秋から冬にかけ、下落合の坂道を上ると顔に北風が吹きつけてくる。丘上へでると、さらに強い北風が容赦なく身体を吹き抜け、手や耳が痛いほどだ。逆に、坂道を下ってくると今度は北風に背中を押され、ケヤキやイチョウの落ち葉がかさこそと、さびしく横を追いこしてゆく。下落合の丘上から強く吹きつけてくる風の様子は、1934年(昭和9)の暮れから中井駅近くの上落合2丁目740番地に住んだ、宮本百合子Click!も手紙に書きとめている。
 尾崎翠Click!は上落合850番地Click!、つづいて上落合842番地Click!に住んでいたころ、それほど頻繁ではないにせよ、自宅の周辺を散歩していると思われる。その散策は、風景を眺めたり新しい出会いや発見の楽しみをともなう散歩ではなく、外へ出て身体を動かす必要性からおそらく「歩行」と呼ばれていて、部屋にこもりっきりで作品を書きつづけることからくる運動不足や、薬品の飲みすぎで健康状態が極度に悪化することを懸念してのものだったと想像できる。
 今年(2014年)6月、尾崎翠の小説集がようやく岩波文庫の緑帯(31-196-1)に登場した。若い世代を中心に起きている、尾崎翠の圧倒的な人気やブームによるところが大きいのだろう。あまりにも先の表現世界を歩みつづけていた彼女は、ようやく21世紀になってから表舞台へと躍りでてきた。同書の中に、落合地域を散策しながら構想したらしい『歩行』という短編が収められている。『歩行』の初出は、1931年(昭和6)に大日本聯合婦人会(文部省)が発行していた「家庭」だ。同婦人会の会長・島津治子が、不敬罪で警察に逮捕される5年前のことだ。つづいて、翌1932年(昭和7)には保高徳蔵・編のアンソロジー文学誌「文学クオタリイ」に掲載されている。同誌には、石坂洋次郎や伊藤整Click!、舟橋聖一Click!、宇野浩二Click!、井伏鱒二Click!、田村泰次郎、久野豊彦などが執筆していた。
 さて、『歩行』で落合地域を吹きぬける風の様子を、同文庫より引用してみよう。
  ▼
 夕方、私が屋根部屋を出てひとりで歩いていたのは、まったく幸田当八氏のおもかげを忘れるためであった。空には雲。野には夕方の風が吹いていた。けれど、私が風とともに歩いていても、野を吹く風は私の心から幸田氏のおもかげを持って行く様子はなくて、却って当八氏のおもかげを私の心に吹き送るようなものであった。それで、よほど歩いてきたころ私は風のなかに立ちどまり、いっそまた屋根部屋に戻ってしまおうと思った。(中略) そして私は野の傾斜を下りつつ帰途についたので、いままで私の顔を吹いていた風が、いまは私の背を吹いた。さて背中を吹く風とは、人間のうらぶれた気もちをひとしお深めるものであろうか。
  ▲
 祖母の“おつかい”で、お萩の重箱を片手に外へ出た「女の子」こと「お祖母さんのうちの孫娘」は、このとき片想いの相手を忘れようとして、家の周辺をぼんやりしながら彷徨している。祖母が孫娘を、近くに住む親しい知り合いの「松本家」へおつかいに出したのは、部屋に引きこもっている彼女を外気にあてて「歩行」させ、少しでも運動不足を解消させるのが目的だった。
 季節は、お萩をつくる彼岸の時期のようにも思えるが、おそらく晩秋ないしは初冬のころだろう。なぜなら、彼女は屋根部屋から手を伸ばして、庭になった柿の実を分裂心理研究家の「幸田当八」といっしょに食べており、祖母から松本家へのおつかいを頼まれたのは、幸田当八が家から去ってしばらくたってからのことだからだ。おそらく、落合における柿の実Click!の成熟期を想定すると、11月中旬から下旬にかけての時期だろう。散歩をしていると、そろそろ北風が身に染みてくるころだ。
 斜面、つまり坂を上るときは「顔を吹いていた風」が、坂の斜面を下るときには「背を吹い」ているところをみると、彼女は北へ向かって坂道を上り、南へ向かって坂道を下りていったと推測できる。すなわち、尾崎翠が自身の落合地域における散歩コースを前提に、「女の子」の歩く道筋をイメージしていたとすれば、彼女は「松本家」のある下落合4丁目(現・中井2丁目)あたりの坂を上り、お萩をとどけるのをすっかり忘れて、幸田当八の面影にとらわれながらウロウロしたあと、そのまま坂道を下りて住んでいた自宅(祖母と住む家の想定)のある、上落合842番地の2階家へともどってきた……、このような散歩コースを想像することができるのだ。
 
