて居た。私は秋と言ふ感をはつきり頭の中に画いた。/急に秋の夕方の目白の通りが、歩いて見たくなつた。誰も知らないかも知れないが、私はこんな誌的な感情を時々現はす人間なのだ。/私の靴の裏には釘が沢山打つてある。/コツコツ歩く度毎、いや、其の一歩一歩、舗装道路の上を快く鳴る靴音。/木の葉が、かさりかさりと落ちる。私の首筋にひんやりした風が吹いて来た。/なんだか妙に、やるせない感じがした。年老つた父の事とか、是からの自分の事とか、!!/――自分の前に、見るからに見すぼらしい一人のルンペンとでも言ふ様な男が、垢じみた半纏に泥だらけの足袋をはいて歩いて行く。/仕事の帰りとも見えない。無精ひげが目立つて見える。私は、よく此の男を観察して見たくなつた。/眼に光のないどんよりとした瞳。ひたいのしわは此の男の今迄の苦労を語つつ(ママ)て居る様に、深くそして沢山あつた。
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 学習院昭和寮から目白通りへと出るには、近衛町Click!のメインストリートをそのまま北へ300mほど、まっすぐ歩いていけばいい。目白通りへ出た彼は、はたしてどちらに曲がっただろうか。おそらく右折、つまり目白駅や学習院のある方角へ曲がったように思うのだが、具体的な風景描写はなされておらずハッキリとはわからない。そろそろ夕闇が迫り、あちこちの商店では歩道に設置された白熱球の黄色い街灯のスイッチをひねる光景が見られただろうか。仕事を終え、目白駅から吐きだされた家路を急ぐ人々を乗せて、ダット乗合自動車Click!が通りを行きかっていただろう。
 いかにも、おカネ持ちの子息らしい彼は、革靴の底にたくさんの鋲くぎを打ちこんで、歩くたびにダンディな靴音が響くようにオシャレには余念がない。当時の流行なのだろう、舗装されたコンクリートの道路や、リノリウムなどの堅い床面を歩くとコツコツ鳴る靴音に、女子たちが振り向くのを期待していたのかもしれない。しかし、靴音を響かせて歩いていた彼の前に現れたのは、女子ならぬ汚い格好をした「ルンペン」だった。
 いや、汚れてはいながらも、どこかの会社か組の半纏を着て地下足袋をはいているところをみると、彼は「ルンペン」などではなく、当時の言葉でいえば、その日の職にあぶれた日雇いの「土工」ないしは「職工」だったのかもしれない。彼らは、昭和初期の不況で街中にあふれていた最下層の労働者、つまり経済学史の視点から当時の経済学界で議論が繰り返されていた、講座派vs労農派的な論争の表現に倣えば、経営者の都合(資本蓄積・需要減退・生産過剰)によって、いつでも切り棄てが可能な、相対的過剰労働力(=いわゆるマル経では「産業予備軍」と呼ばれる労働力)のひとりだったのだろう。事実、1930年(昭和5)前後は大学を卒業した学士でさえ就職先が見つからない、「大学は出たけれど」状況がつづく不景気な世の中だった。


 さて、学習院高等科の彼はどのように感じたのか、つづきを引用してみよう。
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 私は少し歩きながらこう思つた。此の男には人生の楽しみがあるのか、此の秋の黄昏をも味ふと言ふ訳でもなく、唯食ふ事ばかり考へて居なくてはならない。私は人の世の矛盾を考へずには居られなくなつた。/此の男がふと立止まつた。そして丼をさぐつてバツトを一本つまみ出した。/マツチの火が夕暗近い薄暗い中に此の男の薄蒼い顔を一瞬照らした。紫色の煙を深く吸つて、はきだした。さもうま相に、微笑みに似た表情が此の男の顔に見えた。/私は救はれた様な気持になつて何とはなしに空を見げれば(ママ)、もう星が澄んだ空に輝いて居た。
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 もし、ゴールデンバットを吸う男が目白駅へと歩いていったとすれば、ひょっとすると下落合か長崎の西部で行われていた、宅地造成か道路整備の工事現場からの帰り道だったのかもしれない。当時、「職工」や「土工」が丼(どんぶり)を手ぬぐいや風呂敷にくるんで持ち歩くのは、別にめずらしい光景ではない。ちょっとした小物、たとえばタバコやマッチ、手ぬぐい、濡れると困る紙類などを入れて持ち歩く、今日の防水ポーチのような役割りをはたしていた。作業現場の露天では、丼を手ぬぐいなどでくるんだまま伏せておけば、雨が降っても濡れないで済むからだ。
※上記の中で、「丼」とは「腹掛け丼」のことではないかとのご指摘を、siina machikoさんよりいただいた。詳細はコメント欄を。
 さて、「昭和」第8号を読んでいて、ひとつ気になったことがある。のちに、国産ロケット開発の分野で糸川英夫とともに有名になる戸田康明が、1932年(昭和7)現在は高等部理科3年の学生として昭和寮の第二寮で生活していた。同誌には、同年7月10日から9月1日にかけて、つまり夏休みを通じて日記風に書かれたエッセイが掲載されている。戸田康明は、昭和寮で暮らすかたわら大井町にあった自邸へともどり、ときに軽井沢の駅から「十丁」ほどのところにあった別荘へと出かけている。この間、登山やテニス、ドライブ、音楽鑑賞、野球観戦、海水浴、ゲームと当時の学生としてはずいぶん贅沢な夏休みをすごしているのだが、その暮らしぶりは華族さながらだ。

