目白中学校Click!へ通っていた生徒は、全国の道府県から集まった子どもたちClick!も少なからずいたが、やはり地元東京府の出身者が圧倒的に多かった。よその地方から東京地方へやってきた生徒たちは、学校近くの下宿や山手線沿線にある駅前の下宿から通学している。また、先にご紹介した松原公平Click!のように、目白中学校のごく近所である落合や戸塚、高田地域の自宅から通っている生徒たちも多い。
 目白中学校の校友誌『桂蔭』には、そんな地元の生徒あるいは学校の近くに寄宿している中学生が寄稿したエッセイに、落合地域の風景や様子が鮮やかに記録されている。1922年(大正11)3月に発行された『桂蔭』第8号には、「冬の日の逍遥」と題する随筆が掲載されている。著者は“無名草”とペンネームが使われているが、久しぶりに学校の周辺を散歩していることから、近くに住む寄宿生徒のひとりだと思われる。「私は何時になく気持がよいので、寒いのも関はずに(ママ)、外へ出てみる気になりました」ではじまる、同文を引用してみよう。
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 欅なぞの葉は、毎日吹く凩(こがらし)に大方吹き落されてしまつて、坊主頭を寒い大空に擡(もた)げてゐます。杉もひどい霜には敵しかねて、葉が褐色になつてしまつてダラリと垂れてゐます。/路は、急に左に折れて、どこまでも南へ走つてゐます。砂利がないので、非常に凸凹が激しく、今朝から凍つたまゝカチカチしてゐます。ともすると下駄を踏み返します。/私は無暗に歩き続けました。何故か、歩きたくてならなかつたのです。/甲斐あたりの連山は、遥か遠く望めます。皆雪に被はれて、一層美しさを増して見えます。中央に富士山が厳しく聳え立つてゐます。矢張りすつかり白くなつて、恰(あたか)も他の群山を引き従へてゐるかの様に見えます。(カッコ内引用者註)
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 目白崖線の丘上から眺めることができる、富士山の様子が描かれている。ただし、下落合の丘上から見える富士の手前に連なる山々は、甲斐の山ではなく奥多摩の連山と、神奈川県の北側に背骨のようなかたちで拡がる丹沢山塊や足柄の山々だ。
 この文章の直後に、著者は坂道へとさしかかるのだが、目白中学校が面している目白通りないしは裏道を西へとたどり、「急に左に折れ」て「どこまでも南へ走つて」いる道筋を歩いていったのがわかる。1921年(大正10)現在、目白中学校界隈から出て左へ折れる道路で、そのまま真っすぐ目白崖線の南斜面に通う坂道へと抜けられる道は、七曲坂の道筋(江戸期には鼠山道)しか存在していない、また、のちの文章に登場する、坂道の途中から右手(西側)に寺院の森が見える描写からも、この道は七曲坂以外に考えられそうもない。つづけて、「冬の日の逍遥」から引用してみよう。
 

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 坂に来ました。かなりの勾配です。坂の右手にはこんもりとした杉林に囲まれた古雅な寺があります。私は境内へ入つて見ました。薄暗くて寺の様な感がせず、寧ろ神社の様に思はれます。お堂はがらんとして、人一人ゐません。実際寂寞(じゃくばく)そのものです。私は、お堂の縁に立つて前を見下しました。前はずつと低くなつてゐて、一条の道がその勾配を区切つて通つてゐます。その道路の先はすぐ圃(たんぼ)なのです。私は階段を降りて道へ出ました。此処には砂利が敷いてあるので、稍(ようやく)歩きよいのです。田は薄氷が今朝張つたまゝで、溶けもしないで、うす赤い太陽をその上に乗せてキラキラと光つてゐます。私は小石を拾つて、其の上に投げて見ました。キヨロキヨロキヨロ、優しい小鳥の啼き声の様です。私は幾つも投げてその美音に聞入りました。ふと石が太陽の写つてゐる場所の氷を破りました。パツと水が飛びます。朱玉が砕けたかの様に思はれます。実に綺麗です。私はなほ投げました。遂にその田の氷は、砕かれぬ所とてもなくなりました。私は何だかしてはならぬ事をしてしまつた後の様な恐怖に襲はれました。/「おい、つまらないことは止せよ。知らない人が見ると、狂人と思ふぜ。さうして地主が怒るよ。」私は突然の声に驚いて振り返つて見ると、親友のSでした。(カッコ内引用者註)
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 七曲坂Click!の途中から右手に見える、こんもりと森に囲まれた寺は、もちろん薬王院Click!だ。ただし、坂の途中まで1916~17年(大正5~6)に建てられた巨大な大島久直邸Click!の擁壁がつづいているので、右手すなわち西側の眺望が開けるのは、坂をかなり下ってからのことだ。薬王院の森は、坂上からも眺めることができるが、その向こう側には伽藍ではなく旧墓地が拡がっていた。丘上にあった薬王院の森Click!(現・新墓地)が伐採されるのは、日米戦争が迫り物資が不足しはじめたころのことだ。
 寺院の人気がないガランとした「お堂」は、今日の丘上にある本堂のことではなく、その寂しい風情から山門のすぐ脇に鐘楼とともに建っていた、茅葺き屋根の太子堂Click!のことではないかと思われる。太子堂や山門前は、南の旧・神田上水に向かってかなり傾斜している。その傾斜を区切って見えているのが、砂利や小松益喜Click!の描いた『(下落合)炭糟道の風景』のように炭糟が撒かれて整備されていた、雑司ヶ谷道(鎌倉街道)だろう。当時は、もちろん十三間通り(新目白通り)も西武線も存在せず、雑司ヶ谷道の周辺は一面の田圃だらけだった。
 そこの田圃で「親友のS」に出会うのだが、「S」は近くの自宅から目白中学校へ通っていた生徒のひとりだと思われる。薬王院からしばらく歩いたところが「S」宅のようなので、おそらく下落合か上戸塚(現・高田馬場3~4丁目)、上落合あたりに家があった生徒だろう。また、「S」の母親の様子から、地元の農家ではなく勤め人の家のようだ。
 