 改めて手にさげたお萩をとどけるために、「女の子」は松本家へ向け再び「歩行」を再開するのだが、すぐに幸田当八のことが頭をよぎり、目的を忘れてしまいそうになる。
  ▼
 私はなるたけ野原の方に迷いださないよう注意しながら松本夫人の宅に向った。けれど、私は、やはり幸田当八氏のことを考えていて、絶えず重箱の重いことを忘れてしまいそうだった。
  ▲
 「野原の方に迷い」そうになるのは、妙正寺川Click!をわたって下落合側へと向かう際に、河川の両岸に拡がる原っぱ、すなわちバッケが原Click!へとついフラフラと踏みこんでいきそうになるのを、意識的にこらえようとしているせいだろう。昭和初期まで、妙正寺川の川沿いは広大な麦畑が拡がっており、その光景は林武Click!が画面に描きとめている。だが、尾崎翠が上落合で暮らすころには、西武電鉄Click!が開通して耕地整理が進み、ほとんどが宅地造成予定地として“原っぱ”状の風情をしていただろう。
 彼女は、ようやく松本邸に着きお萩を手わたすのだけれど、松本家では食事を終えたばかりでお萩は松本氏がちょっと手をだしただけで、夫人は食べようとはしなかった。そのかわり、火葬場近くの借家に住んでいる、松本夫人の弟で詩人の土田九作へ、お萩の重箱とオタマジャクシの瓶をとどけてくれるよう、彼女は頼まれてしまう。そのとき、彼女の前で松本夫妻はこんな会話を交していた。
  ▼
 「何にしても、あの脳の薬を止させなければ駄目ですわ」(中略)
 「あらゆるくすりを止させなければならない。土田九作くらい薬を用いる詩人が何処にあるか。消化運動の代りには胃散をのむし、睡眠薬を毎夜欠かしたことがない。だから烏(からす)が真白に見えてしまうのだ」
 「だからちょっと外出しても自動車にズボンを破られてしまうのですわ」
 「ところでこんど九作の書く詩は、おたまじゃくしの詩だという。ああ、何という恐ろしいことだ。実物を見せないで書かしたら、土田九作はまた、おたまじゃくしは真白な尻尾を振り――という詩を書くにきまっている。(後略)」
  ▲
 この会話は、おそらく薬物依存症の尾崎翠が、常に心の中で自問自答していた課題だったにちがいない。翠は、大工の家作(かさく)だったらしい上落合842番地の借家2階から、近所の三ノ輪湯へ身体を洗いにいく以外、そして薬局へ立ち寄り薬を手に入れる以外ほとんど外出せず、作品を書くかたわらで鎮痛剤や睡眠薬、胃薬などを飲みつづけていた。『歩行』に登場してくる、孫娘に用事を頼んで戸外を「歩行」させ、少しでも運動をさせようとしている祖母の存在もまた、尾崎翠の内部でささやかれるもうひとりの“自身の声”なのだろう。
 「女の子」は松本夫妻の頼みで、下落合の丘上にあるとみられる松本邸から、今度は上落合の西南端にある落合火葬場Click!の煙突の下まで、一気に500mほど南下することになった。
 
  ▼
 私は季節はずれのおたまじゃくしを風呂敷に包み、松本夫人の注意で重箱の包みをも持った。土田九作氏がもし勉強疲れしているようだったらお萩をどっさり喰べさしてくれと夫人はいって、九作氏の住居は火葬場の煙突の北にある。木犀が咲いてブルドックのいる家から三軒目の二階で階下はたぶんまだ空家になっているであろう。二階の窓には窓かけの代りとして渋紙色の風呂敷が垂れているからと説明した。/私は祖母の希望どおりたくさんの道のりを歩いた。けれどついに幸田当八氏を忘れることはできなかった。木犀の花が咲いていれば氏を思い、こおろぎが啼いていれば氏を思った。そして私は火葬場の煙突の北に渋紙色の窓を見つけ、階下の空家を通過して土田九作氏の住居に着いた。
  ▲