 
 戸田康明は、ひょっとすると雑司谷旭出41番地(現・目白3丁目)から下落合へ転居したことになっている、戸田邸Click!の戸田康保Click!となんらかの姻戚関係(たとえば子息か甥)があるのだろうか? 戸田康保は、1931年(昭和6)に自邸の広大な敷地(現・徳川黎明会Click!+徳川ドーミトリーの敷地)を徳川義親Click!へ売却すると、下落合へ引っ越したことになっている。しかし、下落合側では戸田康保が転居してきた事実が見つからない。1933年(昭和8)に出版された、『高田町史』Click!(高田町教育会)から引用してみよう。
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 戸田康保
 旧信州松本藩主子爵戸田康保は、明治三十六年頃から、雑司谷旭出に住み、昭和五年下落合に移転した、子爵は多年、高田町教育会の会長の任に在つた。
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 1930年(昭和5)に解体された、戸田邸の部材の一部を使って建設されている、和洋折衷の邸宅Click!は下落合で現存しているが、戸田家そのものが『高田町史』の記述にもかかわらず、目白界隈からこつ然と姿を消してしまっているのだ。これは、ブログをはじめた当初からの“謎”だった。しかし、もし戸田康明が戸田康保と関係があるとすれば、1932年(昭和7)夏の現在、戸田家は下落合ではなく大井町に居住していたことになる。なぜ、周囲に公言していた下落合への移転を取りやめ、当時は郊外で大森海岸など海浜別荘地にも近い、大井町へと転居したのだろうか?
 戸田康明が、目白駅近くにいた松本藩戸田家の人物だったとすれば、その答えは彼の手記の中にある。彼の妹は高熱がつづく原因不明の病気で、ここ数年間は重態だったのだ。1月には、医者からもう身体が持たないと宣告されるほどの容体だった。だが、妹は同年の夏ごろを境に、みるみる健康をとりもどしていく。8月には、母親とともに散歩へ出歩けるまでに快復している。つまり、戸田家では娘(あるいは姪)が重病にかかったため、予定していた下落合への引っ越しを急遽取りやめ、当時は海浜別荘が建ち並ぶ保養地として拓けていた大井町へ、転居先を変更してやしないだろうか? この仮説には、戸田康保と戸田康明が姻戚関係であり、同じ邸に住んでいたという前提が必要なのだが……。
 第二寮棟のまん前には、大黒葡萄酒Click!の工場が見下ろせた。戸田康明は同年8月7日の手記に、「長い様で短かい学習院生活。昭和寮第二寮。赤い大黒葡萄酒のネオンサイン。其等は一生涯わすれられぬ追憶だ」と書いている。このころ、大黒葡萄酒Click!の瓶詰め工場には、建屋の正面か屋根上かは不明だが、夜になると赤く光るネオン看板が設置されていたのがわかる。
 
 さて、戸田康保が周囲へ語っていた下落合への転居を中止したとすれば、それは慌ただしい計画変更だったはずだ。つまり、戸田家では下落合に設定された転居先の準備を早くからしていたものとみられ、敷地の確保はもちろん新邸の建設寸前まで計画が進んでいたのではないだろうか。とすれば、雑司谷旭出(現・目白3丁目)に建っていた戸田邸の規模からみても、1930年(昭和5)現在でなにも建設されていない、下落合の広めな空き地が怪しいことになる。下落合の東部ですぐにも思い浮かぶのは、近衛文麿Click!が手放して空き地のままの状態がつづいていた目白中学校跡地Click!、ミツワ石鹸の三輪善太郎邸Click!の北側に拡がる空き地、そして西坂徳川邸Click!とは渓谷(のち聖母坂Click!)をはさんで東側の“対岸”にあたる、見晴らしのいい丘上の池田邸Click!を見下ろす広い空き地だ。このいずれかに、昭和初期の戸田邸にまつわる伝承が残されてやしないだろうか?

◆写真上:学習院昭和寮(現・日立目白クラブ)の、西端にある第四寮棟。
◆写真中上:上は、1935年(昭和10)ごろの目白駅近くの目白通り。写っているのはダット乗合自動車を合併吸収した東環乗合自動車のバスガールたちで、右手に学習院初等科の子どもたちが見える。(小川薫様Click!より) 下は、1932年(昭和7)に鶴巻川(弦巻川)の暗渠化工事を行う労働者たち。(『高田町史』より)
◆写真中下:上は、日立目白クラブ(旧・昭和寮本館)の談話室。下は、本館南側の庭。
◆写真下:昭和寮の第二寮から大黒葡萄酒の工場を眺めたところで、左は1932年(昭和7)に右は1936年(昭和11)に撮影されたもの。