1925年(大正14)3月に、金山平三Click!は下落合2080番地のアビラ村Click!へアトリエClick!を建てたが、当時、その庭から眺めた下落合から上落合にかけての耕地整理や宅地造成が進む以前の風景を、らく夫人Click!が飛松實へ証言している。1975年(昭和50)に日動出版から刊行された、飛松實『金山平三』から引用してみよう。
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 らくによれば、麦畑に続く裏の草原には野兎が走り廻っていた。前方を見下ろすと、岡の下には滾々(こんこん)と溢れて尽きない天然の泉があり、ひろびろとした原野の中ほどには落合火葬場の煙突だけが目立っていた。風向きによっては、煙が心配だと思ったが、あれは肺病によいとも言われるからと、納得して買入れたのであった。前出の絵葉書によれば、宅地購入後の諸条件を整備して、アトリエ建築の心構えをし始めていたようである。(カッコ内引用者註)
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 「滾々と溢れて尽きない天然の泉」とは、バッケ(崖地)Click!の斜面から噴出する湧き水によって形成された泉のことで、ひょっとすると島津家Click!の敷地内、のちに刑部人邸Click!の西側にあった四ノ坂下の湧水池Click!のことかもしれない。当時は高い建物などなく、金山アトリエからは上落合の西南端にある落合火葬場Click!や柏木、上高田方面までが一望できた。
 さて、金山平三はこの庭で自分の気に入らない作品を、1年に一度焚き火にくべていたが、ときには庭で、らく夫人とふたりでチロリアンダンスClick!を踊ったり、あるいは日本民謡のレコードをかけながら、ひとりで恍惚と踊りにふけることがあった。そんな様子をとらえた貴重な写真を、刑部人Click!の子孫でおられる中島香菜様Click!よりお貸しいただいたのでご紹介したい。
 3枚の連続写真に写る、金山平三が恍惚とした表情で踊っているのは、おそらく「佐渡おけさ」だと思われる。潔癖症で気むずかしい金山じいちゃんのことだから、よほど気を許した相手に「佐渡おけさ」を踊って見せているのだろう、撮影しているのは気の合う刑部人の可能性が高い。冒頭写真は、「♪草木もな~び~く~」で、2枚めが「♪ハ、アリャサ~、サッサ~」、3枚めが「♪ヨイヤサ~のサッサ~」……だろうか?
 今日は、勤務中や講義中、乗り物の中などでない限り、マイルスの『アガルタ』Click!に記載された注釈ではないけれど、できるだけ大きなボリュームで「佐渡おけさ」をBGMに聴きながら、踊る金山平三を想い浮かべて記事を読み進めていただきたい。w
 佐渡おけさ.mp3
 金山平三が蒐集した民謡踊りや邦楽、ダンスなどのディスコグラフィーは、かなりのボリュームになっていたのだろう。金山平三の趣味にまつわる遺品について、1994年(平成6)に発行された兵庫県立近代美術館ニュース『ピロティ』7月号に掲載の、木下直之「知られざる金山平三」から引用してみよう。
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 金山平三がこの世に遺していったものが山のようにある。日記帳、メモ帳、スケッチブック、西洋絵画の複製図版を丁寧に貼りつけたスクラップブック、パリ留学時代に蒐集した各地の風景絵葉書、風俗絵葉書、それに西洋美術の絵葉書、日本に戻りアトリエを新築するに際して自ら設計した家や家具のデッサン、仲間たちと興じた仮装演芸会の写真、同じく人形劇の舞台写真、そうした人形劇に使われた金山平三手作りの人形、土をひねって作った似顔人形、人形に着せたやはり手作りの衣装、文楽人形の頭のコレクション、自ら芝居を演じる写真のアルバム、邦楽レコード、絵皿、画材道具等々。
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 この中で、仮装演芸会や手作り人形Click!、芝居を演じるアルバムClick!はすでにご紹介ずみだが、金山平三の踊りについては、温泉宿の風呂場の脱衣場でひとり踊る姿とチロリアンダンスぐらいしか、いまだご紹介してはいなかった。身体を動かすことが少ない画家だが、運動不足を心配した金山平三へ踊りを奨めたのは、らく夫人だった。以来、金山じいちゃんは憑かれたように、次々と踊りやダンスをマスターしていき、その実力やレベルはプロはだしだったようだ。