 熟した柿を、2階の自室窓辺で幸田当八とふたりで食べてから、多少時間がたっている季節にもかかわらず、モクセイが咲いていたり、コオロギが鳴いていたりするのは、尾崎翠の表現ならではのシュールな“自由さ”だ。彼女は、さすがにオタマジャクシは「季節はずれ」と感じ、松本氏が人工孵化させたものだと、あえて説明を加えてはいるけれど、柿もモクセイもコオロギもお萩(秋分の彼岸)も、みんな同じ「秋」のものだから細密なリアリティまではこだわらない。
 また、尾崎翠は時間軸にも“自由さ”を発揮して、松本家では夕食が済んだ晩秋の時間帯だったにもかかわらず、「渋紙色の風呂敷」が見わけられるほの暗さしか意識されていない。ペットのブルドックやモクセイの花も、初めて土田宅を訪問する「女の子」でも、十分に視界へとらえることができる光景(光があたる情景)として、当然のことのように描かれている。
 自室へ引きこもりがちな「女の子」は、祖母の思惑どおり「たくさんの道のりを歩いた」と感じているけれど、『歩行』から推測できる実際に落合地域を歩いた距離は、この作品が描かれた1931年(昭和6)現在の自宅(上落合842番地を想定)から、下落合の丘上にあったと思われる松本邸(五ノ坂上あたりを想定)へ二度出かけ、松本邸から落合火葬場の北辺までたどったとして、およそ2kmぐらいだろうか。起伏が多いとはいえ、たいした距離ではない。
 むしろ、土田九作の家へ着いてから「ミグレニンを一オンス買って来てくれないか」と頼まれ、薬局で購入して土田宅へもどってみると、今度は「胃散を一罐買ってきてくれないか」といわれ、再び薬局めざして歩いた距離のほうが多そうだ。1931年(昭和6)の当時、火葬場近くを起点に薬局をめざすとすれば、昭和通り(現・早稲田通り)沿いから小滝橋にかけて形成されはじめていた商店街か、中井駅周辺の商店街、あるいは東中野駅まで出る途中に連なる商店街が近いだろうか。中井駅前に薬局があったとすれば、2往復で2.5kmほど、土田宅から最終的に上落合842番地の自宅(想定)へ帰る道のりが300mほどなので、野原をさまよっていた距離は除くとして、「女の子」は都合5kmほどの「歩行」をしたことになるだろうか。祖母の思惑は、まんまと当たったわけだ。
 尾崎翠は、近くの銭湯と薬局へ出かける以外は、自宅からあまり外出していない。また、近所の作家たちともあまり深く交流してはいない。たまに散歩に出かけたとすれば、おそらく『歩行』で描かれたようなコースを歩き、落合西部の道筋や妙正寺川沿いの原っぱをブラブラと逍遥したのだろう。尾崎翠が通った三ノ輪湯と、煙突をしじゅう眺めていた落合火葬場との間には、上落合の境界に接して上高田側に牧成社牧場Click!(上高田322番地)があった。彼女は自宅周辺で、かなり頻繁にキングミルクClick!生産用の乳牛(ホルスタイン)を目撃しているはずだが、吉屋信子Click!のように特に気にはとめなかったようだ。彼女が描く『歩行』にも、ウシは登場していない。

 わたしは、尾崎翠のユーモラスな文章が好きなのだが、ユーモラスと表現して語弊があるのなら“喜劇性”としてもいいかもしれない。彼女の作品に登場する、さまざまな人物たちの会話やシチュエーションから、まるで菌類が菌糸をどこまでも拡げるように、果てしない喜劇の情景を妄想的に思い浮かべてしまうからだ。文章化されなかった余白の部分に、表現されなかった“その先”の物語に、わたしはミグレニンをかじりながら文机の前でひとりニヤニヤしている、尾崎翠の未来へ向けた孤独な微笑を想像してしまう。

◆写真上:上落合(三輪)842番地の、尾崎翠が暮らしていた旧居跡の現状。
◆写真中上:岩波文庫(左)に収められた尾崎翠(右)の作品集で、1977年(昭和52)に初めて『日本文学の発見』(学藝書林)で作品を目にしたわたしにとっては感慨深い。
◆写真中下:左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる尾崎翠が住んだ上落合842番地の家。右は、2階の窓から眺め暮した落合火葬場のひときわ高い煙突。
◆写真下:『歩行』に描かれた、尾崎翠の分身「女の子」の想定「歩行」コース。