下落合406番地の学習院昭和寮Click!では、大小さまざまな事件が起きている。以前に泥棒事件Click!は紹介していたけれど、きょうは「全寮日誌」ではなく、各寮で記録されていた日毎の「寮だより」から、それらの事件類を紹介してみよう。
 まずは、1933年(昭和8)2月に発行された昭和寮の寮誌「昭和」第8号より、1932年(昭和7)の5月から11月までの半年間に記録された、第一寮棟の寮だより(一寮日誌)から抜粋してみよう。
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六月二十日 長らく病気加療中の加藤君登院す。
七月四日 毛利君結膜炎の為当分宅療することになる。
九月一日 石山、山田、牧野君帰寮せず。
九月四日 過労の為静養中の山田君帰寮す。
十月二日 水上部小会、対寮レースに吾が寮は時刻を間違へて棄権の止むなきに至る。
十月八日 第二寮生佐竹義正君逝去さる。
十月二十六日 結膜炎流行し、南郷、百瀬両君罹患す。
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 寮対抗のボートレースに、第一寮の選手たちが時刻をまちがえて参加できなかった「事件」は、すでに前回ご紹介したとおりだ。ほんとうに時刻をまちがえたとは思えず、あらかじめ寮全体で根まわしが行なわれ、一寮は「遅刻」、二寮と四寮は「棄権」という筋立てができており、最初から第三寮の不戦「優勝」が決められていた気配を感じる。また、夏休みが終わったのに第一寮に帰ってこない学生が3名もいる。きっと、休みグセがついて帰寮したくなくなったのだろう。
 集団生活のデメリットとして、誰かがインフルエンザや結膜炎などの伝染病にかかると次々に罹患し、症状が重篤な場合は寮生たちが東京府内の自宅にもどり、療養していた様子がわかる。治療のため帰宅するまでもなく、ちょっとした風邪などで学校を休む軽症だと、さっそく女丈夫の「オバサン」(寮母)が正体不明の独特な薬を調合して、寮室で寝ている病人のもとへやってくる。そして、無理やりその薬を寮生のノドへ流しこんだ。
 オバサンの様子について、第一寮の寮務委員だった花房福次郎が書いたエッセイ「一寮十五勇士」から引用してみよう。
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 此のオバサンは吾々寮生の為にはあらゆる万難を排して目的を遂行してくれます。偉人敵多しと申しますが、オバサンにとつては寮生以外は全部敵かも知れません。ライオンが豹を噛み殺す権幕で食つて掛るんですから大抵相手はヘバツテしまひます。併し又戦勝の報告を聞くのも楽じやありません。その因つて起るところはすべて寮生を思ふ一念に他ならないのですから、吾等は感謝すべきです。正義に燃ゆる女丈夫です。云ふことは論理的に正当なんです。又仲々医学に精通され、病気になると早速薬を調合して来て、馬か牛にでも飲ませる様に無理矢理につぎ込まれます。もう六十の坂を越えたでせうから、余り苦労を掛けぬようにしませう。
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 1932年(昭和7)現在に60歳代だったとすると、おそらく「オバサン」は退職間近な寮母だったと思えるのだが、寮誌全体を通じて姓名は明らかにされていない。かなりの名物「オバサン」だったようなので、「昭和」の他号には詳細(退職時など)が紹介されているかもしれない。
 
 つづけて、同時期の第二寮棟で書かれた寮だよりを抜粋してみよう。
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六月五日 佐竹義正君、本日午後一時の汽車で熊本に帰省された。同君は先週から身体の調子が悪くなり帝大の諷博士等の診察を受けて居たが、此の二三日、急に病状が思はしくないので、帰省される事となつた。何分此春肋膜をわずらひ、永く病院生活をして居たのであるから、軽度の病状にも余程の注意が必要である。たゞ一日も早く、全快して寮にもどられんことを望んで居る。
六月三十日 河副は喘息になつて今朝非常に苦しんだので、医務課で見てもらひ、自宅で休養する事にした。
六月二十三日 相澤は咽喉をいためて休んで居る。河副は先日来喘息で、鎌倉に行つた由。昨日、佐竹君の母君から、二寮に御手紙を戴く、熱は八度前後、可もなく不可もなき状態との事充分の養生を望む。
七月六日 松浦は風呂場で目の上を負傷、自宅に帰つた。
九月七日 佐竹の其後の経過思はしからずと聞き、一同憂慮す。
十月九日 午後五時、長らく病気療養中だつた佐竹正義君長逝の由電報にて通告さる。我等寮生一同悲しみに耐へず、謹んで哀悼の意を表す。(以下佐竹義正の紹介文略)
十月十日 午後九時より佐竹君の写真を飾り、その御霊前に寮生一同御焼香す。ほの白き小菊の花、紫の煙のたゞよひ、同君の追憶に耽けるのみ。
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 第二寮では、重大事件が起きている。仲間のひとりだった、かつて肋膜を患ったことのある佐竹義正が、療養中だった郷里の熊本で肺結核のために急死した。昭和寮本館の娯楽室には祭壇が設けられ、寮生のほぼ全員が焼香している。また、「昭和」第8号の冒頭グラビアには佐竹義正の遺影が掲載され、寄稿された寮生によるエッセイでも、その死を悼んでいる。
 病気にかかる寮生も多いが、学校生活あるいは寮生活でのケガも多かった。「松浦」という学生は、本館地下に設置されていた浴場で、おそらくすべって転び浴槽の角か水道の蛇口にでも額をぶっつけたのだろう、目の上を切ったようだ。さっそく、オバサンが飛んできて治療したと思うのだが、その様子は記録されていない。しかし、目の上を負傷したぐらいで、いちいち自宅へ帰るところが学習院なのだ。
 このように、寮生はなにかあるとすぐに自邸へもどってしまうため、寮生が全員そろって在寮していることはめずらしく、寮内は櫛の歯が抜けるように空き室が絶えなかった。むしろ、寮生全員が帰寮して各室にそろうと、それがニュースになって寮だよりに記録されるほどだった。
 