 踊りは、戦時中に疎開した山形県の大石田でもつづけられ、地元の女性たちを集めては志賀山流の日本舞踊を教授していた。金山平三は、かまびすしい婦人たちを「カケス共」と呼んでは叱りつけていたらしい。「カケス共」たちは、踊りの会になるとキャーキャーにぎやかにしゃべりまくり、金山平三を困らせたり半分バカにしたりしていたようだ。飛松實の前掲書に収録の、1963年(昭和38)に発行された歌誌『郡山』12月号の板垣家子夫「大石田の茂吉先生」から孫引きしてみよう。
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 画伯はカクに(二藤部)さんや私の娘らに踊りを教えてくれていた。志賀山流の踊りだということを聞いている。娘たちを、画伯はチビ共とよんでいた。踊りを教わっているときは、娘たちにとっては恐い師匠だったが、中休みの時や終えたあとは、逆に画伯に娘たちが文句を言ったりしていた。踊りの方は、初めから母たちの受持ちになっているので、画伯は婦人連中とずっと親しくしていた。(中略) 踊りを中心にして集まる婦人連中を、画伯は総称して「カケス共」とよんでいた。この婦人たちはいけ図々しく何でも言い、画伯を困らしたりバカにしたりで、何ともうるさくガアガアしゃべるのでつけたとのことだ。男の私たちが、この婦人たちのいう一口でも言ったら、鋭い眼でにらむか叱られるに決まっている。女というものは、こういうところに徳があるものだ。
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 さて、金山平三は同じく大石田へ疎開中の斎藤茂吉Click!に、自分が仕こんだ「カケス共」の踊りを披露しようと、1946年(昭和21)2月21日に招待している。だが、斎藤茂吉は戦後の食糧難の時代に婦人たちが用意した「親子丼」にすっかり目がくらみ、金山平三が教えこんだ「カケス共」の踊りなど、もうどうでもよくなったらしい。このとき金山平三は、おそらく少なからずヘソを曲げたと思うのだけれど、のちには懐かしい思い出として許していたようだ。
 ここは、金山平三自身の証言を聞いてみたい。飛松實の前掲書より、1953年(昭和28)に斎藤茂吉が死去したあと、同年の秋に発行された『アララギ』10月号(斎藤茂吉追悼号)から孫引きしてみよう。
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 婦人連中が私の踊りを齋藤さんにお見せする催しをやりましたが、齋藤さんは板垣君の家で、その時の御馳走を聞いてゐたんぢやなかつたかしらん----それは大変な楽しみやうでした。私に『今晩のご馳走は親子丼だつす。』と舌舐りをしながら言はれましたが、実際婦人連が卵を六十余も用意してゐたので、これには度肝を抜かれました。どうして集めたかしらん、よくもまあこんなに集めたもんだと思ひました。齋藤さんは次々とご馳走が運ばれて来る都度、『ホウ、これあどうも』と悦に入つてゐられたのが、今も目のあたりに浮んで来ます。(中略) そして、もう私の踊りなんかはどうでもいいんで、ご馳走を食べるだけで、踊りなんか詰まらんといふやう……でした。
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 斎藤茂吉が死去したあとではなく、いまだ存命中だったとき、金山平三は周囲に対して「趣味のわからん、食い意地の張ったじじいだ」とでも漏らしていたのかもしれない。いや、金山じいちゃんのことだから、よほど腹にすえかねていたら斎藤茂吉に面と向かって「食いしん坊じじい」とでもいいかねないのだが、そのようなエピソードが残っていないところをみると、斎藤茂吉は踊りをちゃんと観賞しなかったとはいえ、「うるさいじじい」止まりですんでいたようなのだ。

◆写真上:下落合の金山アトリエのテラスで、「佐渡おけさ」を一心に踊る金山平三。
◆写真中上:同じく、「佐渡おけさ」を恍惚として踊りつづける金山平三。テラスのガラス戸を開け、おそらくバックにはレコードの音曲が流れているのだろう。
◆写真中下・下:1955年(昭和30)10月の、十和田への写生旅行中に撮影されたとみられる金山平三。いずれの写真も、中島香菜様から提供いただいた「刑部人資料」より。上半身はコートやマフラーなどダンディなコスチュームなのに、下は足袋を履いて草履か雪駄をつっかけているのが金山じいちゃんらしい。