 
 さて、下落合で起きた火事も記録されている。自宅で就寝中に、父母の「火事だ火事だ」という叫びで起こされた生徒の作文だ。『桂蔭』第8号に掲載された島田恒隆「火事」という文章だが、この中に出てくる「第一」とは第一府営住宅Click!のことだと思われる。また、「学校」とは目白中学校のことではなく、第一府営住宅の南側にある落合小学校Click!(現・落合第一小学校)のことで、下落合出身である島田恒隆が卒業した小学校、すなわち母校でもあったのだろう。短いエッセイなので、その全文を引用してみよう。
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 恒隆火事だ火事だと父母の喚ぶ声に、はつと目を醒し、幾度か目をしばたゝいて(ママ)、うゝんうるさいなあとしぶしぶ起た。と又母の声で火事ですよと云はれて、何火事と飛起きさま、何心なく外を見た。ジヤンジヤンジヤンと半鐘の音が聞える。とばたばたばた。火事だ火事だ。第一だなどゝ怒鳴つてゐる。何第一、すはこそ一大事と寝衣のまゝ外に出た。火の粉は紛々として天を蔽ひ、煙はあたりにみちみちて呼吸も困難な程である。其の中に立つて天を仰いで見てゐる者もあれば、物しり顔になに風は向ふへ吹いてゐますから、大丈夫ですなどといつてゐる者もあり、ガタガタと歯の根の合はぬ口で、大丈夫でせうかなと云つて、ウロウロしてゐる人もある。僕はどうして火事を出したか、御真影は出したかなどゝ、胸の内は入みだれて、夢中で学校にかけつけた。見ればもう火は一面に拡つて、ワアーとさけぶ声が天地も揺がすばかり。僕は此の有様を見て、アーと太い吐息をついた。
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 当時の第一府営住宅の近辺で、落合小学校にもすぐに駆けつけられる位置に島田家を探してみると、目白通りに面した下落合640番地に島田惣太郎邸を見つけることができる。聖母坂(補助45号線)Click!が建設される前、「木村横丁」と呼ばれていた一画の住宅だ。島田家から落合小学校まで、歩いても5分ほどの距離なので走れば1~2分でたどり着けるだろう。このとき、第一府営住宅の火災がどれほど拡がったかは不明だが、ことさら地元の伝承に残らなかったところをみると、それほど大火事にならずに鎮火しているように思われる。このとき、島田家に聞こえていた半鐘の音は、現在の子安地蔵Click!の斜向かい、下落合569番地に大正期から設置されていた火の見櫓のものだろう。地元の落合消防団Click!も、いち早く火災現場へ駆けつけているにちがいない。
 
 
 当時の下落合は、目白文化村Click!も近衛町Click!も存在しない、ところどころに華族の大屋敷や別荘、古い農家などが建ち並ぶ典型的な東京郊外の風景だったろう。佐伯祐三Click!や曾宮一念Click!のアトリエが、ようやく竣工したばかりのころの情景だ。まとまって建つ住宅街といえば、下落合中部に展開していた目白通り沿いの府営住宅ぐらいだった。

◆写真上:下落合で昔も現代でもつづけられる、初冬の干し柿づくり。
◆写真中上:上左は、目白中学校があったあたりの現状。奥に見えているのは、当時から建っていた下落合523番地の目白聖公会。上右は、明治末年に建設された目白福音教会の現状で、目白通りを歩き教会先の路地を左折すると七曲坂筋へ入る。下は、「冬の日の逍遥」の著者が逍遥したと思われる下落合の散策コース。
◆写真中下:上は、七曲坂へと抜ける道の現状。中は、七曲坂へとさしかかる手前の落合中学校と庚申塚Click!のあたり。下左は、1917年(大正6)に撮影された竣工したばかりの大島久直子爵邸。下右は、七曲坂の現状で右手は旧・大島邸の擁壁。
◆写真下:上右は、大島邸の擁壁が途切れるあたりの七曲坂。上右は、坂の右手に見える薬王院方面の森。下は、薬王院の山門(左)と門前の雑司ヶ谷道(現・新井薬師道)(右)。薬王院の境内から旧・神田上水にかけての斜面は、一面に水田が拡がっていた。