 つづけて、同時期に記録された第三寮棟の寮だよりを抜粋してみよう。第三寮は、4つの寮棟の中でももっとも詳細でていねいな寮日誌が残されている。
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五月十八日 昨日入寮せる吉井赤痢の疑ありしが陰性と決定し一同安心す。
五月二十六日 吉井次第に快方に向へども栄養不足のため脚気の気味あり。
六月二十九日 久しく欠席中の吉井遂に本学年休学することになつたのは誠に残念である。
九月九日 夜に入つて二百廿日を頷かしめる程の豪雨あり。壮麗を誇り永久的存在を目的とする我が昭和寮も各所に雨漏あり、将来を考へると心細くなる。
十月十日 故佐竹義正君慰霊のため、談話室に写真を安置して舎監寮生外一同御焼香せり。
十月十二日 お会式、何百万と之ふ信者達が打つ太鼓の音しきりと聞ゆ。
十月十九日 今暁四寮、三寮に泥棒入る。とられた奴の寝呆け面は見られたもので(ママ:じ)やねェ。
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 昭和寮は1928年(昭和3)に建設されているが、わずか4年後の1932年(昭和7)には雨漏りのしていたのがわかる。特に台風などの強い風雨になると、あちこちから雨水が入りこんだようだ。昭和寮は鉄筋コンクリート造りなので、一見、風雨には強そうに思えるのだが、これは当時のコンクリート工法による合わせ目の欠陥か、コンクリートの質そのものの課題なのかもしれない。クラックの箇所へ、雨水が浸透したことによる漏水の可能性もありそうだ。
 同じコンクリート建築(中村式鉄筋コンクリートブロック工法Click!)である、学習院昭和寮の西隣りに建っていた近衛町の帆足邸Click!では、雨漏りやクラックの心配はなかっただろうか? 帆足みゆきClick!は、1926年(大正15)に竣工したコンクリート製の自宅の現状や耐性の実際については、特にインタビューでは答えていない。昭和寮は、中村鎮Click!によるコンクリートブロック工法とは、まったく異なる当時のコンクリート工法で建てられていたのだろう。今日、日立目白クラブで雨漏りがするとは聞かないので、当初の脆弱箇所は戦後にすべてメンテナンスが施されているのだろう。
 もうひとつ、寮生が騒音に悩まされた記録も残っている。10月12日には、日蓮宗の御会式Click!で団扇太鼓をたたく音が周囲から絶えず聞こえていただろう。日蓮宗の信者たちが、太鼓をたたきながら雑司ヶ谷の鬼子母神(きしもじん)めざして行進する、夜間の「万灯会」をともなった年中行事で、行列をつくりながら路上を練り歩く。江戸期には、廃寺になる前の感応寺Click!へ集合していたものが、明治以降は鬼子母神へと行き先が変更された。昭和寮が建つ丘の南麓には、鎌倉期からの雑司ヶ谷道が通っているので、信者たちの行列はこの街道をひっきりなしに通ったのではないか。
 もっとも大規模な御会式行列は、大森区(現・大田区の一部)の池上本門寺からのもので、最盛期には参加者が数万人を数える日蓮宗の一大デモンストレーションだった。その行列は、先頭が鬼子母神に到着しているのに、いまだ本門寺境内には出発を待つ信者たちがあふれるほどだったという。昭和寮の寮生たちは、おそらく関東各地から目白方面へと集まってくる、うるさい太鼓行列の音に1日じゅう悩まされたのだろう。泥棒事件は、以前の記事に紹介しているので省略したい。


 第四寮棟で記録された寮だよりには、事件らしい事件は記録されていない。四寮にも泥棒が入るという“大事件”があったにもかかわらず、そのことについても触れられていない。四寮の記録者は、なにか事件があると「不名誉」だとでも考えたものか、すべての記述が当たりさわりのない無味乾燥な内容になっている。また、寮友だった佐竹義正の死や追悼式についても記録されておらず、全体的にまるで新聞記事でも読むような、味気なく冷ややかな記述に終始している。

◆写真上:学習院昭和寮(現・日立目白クラブClick!)の、天井を飾るシャンデリア。
◆写真中上:本館2階へ上る階段(左)と、独特な意匠の各室ドア(右)。
◆写真中下:左は、1932年(昭和7)10月8日に熊本の自宅で死去した佐竹義正。右は、「昭和」には寮生OBもときどき寄稿していたようだ。
◆写真下:「全寮日誌」(上)と、寮別に書かれていた「寮だより」(下)の一部。