多くの作家や画家たちが去来した、下落合1470番地(旧1965番地:現・中落合2丁目)の「目白会館・文化アパート」Click!について、少し詳しく考察してみたい。このモダンなアパートが建てられたのは、第三文化村Click!が1924年(大正13)9月に販売されてから、しばらくたってのちのことだと思われる。土地の購入者は、第三文化村に自邸を建設するつもりで手に入れたわけではなく、市街地に住む“不在地主”Click!だった可能性が高い。
 目白会館・文化アパートの敷地は、箱根土地Click!が販売した同文化村地割りの東西2区画つづきの土地を使用している。販売時の区画でいえば、二間道路に面した南向きの「11号」と「12号」の土地で、「11号」の角地が86.28坪、「12号」が81坪という広さだった。つまり、同アパートは167坪余の敷地に建てられていたことがわかる。他の文化村の敷地に比べ、第三文化村の敷地は相対的に狭かったが、関東大震災後の郊外土地ブームを反映してか、坪単価が50~80円で販売されている。おそらく、販売からほどなく完売しているのだろう。
 ちょっと余談だけれど、造成した宅地へ箱根土地がふった区画号数に、縁起かつぎのためか「4号」「9号」「13号」「14号」「29号」「42号」「44号」……と、「死」や「苦」、「憎」などを連想させる数字の存在しないのが面白い。「13号」が存在しないのは、顧客にキリスト教の信者もいそうなのでマズイと考えたものだろうか? したがって、目白会館・文化アパート敷地の東半分、「12号」区画の次はいきなり「15号」として販売されている。
 1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」には、いまだ第三文化村に目白会館・文化アパートは採取されていない。しかし、1929年(昭和4)の陸地測量部が作成した1/10,000地形図には、すでに敷地へ同アパートらしい大きめな建物が採取されている。したがって、目白会館・文化アパートは1927~1929年(昭和2~4)の3年間のいずれかに建設されているのだろう。
 1936年(昭和11)以降に撮影された空中写真を観察すると、同アパートについていろいろなことがわかる。外観は、大きめな西洋館のようなデザインをしており、2階はなかば屋根裏部屋のような仕様で、部屋の天井の一部が斜めだったものか、南北を向いた大きな屋根の斜面にはそれぞれ4つずつ、切妻のついた出窓が見て取れる。2階は、おそらく廊下をはさんで両側に4部屋ずつが並び、1フロア8室の間取りをしていたのだろう。
 また、1階も同様に8部屋構成のフロアだったのだろうか? 目白会館・文化アパートは、目白通りから落合府営住宅Click!沿いに南へ入る三間道路側、つまり西に向いて玄関が設置されていた。玄関口には管理人の部屋があったかどうかは不明だが、当時のモダンなアパートにはまま備わっていた、訪問した客と談笑できるちょっとしたロビー(応接室)のような空間が、1階に設置されていたように思われる。そう想定できるのは、1938年(昭和13)作成の「火保図」に描かれた同アパートの中央部が、まるでテラスのように南側へ張りだしているからだ。南側の中央部分が、まるで凸状の出窓のようにふくらんでいるので、アパートの1階中央南側には、大きめな南向きの窓がうがたれた、応接室のような部屋が存在していたのではないだろうか?

 

 小さな管理人室があったとして、1階は広めの応接室を除けば残りの部屋数は5~6室、すなわち目白会館・文化アパートはぜんぶで13~14室の洋風アパートではなかっただろうか。部屋の中は、畳敷きの和室が存在せず、すべて板張りの洋室で構成されていた。1室の広さは6~8畳サイズと思われ、今日のワンルームマンションのような仕様だったと想定できる。なぜなら、1931年(昭和6)に同アパートへ引っ越してひとり暮らしをはじめた矢田津世子Click!は、軽部清子からカーテンやシェードのついたモダンな電気スタンドを贈られているからだ。
 矢田津世子が知人の寄宿先を出て、目白会館・文化アパートに住みはじめたころの様子を、1978年(昭和53)に出版された近藤富枝『花蔭の人 矢田津世子の生涯』(講談社)から引用してみよう。ちなみに、この時期は保険会社に勤める兄・矢田不二郎が転勤で母親と名古屋に住んでおり、矢田津世子はひとりで東京へもどってのアパート探しだった。
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 さて、津世子が笹村家から移った目白会館というアパートは、目白第二小学校の近くにあり、質素な木造の二階家で、まわりは広い空地もあり、静かな環境であった。/津世子は(笹村)雪子とともに貸間さがしをしてここを見つけた。一年以上、津世子はこの六畳のへやで暮すが、名古屋の兄はたった一度訪問しただけであった。/自分の羽の下をかいくぐって上京し、さらに独り暮しをはじめた妹を、兄はこころよくは思っていなかった。津世子と別れて暮すことは、この兄にはむしろ苦痛であった。朝夕に自分の育てる木を眺められないもどかしさは、彼をときには物狂おしい思いにさせた。(カッコ内引用者註)
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 文中に「目白第二小学校」とあるが、過去にも現在にも、そのような小学校が落合地域に存在したことはない。目白会館・文化アパートにもっとも近い小学校は、落合第一小学校Click!だった。また、アパートの周辺に空き地が多いのは、第三文化村には投機目的Click!で購入された土地が多いせいで、昭和初期の金融恐慌から大恐慌へとつづく地価の値下がり状況のなか、不在地主が宅地を“塩漬け”にしたまま値が上がるのを待っていたからだ。空中写真で確認すると、空き地は昭和10年代に入ってからも第三文化村で目立っている。
 
 
 軽部清子は、1931年(昭和6)の秋現在、当時の女性としてはめずらしく、外国映画の輸入元・三映社で宣伝部長のポストに就いていた。日本で上映された『巴里の屋根の下』や『外人部隊』、『舞踏会の手帖』などは彼女の仕事だ。当時24歳の矢田津世子より、6つほど年上で30歳前後の彼女は、なにかと津世子の面倒をみてはバックアップしていた。下落合の目白会館・文化アパートへも、軽部清子は頻繁に顔を見せている。週給40円(月200円弱)の高給とりだったらしく、津世子へ物質面での援助も惜しまなかったらしい。
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 軽部は津世子のへやに遊びにいき、クリーム色のカーテンを贈った。そのつぎにいくときは、オレンジ色のシェードのついたスタンドを持っていく。丸善の原稿用紙をごそっと贈る日もある。スーツも誂えた。軽部は、婦人画報社の顧問もかねていたので、津世子は手紙のなかで、次のようにねだっている。
 わがままな娘ですけど、おばちやんにひつぱつて頂くことを心から希つてゐます。おばちやんさへ御迷惑でなかつたら、少女小説(十五枚程)を書いてみたいと存じます。若し御序の時に御紹介頂けたらうれしいと存じます。それから婦人画報ハむづかしいでせうね。一生懸命書いてみたいと思つてゐるのですけど―― (昭和六年十一月四日)
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 軽部清子がせっせと援助していた調度品が、洋間向けであることに留意したい。また、ちょうど同時期に、矢田津世子は湯浅芳子とも親しく往来している。
 空中写真を年代順にたどると、少なくとも目白会館・文化アパートは1945年(昭和20)5月17日現在まで建っていたのが確認できる。目白通り沿いの商店街や落合府営住宅は、同年4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で大半が焼失しているのが見えるが、目白会館・文化アパートの北側で延焼が止まり、第三文化村はかろうじて焼け残っているのが確認できる。ただし、同アパートのかたちは残ってはいても、北から延びた炎になめられて半焼ぐらいはしているのかもしれない。



 目白会館・文化アパートが全焼するのは、同年5月25日夜半に行われた第2次山手空襲のときだった。同時に第三文化村の北側、目白通り寄りに建っていた邸宅群は絨毯爆撃で残らず灰になっている。矢田津世子は、下落合の大半を焼いたこの空襲に遭うことなく、1944年(昭和19)3月14日に下落合(4丁目)1982番地で、「オレ、死ぬのかな」とつぶやきながら37歳で死去している。(オレ:秋田弁=わたし)

◆写真上:下落合3丁目1470番地にあった、目白会館・文化アパートの現状。
◆写真中上:上は、1924年(大正13)に作成された第三文化村地割図(左が北)で、12号と13号が目白会館・文化アパートの敷地。中左は、1929年(昭和4)の1/10,000地形図にみる第三文化村の同アパート。中右は、1938年(昭和13)の「火保図」に描かれた同アパート。下は、上落合624番地に建てられた当時の典型的な鉄筋コンクリート式洋風アパートメント「静修園」(『落合町誌』より)。
◆写真中下:上左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる目白会館・文化アパート。上右は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された同アパート。下左は、同年撮影の別角度からの同アパート。下右は、1944年(昭和19)の空中写真にみる同アパート。
◆写真下:上は、1945年(昭和20)5月17日の第2次山手空襲直前に撮影された、焼失直前の目白会館・文化アパート。中は、目白会館の自室で撮影された矢田津世子。おそらくシェードがオレンジ色をしたデスクスタンドは、軽部清子がプレゼントしたものだろう。下は、1937年(昭和12)に文芸同人誌「日暦」と思われる作家の会合に出席した矢田津世子(中央)。隣りには、大谷藤子(左)と円地文子(右)が座っている。